宗谷【巡視船】⑤
SOYA【Patrol boat】
【第五・六次南極観測、巡視船編】
【南極観測一区切り 後継【ふじ】にバトンタッチ】
第二次南極観測で苦い経験をした【宗谷】ですが、三、四と順調に任務をこなし、4月23日に東京に戻ってきました。
しかしもともとガタが来ている船体を無理矢理に改造して運用している中、いよいよこの過酷な環境で使い続けるのは不味かろうという議論になります。
加えてパイロットも不足していることから、今までの通り毎年毎年観測隊の交代と派遣ができる状態でないことも議題に上がります。
そこでついに【宗谷】の南極観測船としての任務にピリオドが打たれることになったのです。
彼女の任務は昭和37年/1962年まで。
つまり、残るは第五次、第六次まで。
【宗谷】が天然の大地への冒険に向かうのは、あと2回。
この時同時に議論に上ったのが、南極観測そのものの継続の是非です。
これまで数多の研究材料を日本に、世界にもたらした南極観測ですが、当然経費がかかりますし、【宗谷】が南極観測船としての役割を終えることから、「昭和基地」を閉鎖して日本の南極観測にも区切りをつけたほうがいいのではないか、という話も持ち上がったのです。
しかし当時はまだ日本の国際的発言力も決して大きくはなく、平和に世界と協力できる南極観測事業は政治的にも科学的にも重要な位置づけでした。
日本学術会議の観測継続の提言もあり、昭和40年/1965年までの4年間の休止期間を経て、改めて観測をスタートすることで決定しました。
一方【宗谷】は、帰国することになったタロのための小屋、トルクメーターの設置、各種補強を施して、9月30日に第五次観測に向けた整備が完了します。
一方観測機として同じく整備されていた「S58型」202号機が、試験中に大破してしまい、慌てて海上自衛隊より対潜哨戒ヘリ「HSS-1」を借りることになります。
「HSS-1」は203号機として使われることになりますが、しかしこの影響で出発が1週間遅れることになりました。
昭和35年/1960年11月12日、第五次南極観測隊が東京を出発。
この時すでに報告が入っていたとは思いますが、10月10日に、第四次越冬観測隊の一員だった福島紳氏が遭難してしまい、1週間後に死亡扱いとされています。
犬小屋へ餌をあげに行くために福島氏は基地を出ますが、100mも進まないうちに同行していた吉田栄夫氏と離れ離れになってしまいました。
当時はブリザードが吹き荒れており、視界も非常に悪く、声もほとんど届きません。
1週間ヘリや雪上車も使って探し続けましたが、ついに発見することができず、17日に死亡が認定されてしまいました。
当時30歳の若さで、彼は第一次、第三次越冬観測隊に参加し、犬担当だった北村泰一氏と同級生。
志願のきっかけは、第一次観測後に北村氏からの南極談義を聞いたことだったといいます。
なお、彼の死体は8年後の昭和43年/1968年2月9日、基地から4km離れた西オングル島で発見されました。
偶然にも、この時南極にいた第八次越冬観測隊・第九次越冬観測隊には、当時の第四次越冬隊の隊員が7人もいました。
そこには、最後に彼を目撃した吉田氏もいました。
彼の死を悼み、最後に福島氏が目撃された基地から100m地点には、「福島ケルン」という石塔が建てられています。
南極観測隊初めての死者となりました。
さて、【宗谷】出発後ですが、11月30日に観測隊員の1人が虫垂炎を発症。
幸い手術の難度が高い疾患ではなかったため、船内で手術が行われて事なきを得ています。
昭和36年/1961年1月7日、暴風圏を突破して見慣れた流氷域へ到達。
慣れた作業で観測機を飛ばし、無理をせずに簡易ヘリポートを造成。
今回は前回より少し離れた約82km地点からの空輸が始まりました。
13日に天候悪化を受けて一時流氷域から離脱し、天候回復までは観測業務を行います。
19日に再び進入し、第二期空輸が始まりました。
第二期空輸は25日までで、30日から4日までにさらに第三期空輸が実施され、その時に奇跡の生還を遂げたタロが収容されています。
特に大きなトラブルもなく、越冬隊の交代、資材運搬を終えた【宗谷】は次は海域観測の任務へ映ります。
出発の翌日にまたも虫垂炎患者が発生しますが、これも手術が成功して大事には至っていません。
ここから【宗谷】は海域の観測調査を実施し、プリンスオラフ海岸を中心とした地形、大陸沿岸の略図などの作成を行いました。
