海辺を走る沃野

朽網 丁

海辺を走る沃野

 久しぶりにじいちゃんの家に来てみると、庭の奥にある蔵が大きくひしゃげていた。この光景を見た時初めて、母さんからの突然の電話で聞いた話に半ば疑ってかかっていていたことに気付いた。

 相変わらず開閉に際して大いに軋む玄関の扉を開けると懐かしい匂いがする。しかしこの郷愁を誘う匂いが一体どこから発せられているのか、それは判然としなかった。お香に似ているけど、どうも違う。積もった埃とか日をたっぷり浴びた古い木とか、これはもっと複雑で、重なった時間を感じさせる匂いだ。そう簡単に解明できるものではないのだろう。

 廊下を進んだ先に居間がある。障子戸を開けると、中にはもう既に家族が揃っていた。

「あんた遅いじゃない」

 母さんが咎める調子で言った。

「電車止まった」

 嘘だ。本当は寝坊した。

「あんたと違ってあたしは忙しいんだから余計な時間取らせないでよ」

 咲恵は母さんよりもずっと鋭い剣幕だったけど、それには取り合わない。

「咲、今日休みじゃないの」

 恵花は咲恵にそう聞いた。

「そう、これから休日出勤。ほんと嫌になる」

「しっかりブラックに就職しちゃって、可哀そうに。まあ、咲の学歴じゃあしょうがないわね」

「別にあたしの学校普通なんだけど。恵花姉と比べるのやめてよ」

 咲恵は不機嫌そうに携帯の画面を眺め始めた。スーツを着ているのに、座布団の上で胡坐をかいて携帯をいじっている咲恵の姿は、俺の目には奇妙に映った。パンツスタイルなのが申し訳程度の品性を保たせている。

「恵は?」

「来ないわよ、受験生なんだから」

 俺は母さんに聞いたのに、答えたのは恵花だった。咲恵とは異なり、恵花は私服だ。目を伏せて湯呑を口に運ぶ仕草は実に端然としていて、一本の剣のように伸ばされた背筋も寄木のように精妙に織り成された正座も、実姉のことながら綺麗だと思うには十分なものだった。その所作は既に身に染みた習慣の色を窺わせ、それを見た俺は良家に嫁ぐとはそういうことかと、遅ればせながら気づいた。

 俺には姉が二人と妹が一人いる。二つ上の咲恵と三つ上の恵花、そして四つ下の恵。姉二人は既に就職しており、恵花に至っては昨年結婚した。恵は大学受験を来年に控えている。今日の家族会議に顔を出さないのも受験勉強が忙しいからだという。

 俺はテーブルを挟んで姉二人と対面になるような位置に移動した。母さんの隣になるのもあまり居心地がよくなかったので、母さんの隣にあった座布団を少しずらして座る。結局は三人から距離を取る形になった。

「てか、肝心のおじいちゃんは?」

 咲恵がなおも携帯を操作しながら母さんにそう聞いた。

「町内会行っちゃったのよ」

「車で?」

 咲恵の問いに、母さんは頭痛がするといった表情で頷いた。確かに俺が来た時、庭にじいちゃんの軽トラは停まってなかった。今日ここに家族が集まった目的を考えると、これは看過できない出来事だった。

 そもそも今日家族が集まったのはじいちゃんが車の運転を誤り、庭の蔵に衝突したことが原因だった。先日突然母さんから、話し合わなければならないことがあるから都合の良い日を教えてくれという連絡があり、その際に簡単に事情を聞いていた。母さんが所用でじいちゃんの家を訪れると庭で損壊した蔵を発見し、じいちゃんを問い詰めたところブレーキとアクセルを間違えたために車で突っ込んだことが発覚した。このことから今後人を巻き込んだ事故を起こさないとも限らないということで、何かしらの対策を講じるために召集されたのだった。

「呆れた、あんな事故起こしておいてまだ運転するなんて。母さんもしっかり止めないと、そのまま運転させたら今日集まった意味がないじゃない」

 咲恵は普段から言葉遣いが荒かったが、今日はそれに輪をかけて鋭い言葉が多いように思う。どうにも常時不機嫌というふうに見える。さっき口にしていた休日出勤がよほど不服なのかもしれない。

