君と桜の話

@hikari-book

第1話

「余命半年です。」

 医者にそう告げられた時、彼女は一体どんな思いだったのだろう。彼女が死んだあの時から、僕は春が訪れると憂鬱な気分になるのだった。





 7年前、僕は妻を病気で失った。いつも優しく微笑んでいて、花が大好きな人だった。特に春、彼女の希望で庭に植えた桜の木が満開に咲き誇るのを、嬉しそうに眺める姿は今でも容易に思い出せる。あの日もよく晴れた春の日だった。家事をしていた彼女が突然倒れたのは。


「末期の大腸癌です。」

 確かに医者はそう言った。風が強く、桜がよく散っていく日だった。にわかには信じられなかった。しかし、淡々と進められていく入院の手続きや、治療の説明などで、嫌でも事実を実感させられたのだ。薬の副作用で、美しかった長い髪が抜け落ち、段々と生気を失ってゆく彼女を見守るのは本当に辛かった。それでも、

「来年、来年まで一緒に桜を見よう。」

 そう2人で誓い合い、僕達は未来を夢見ていた。


 1つき、2つきと時が過ぎる度、どうして僕は気づくことが出来なかったのか、何故僕ではなく妻が病気にかかったのか、そんな自責の念は強まるばかりだった。まさか妻にそんな話が出来るはずもなく、仕事でのミスは続き、家に帰れば酒を飲み、泥のように眠る日が続くのだった。


 医者の宣告した余命である半年が過ぎても、彼女は闘い続けていた。2人で交わした約束を果たすために、闘い続けていた。すっかり痩せこけて、桜の枝のように細くなってしまった腕にはしかし、彼女の強い意志がこもった、とうとい血が強く、強く流れていた。そんな妻を見ていると自分の生活が情けなくなり、この時から僕もやっと前を向くとまでは行かずとも、少し目線を上げて進むことはできるようになったのだろう。


 年が明けて2月になった頃から、彼女の容態は急速に悪化して行った。元々白かった顔は青白く、痛みに苦しむ姿も増えて行った。そんな彼女に僕は何をしてやれたのだろう。いつ死んでしまうのか分からない恐怖に怯える彼女に、何をすれば良かったのだろう。僕にできたことは、ただ、ただひたすらに手を握り、話しを聴いてあげることだけだった。


 そして4月、桜の蕾が膨らみ始め、咲き誇ろうとする季節になった。暖かい日もだんだんと増え、身体中に管をつけた彼女に、

「今日はとても暖かい、なんとも散歩日和な日だよ。」

 そう伝えると、静かに微笑みを返してくれた。僕の大好きだった彼女の微笑みだった。

「今年も桜、見れそうだね。」

 そう言って彼女の手を握るのであった。


 数日後、明け方にふと目が覚めた。雨が降っていた。妙な胸騒ぎがして寝付けなかった。七部咲きと言われていた桜は散ってしまうだろうか、そんなことを思うと、妻の顔が見たくなった。陽は昇りかけだったが、病院へ向かった。病室へ行けない事は分かっていたが、家には居たくなかった。病院へ着く頃には雨は上がっていた。

 時間になり急いで病室へと向かった。彼女は僕の顔を見るなり泣きだしそうな顔をした。そして、

「ごめんね」

 そう掠れた声で言った。その後も何かを伝えようとしてくれたが、彼女の身体は限界だったのだろう。彼女の声はけたたましく鳴る電子機器の音にかき消された。



 桜は、散っていた。





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