3月3日に今回の観測任務を終了しますが、この時新しい試みとして、ケープタウンのある南アフリカの東側、マダガスカル島よりも東にある小さな島、モーリシャス島へ寄港することが決まりました。
この時のモーリシャス島はまだ独立しておらずイギリス領で、あのドードーが固有種として生息していた島です(余談ですが、ドードーは発見されてから100年足らずで人の手によって絶滅させられています)。
モーリシャス島は特殊な生物が多いため、2泊3日と短い期間ですが、生体の資源調査という目的で寄港することになりました。
3月31日から4月2日までモーリシャス島に立ち寄り、日本に戻ったのが5月4日。
帰港が5月になるのは6回の観測任務で唯一のことでした。
5月13日、【宗谷】は第六次観測後は北洋警備の巡視船としての任務に就くことが決まりました。
昨年出発直前に大破した「S58型」202号機も無事復帰し、10月30日、最後の南極航海に出発します。
今回は今までより早く12月24日には流氷域近辺に到達しており、まずは周辺の氷上調査を行います。
昭和37年/1962年1月5日、氷海に進入。
今回はまだ地図ができていない東経35度から45度付近の航空写真測量を行うことになっていたため、初めて昭和基地から観測機が飛ぶことになりました。
そのセスナ機302号機が分解された状態で7日に輸送され、9日には組み立てが完了。
翌10日には飛行場の整備も完了し、15日から早速観測が開始されました。
この時の天候はあまり良くなく、輸送や観測には中止・移動がつきまといました。
幸いだったのは、今回は越冬隊がいないために輸送量がこれまでよりも少なく済んだことです。
1年分の物資の有無はかなり影響するでしょう。
しかしセスナ機回収の際、主翼を入れたコンテナが風に煽られてコンテナを吊り上げていた「S58型」201号機に接触。
応急処置はできたものの、先の通りコンテナに主翼を入れて輸送するのが危険な状態になります。
止む無く主翼をそれぞれ半分に切断し、201号機、202号機の機内に入れて輸送することになりました。
昭和37年/1962年2月9日、【宗谷】出発。
無人となった「昭和基地」は一時閉鎖され、【宗谷】も天然の大地、白銀の大地、最古の大地へ別れを告げます。
南極大陸、荒波と氷海に守られた未知の宝庫。
その重厚な扉を開いた【宗谷】の総航程は、23,228海里、43,018km。
4月17日、東京日の出桟橋に帰投、26日、荷揚げ完了。
【南極観測船 宗谷】全任務が終了しました。
【不可能を可能にする強運と奇跡の船 40年の歴史に幕】
日本は6回の南極観測によって様々な実績を残し、少しの休養期間を経て、南極観測は海上自衛隊が建造する、二代目南極観測船【砕氷艦 ふじ】へとバトンが渡されることになります。
自衛隊管轄となったことから、船ではなく「艦」としての表現が使われています。
【宗谷】はこの時点で竣工から25年目で、南極観測船としてだけでなく、単純に船の寿命としてもかなりの老齢でした。
しかしこれまで【宗谷】に次ぐ砕氷船が建造されなかったこと、また次の【ふじ】が完成したところで、それは巡視船としての任務に就く可能性はかなり低いことから、やはり砕氷能力がある【宗谷】の存在は欠かすことができなかったのです。
昭和37年/1962年6月15日から、【宗谷】は砕氷船としての改造が行われた日本鋼管浅野ドックで不要となった機材や設備の撤去が行われました。
本来ならオレンジ色の塗装も白色に変えてもいいのですが、この色は残されることになりました。
8月3日、北海道第一管区釧路海上保安部へ向かい、いよいよ巡視船としての、そして【宗谷】最後のお役目が始まります。
8月24日、サケ・マス漁業監視任務を終えて函館港へ入港。
同時に第一管区所属の全巡視船を集合させた観艦式が行われました。
列席者の中には、かつて【宗谷】の舵をとっていた人物もいます。
松原周吉元船長。
彼は灯台補給船時代の【宗谷】の最後の船長で、この時は函館海上保安部長でした。
盛大に行われた観艦式。
しかしその日の深夜、火山大国日本に自然の驚異が襲いかかります。
三宅島の雄山の噴火です。
【宗谷】は海上保安庁最大の船です、必要になる可能性も高く、急遽東京湾へ向かいます。
幸いこの時の噴火は大規模なものではなく、【宗谷】が出動することはありませんでした。