「咲、あんたお母さんになんて口利いてんの」

「だってそうじゃん。今日集まったのってどうやっておじいちゃんに車乗るの止めさせるか話し合うためなんでしょ。このまま運転続けさせるんだったら今日集まる必要だってなかったじゃない」

「私は口の利き方どうにかしなさいって言ったの。咲の意見自体は真っ当だと思う」

 つまり舌鋒の鋭さに違いはあれど母さんは二人から糾弾されていることになる。それは母さんも分かっているようであり、またじいちゃんの運転を容認してしまったことの自責も感じているようで、表情は暗い。

「じいちゃんが頑固なの、二人も知ってるだろ」

 つい出してしまった助け舟だったが、二人は納得したようだった。実際のところじいちゃんはそれくらい頑固な性格だった。

「もう免許返納させればいいんじゃない」

「それが一番楽かもね」

 咲恵と恵花の意見はそこで一致したようだ。俺も正直それが最も堅実な方法だとは思う。じいちゃんが素直に説得されるとは思えないが、ほかに有効な案を思いつかないのも事実だ。しかしこの場において母さんだけがこの案に納得がいっていないようだ。

 母さんテーブルの一点を見つめて深く考え込んでいたが、やがて面を上げると「でも、おじいちゃんね」と話し始めた。

「一度高度化講習受けるよう言われてからは、認知トレーニングとか頑張ってたみたいだし、ちょっと間違えただけで免許取り上げちゃうのは可哀そうだと思うの。ほら、おじいちゃんって車の運転くらいしか趣味ないじゃない」

 母さんはそれがまるで我がことであるかのような悲愴な表情を浮かべていた。

 聞くと高度化講習とは認知機能の低下が見られる高齢者が受ける専用の講習らしい。俺はじいちゃんがそんな診断を受けていたことも、講習を受講していたことも、認知トレーニングを積んでいたことも知らなかった。つまりじいちゃんがそれほど車の運転に執着していたことは俺には予想外だった。

「でも、じゃあどうする? さすがに外で事故起こされたら堪らないよ」

 恵花の言葉に居間の空気は微妙に停滞した。

「やっぱり誰かがおじいちゃんの運転に付き添うべきだと思うのよ」

 そう言う母さんの声はもう既に懇願の調子を帯びている。それが到底受け入れられない提案であろうことは母さんもよく承知しているようだ。

「あたしは無理よ。仕事あるし」

「私も仕事と、あっちの家族との付き合いがちょっとね」

 案の定と言うべきか、咲恵と恵花はほとんど間髪入れずに反対した。正しくは反対ではなく、自身のみを視野に入れた避難にほかならないわけだが。一方で俺は二人のように、そのための術を持ってはいないのだった。

「なら、あんたやりなさいよ。暇でしょ、どうせ」

 咲恵から俺に向けて発せられたこの言葉は想定内のものだった。俺は落ち着いて反駁した。

「暇じゃねえよ。俺だってバイトしてるし、やらなきゃいけないことだってあるんだ」

「バイトごときでそんな偉そうにされても困るんだけど。それにやらなきゃいけないことなんてないでしょ」

「あるんだよ」

「何があるのよ」

「色々だよ」

 咲恵が呆れたように息を吐いた。これまでの咲恵の言い分と今の態度で俺は猛烈に腹が立っていた。自然と眉間に皺が寄っていく。

「いちいち喧嘩するんじゃないの、子供じゃないんだから。でも、咲の言い分は正しいわよ。私も咲も母さんも、あなたと違ってちゃんとした職に就いてる。この中で一番時間の融通が利くのがあなたなのは間違いないでしょ」

