第8話 ニコは幼い頃の夢を見た

 乾いた土の臭いに気づいたニコは、断崖絶壁とその向こうに見える虚無の宇宙を目の当たりにした。

 青空と宇宙の狭間。

 赤と緑の光が、青空と宇宙の黒色の間にオーロラのように揺らめいている。目前の断崖絶壁から吹き上がる風は冷たく、足元は冷気に満たされている。

「ニコ……」

 ニコの手をひいて、同じようにその神秘的な光景を眺めるのは……。その顔を見ようとすると、ニコはいつも猛烈な頭痛に見舞われる。

 そして、これが自分の幼い頃の出来事だということを思い出すのだ。

「ニコ……」

 優しい声色。

 我が子を掻き抱く母親の、その胸元で感じる心臓の鼓動のような声色。

「とうとう、使命の一族も残りはあなた一人……。本当は、本当はね……」

 言葉尻が、涙で歪む。

 声の主は鼻を一つすすって、ニコの手を握るその力を強めた。

「痛っ、ねえ、強いよ」

「……ニコ、使命を果たしなさい。これからどんな悲しいことが起こっても、あなたにどんな辛いことが起こっても、使命はそれに優先する」

 声の主は、おもむろにその場へ座ると、ニコをゆっくりと抱きしめた。

 優しい声色はどこかに消え、冷ややかなそれに変わっていた。その代わりに、ゆっくりと抱きしめるその温もりが、吹きすさぶ寒さからニコを守ってくれるようだった。

「これを持ちなさい」

 手渡されたのは、一本の小太刀のような杖だった。持ち手のある方の先端には、橙色をした宝石が、呼吸をするように発光している。

「これは……でも……」

 幼いニコでさえ分かっていたこと。

 この杖は、とても大切な杖。

 一族の使命を遂げるために不可欠な杖。

「ニコ……。これはもう、あなたにしか出来ないことなの……。私では、もう使命を果たせそうにないから……。あなただけが、最後の希望」

「そんな、嫌だよ!そんなの……」

 声の主が、ニコの頭を抱きしめた。それ以上は言わせない、とばかりに。

「ヤルータ。ニコを頼んだわよ」

「嫌だ!ダメだよ!――も一緒にいかないと!」

 確かにニコは声の主の名前を叫んだはずだった。

 だのにその名前は思考の靄の中にかき消えて、ニコ自身にも聞き取れなかった。

 声の主がニコを抱きしめていた腕をほどくと、そっと引き離した。すがろうとするニコをやんわりと拒絶すると、ニコの肩に猛禽の鉤爪がかかる。

「ヤルータ!戻って!戻れ!戻れって言ってるんだよ!!!」

 鉤爪の主はその大きな翼をひとつ打って大空へと羽ばたいた。

 気流に乗ってあっという間に飛翔すると、その場に残った者の姿はみるみる小さくなり、そしてその顔はやはり見えなかった。

 ただ、その表情はどこか安心したような、あるいは悲しみに暮れたような、複雑な顔をしているように見えた。

「ニコ、まあるい世界をつくるのよ」

 残った者は、断崖絶壁に背を向ける。両腕を大きく広げて、青空と宇宙の間に作られたその絶壁に身を投げる。

 突風がその者の身体を押し上げると同時に、砂が風に舞い上がるように崩れていった。

 全ては、一瞬の出来事だった。

 肩を掴む鉤爪の痛みも忘れて、ニコは身体をねじらせ、その断崖絶壁へと、残った者が塵となって消えたその場所へと戻ろうとする。

 肉に食い込んだ鉤爪は、彼を全く離してはくれなかった。

「あああぁぁぁぁーーーっっ!!!」

 左右に、地平線まで続く断崖絶壁と、その絶壁の向こうに見える宇宙空間。

 切り裂くように冷たい風が、ニコの身体に襲いかかる。

 慟哭は、地平の果てまで届くかのよう。大粒の涙はとめどなく溢れ、鉤爪の主が羽ばたくたびに遠く離れた地面へと落ちていく。

「あああぁぁぁぁーーーっっ!!!」

 ニコは、泣き続けた。

 ニコは、叫び続けた。

 しかし無情な鉤爪の主は、最後の命令を遂げるために飛び続けるのだった。

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