【宗谷】が出動したのは、9月14日です。
念の為疎開していた子どもたち約2,000人を乗せ、三宅島まで送り届けました。
以後、【宗谷】は観測協力や警護、警備、救護、訓練、慰霊等々、ありとあらゆる任務で活躍します。
特に主任務である北洋警備は、砕氷船としての経験と船体装備が非常に価値のあるもので、普通の巡視船では対応できない任務でも【宗谷】がいたから大丈夫というケースも珍しくありませんでした。
昭和39年/1964年4月には流氷に挟まれた漁船5隻の救助に向かった【巡視船 てんりゅう】が、自身もまた挟まれてしまい、最終的には【宗谷】によって全員が救助されました。
昭和40年/1965年7月15日、【砕氷艦 ふじ】が二代目南極観測船に就役。
この時これまで【宗谷】が採集してきた膨大な観測データを元に作り上げられた、南極の詳細な海図が【ふじ】に渡されています。
昭和45年/1970年、【巡視船 宗谷】最大の救難活動となる事故が発生します。
3月16日、19隻の漁船が吹雪と流氷に襲われ、1隻が陸に乗り上げ大破、5隻が沈没や行方不明となり、乗員のうち30人が死亡・行方不明となり大事故が発生。
生き残った84名は自力で択捉島まで流氷を伝って脱出しました。
残念ながら事故の報告を受けてから現地に着くまでに時間がかかり、海上で生存者を救助することはできませんでしたが、【宗谷】は択捉島単冠湾でソ連の保護を受けていた生存者を乗せ、氷を破壊しながら釧路港へと戻っています。
捜索活動は【巡視船 だいおう・りしり・えりも】と協力して行われています。
この時の教訓から、昭和38年/1963年から【宗谷】が所属している北海道第一管区海上保安部には流氷情報センターが設置され、流氷観測と通報体制の強化が図られました。
また、この出来事は特に北洋で漁業にあたっている漁師の人たちで話題となり、いつしか【宗谷】は「福音の使者」、「北洋の守り神」と呼ばれるようになりました。
昭和45年/1970年4月、【宗谷】はオレンジ色の塗装から、灯台補給船時代を思い起こさせる純白の塗装へと塗り替えられました。
またこの頃から徐々に練習船、訓練船としての役割も色濃くなります。
依然として海上保安庁屈指の大型船であり、多くの訓練生を乗せた長期航海には最適で、しかも南極観測船を担ったことから船内設備も充実しています。
そのため航海とその間の生活習慣、任務を学ぶにはうってつけでした。
(この時【宗谷】はまだ旗艦だったのかが知りたい。)
昭和49年/1974年1月、紋別市の海岸からもしっかり視認できるほどの流氷がやってきます。
海上保安庁は漁船に対して出港の自粛を促しましたが、1隻が強行出港すると後を追ってさらに9隻が出港。
止む無く【てんりゅう】が護衛につくのですが、やはり流氷の量は容易くしのげるものではなく、10隻のうち8隻は自力で、2隻は【てんりゅう】によって帰路を作ってもらうことでなんとか脱出しました。
しかしこの時またも【てんりゅう】が反転が間に合わずに流氷に閉じ込められてしまい、【宗谷】はこれを救助しています。
昭和52年/1977年8月1日、かつて【宗谷】が務めた灯台補給船の役割が廃止され、【宗谷】の後を継いでいた【若草】も解役されます。
同任務は【巡視船 つしま】が兼務することになりました。
そして、灯台補給船の廃止とともに、いよいよ【宗谷】の退役も現実的な議題となってきました。
驚くべきことに、この翌年には【ふじ】の5年以内の観測船引退が決まっています。
【宗谷】の後を継いだ【ふじ】が、ほぼ同時期に引退についての話が持ち上がっているのです。
昭和53年/1978年3月12日、【宗谷】最後の救助活動。
稚内に侵入してきた大量の流氷が港を氷漬けにしていまい、船は完全に閉じ込められてしまいました。
一向に溶けゆく気配を見せない流氷群に対し、稚内市長は海上保安庁に【宗谷】による救助を要請。
これは海上保安庁が【宗谷】を向かわせたのではなく、市長が【宗谷】を指名したそうです。
稚内の先には、【宗谷】の名前の由来となった「宗谷海峡」が存在します。
厚さ1.5mを超える流氷に対し、【宗谷】は勢いをつけて氷に突っ込み、真っ二つにしていきます。
砕氷が進み、無事港内に取り残された41隻は脱出することができました。
この時【宗谷】の煙突からは煙だけでなく火の粉や炎が上がったと言われています。