 恵花は有する言葉にも態度にも険を含ませてはいないが、それでも他者から向けられた事実というものには十分すぎるほどの鋭さが備わっていた。

「でも俺免許持っていないし、一緒に乗っても何もできねえよ」

「ただ隣で見ていてくれたらいいのよ。眠そうじゃないかとか、スピード出しすぎてないかとか」

 そう言う母さんはどこか光明を見ているような感じで、ともすれば元々俺一人にじいちゃんの付き添いを任せる魂胆だったのかもしれないと、思わせる表情だ。

「あんたまだ免許持ってないの? いい歳した男が情けない」

「咲恵だってどうせペーパーだろ」

「こういうのは持ってることに意味があんのよ」

 始終こんな調子だったので労した時間の割に得られた進行は微々たるものだった。咲恵が出社しなければならない時間になり、結論を急がれた一座は俺に任を押し付けるということで当面の解決策を得たのだった。


「いいじゃん。お前昔はおじいちゃん子だったろ」

 向かいに座る新座がそれほど関心があるわけでもないように言った。しかし数か月振りに会った友人からいきなりされた愚痴話に関心が持てないのは、無理らしからぬことかもしれない。

 あの忌々しい家族会議から数日、俺は高田馬場で飲んでいた。対面に座る新座は小学校と中学校が同じで、卒業後も都合が合えば飯を食いに行ったり旅行に行ったりと、何かと付き合いが絶えない。小中高いずれも在学中はそれなりに友人がいたが、卒業後にも関係が続いているのは新座くらいだ。共に過ごす時間は俺にとって少なからず心地よいもので、成人した今でも時折飲みに誘われると純粋に嬉しいのだ。

「でもそうか、お前まだ免許取ってなかったんだな」

 新座は昔からの好物のたこわさを口に運びながら、言った。瀟洒な新座はその発言に特に含みを持たせたつもりはないのだろうが、先日にも同じことを厭味を込めて言われた身としては心穏やかではない。

「どうせ俺は大学に行かず、免許も取らず情けない男だよ」

 つい不貞腐れてしまう。

「何だそれ。別にそんなこと言ってないだろ」

「……そうだった。ごめん」

「何卑屈になってるんだか」

 新座は素っ気なく言った。もしかしたら今のやり取りで気分を害したのかもしれない。そっぽを向いて酒の入ったグラスを傾ける時、俺は新座があまり機嫌がよくないのだと勝手に決めつけている。

「今って大学は忙しいの?」

「卒論があるからな、朝から晩まで研究室にいる」

 高校を卒業してからは、俺の方から新座をどこかに誘うことはなくなった。俺が持っている時間と新座が持っている時間の価値が同じではなくなったことがその原因だ。大学にも行かずバイトばかりしている俺が、大学に入ってから明らかに忙しそうになった新座から時間を奪える道理はないのだった。常に余暇を持っている俺と雀の涙ほどしかそれを持っていない新座とでは、その価値に大きな差が生じていることもまた、道理だった。 

「お前はどうなの。最近あんまり更新されてないけど」

 大学に行かずフリーターになったのにはちゃんと理由があるつもりだ。受験を目前にした俺はふと、音楽で食べていきたいと漠然と思った。俺は勉強が嫌いだったし、歌には自信があった。専門学校に行く経済的余裕はうちにはなかったから、フリーターになることにした。自分の音楽がお金になるまでの期間をしのぐつもりで、とにかく当座に必要な費用を稼ぎ、空いた時間を曲作りに費やした。今は動画サイトに自作の音楽を投稿することで簡単に人に聞いてもらうことができる時代だし、デビューするのはそれほど難しいことではないと考えていた。そういう時代に生きていることを幸福に思っていた。

「まあ、ちょっと最近上手くいかなくてさ」

 新座は「へえ」と含みを持たせるような返事をした。

 数年前、俺が動画サイトに投稿用のアカウントを開設したことを伝えると、新座はすぐにすぐにお気に入り登録をしてくれた。それから俺が新曲をアップロードする度に視聴してくれている。俺は正直新座のそうした行動はただの気遣いで、アカウントを教えたことで曲を聴くことを強要しているような気がして、申し訳なさと後悔がいつも胸の裡にあった。最近曲作りから遠ざかっていることの理由の一端にでも、それが関与してればいいと、俺は思わずにはいられない。