命を振り絞って氷と戦う【宗谷】の姿がそこにありました。
昭和53年/1978年7月3日、【宗谷】の引退が決定します。
そして同時に、彼女は解体ではなく、その偉大なる航跡、輝かしい功績を世に伝えるため、保存されることが決まりました。
【特務艦 宗谷】乗員たちの戦友会「軍艦宗谷会」
南極観測隊員たちで結成された「南極OB会」
多くの自治体や国民
これらの声が集まって、【宗谷】は今もなお私達に昭和という時代の歴史を伝えてくれています。
最後の任務は全国14の港を巡る「サヨナラ航海」。
このような船は後にも先にも【宗谷】しかいないのではないでしょうか。
なにせ、全国で知られている船でなければ実施が難しい任務です。
【宗谷】という船がどれだけ日本国中に大きな影響を与えたか、改めて感じることができる任務だと思います。
福井をスタートし、京都西舞鶴、山口門司、広島、香川高松、兵庫神戸、愛知名古屋、神奈川横浜、東京、宮城塩釜、北海道函館、北海道小樽、新潟、青森と、1ヶ月かけて各地を訪問。
福井県では福井新港開港記念式典にも参加しています。
青森港では17,000人もの人たちが見学に訪れたそうです。
9月3日に【宗谷】はすべての任務を終えた、はずでしたが、最後に稚内の青年会議所から海上保安庁へ陳情がありました。
「最後に【宗谷】を、もう一度稚内へ」
9月23日、【宗谷】は宗谷岬を抱え、その先に宗谷海峡を見、ある意味では母港とも言える宗谷湾内にある稚内港へ到着。
(恐らくですが、航路は函館から利尻水道を経由する西側ルートで、宗谷岬と宗谷海峡は通過していないと思われます。)
1万人を超える見学者に迎えられ、【宗谷】はついに、本当に最後の任務を終えました。
この任務までの15年間、【宗谷】は巡視船として125隻と1,000人以上の救助を行い、350件以上の海難救助出動を行いました。
28日、晴天の中、【宗谷】は「ご幸福を」の意を持つ『UW1』の国際信号旗掲げ、函館港を出港。
15年慣れ親しんだ函館とのお別れ、そして保存先となった東京へ向けての、【宗谷】最後の航海です。
昭和53年/1978年10月2日、竹芝桟橋にて解役式を迎えます。
歴代の船長、艦長、歴代の海上保安庁長官、南極観測隊員など、【宗谷】と苦楽を共にした大勢の人たちが出席しました。
そして、巡視船の解役式に現役の海上保安庁長官が出席した唯一の例でもあります(2018年4月時点)。
国旗、海上保安庁庁旗、長官旗が降ろされ、有安欣一船長から高橋壽夫海上保安庁長官に返納されます。
これを持って、【巡視船 宗谷】、そして、海上保安庁所属の【宗谷】の歴史は幕を下ろしました。
竣工日:昭和13年/1938年6月10日
退役日:昭和53年/1978年10月2日
活動期間:40年3ヶ月22日
ソ連のために造られました。
砕氷船として従事するも、すぐに太平洋戦争のために南方で働きました。
修理を受けて灯台補給船となりました。
改造されて6回南極に行きました。
15年間巡視船として働きました。
箇条書きにすればこの5行の歴史である【宗谷】。
この5行の中に、40年間の生き様が詰まっています。
「不可能を可能にした強運と奇跡の船」
これは保存先の「船の科学館」の当時の艦長笹川良一氏の言葉です。
恐らく彼女に関わった全ての人が頷く言葉でしょう。
戦争の生き証人【宗谷】。
日本全国、国も企業も人も、みんなが「南極」という一つの目標に向かって突き進んだあの瞬間の中心にいた【宗谷】。
「灯台の白姫」「福音の使者」として、過酷な海で漁や灯台の守り人を続ける多くの人たちの守護神【宗谷】。
奇跡だけではない、絶大な信頼を寄せられていた【宗谷】は、今年(2018年)で進水から80年を迎えます。
海に浮かぶ【宗谷】は、いずれ止む無く解体の日が来るかもしれません。
今も莫大な維持費がかけられています。
しかし、たとえ実体がなくなっても、語り継がれるものがあれば【宗谷】はなくなりません。
【宗谷】だけでなく、歴史の全ては今在る人によって生き続けています。
歴史を歴史として残していくことの大切さを、【宗谷】は今も洋上から伝え続けています。
最後に、2014年に南極観測へ向かう【2代目 しらせ】に対して【宗谷】が汽笛を鳴らすシーンがニコニコ動画にあげられています。
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