 飲みに行くときは決まって俺からそろそろ帰ろうかと提案する。すると新座は――これも決まったことだが――終電ぎりぎりまで飲むのだと言って聞かず、店を出る頃には足取りも危なげになる。俺の方からもっと飲もうと提案したことはないし、新座が一度で俺の提案を受け入れることも今までなかったように思う。だから新座が勘定のために店員を呼ぶのは今日が初めてだろう。店を出た後もいつもとは違い、俺の肩を借りずに確かな足取りでずっと俺の三歩くらい先を歩いている具合だった。


 頬に軽い衝撃を受けて目を覚まし、自分が眠っていたことに気づいた。傾いていた首を起こすと、右肩から口まで涎が糸を引いている。ダッシュボードの中からティッシュを一枚取ってそれを拭き取り、湿った襟元に鼻を近づけると唾液の臭いがして顔をしかめた。

「お前が寝てどうすんだ、だらしがねえ」

 右側から声がして見ると、ハンドルを片手で握って運転するじいちゃんが座っている。

「ちゃんと両手で持てよ」

「そんなもん関係あるか。運転できないくせに知ったふうなこと言うな」

 眠りから覚めて早々の面罵に嫌気が差して、何も言わずに身体を伸ばした。ところが狭い車内では腕が天井にぶつかってしまい、凝り固まった身体を満足いくまでほぐすことはできなかった。曇天の下に広げられた人気のない海岸が、視界の届く限り先まで続いていく様が左の窓から臨める。右側の窓からは、逞しい木々が覆いかぶさってくるかと思えるほどの密度で茂っているのが見える。左右に長く続く海も山も昔と何も変わらない。圧迫してくる森と腕を広げている海に挟まれたこの道をこの車に乗って走るのは随分と久しぶりだ。

 さっきまで寝ていたにも関わらず欠伸が一つ口から漏れ出た。するとじいちゃんが前を向いたまま「ちゃんと睡眠取ってんのか」と聞いてきた。じいちゃんの性格を考えると心配からくる言葉ではないはずだ。きっとまた、だらしないとかしょうがないとか、そういう小言を言われるに決まっている。

「夜勤明けなんだよ」

「きちんと昼働いて夜に寝るんだよ。人間ってのは昔からそういうふうにやってきてんだ」

「ちょっとは時代考えろよ」

 今度はじいちゃんの方が何も返事を寄越さなかった。

 新座と飲みに行った日の夜にじいちゃんからメールが届いた。この歳でメールのやり取りができるだけ賞賛すべきなのかもしれないが、文面は週末のドライブに付き合えという旨を伝えるだけの不愛想なもので、趣味のドライブに俺を同伴させることが不服だという感じが明確に伝わってきた。しかし俺たちとの約束を守って事前に連絡をしてきたことを考えると、じいちゃんも先日のような事故を憂慮しているのだと思う。隣で見るじいちゃんの運転は特に問題ないような気がする。巡航速度もターン時の減速も基本的に緩やかで、信号よく見ている。頻繁に手を伸ばすクラッチの捌き方も冴えていて、俺の目は相変わらず格好良く映る。

「眠いなら後ろで風に当たるか?」

 ぼんやりしている俺がまだ眠いように見えたのか、そんなことを言ってきた。

「捕まるぞ」

「またビニールでも被ればいいじゃねえか。まだ積んであるぞ」

「まあ、昔はよく乗ったな」

「何が昔だよ、大げさに言いやがって。ほんの数年前じゃねえか」

 そう言って今日初めてじいちゃんが笑った。

 八十五年も生きると十年以上前のことが数年前に思えるらしい。俺にとっては感傷に浸りたくなるくらい懐かしい思い出だ。この道を走る軽トラの荷台に乗って、山の枝葉のざわめきを聞き、海岸から漂ってくる潮の香りを嗅ぎ、向かいからやってくる風を浴びて額を剥き出しにしていた。パトロール中の警察とすれ違う時はビニールシートを被って、視界が青くなる中で背徳感に胸を躍らせながらやり過ごした。

「やっぱり孫の運転する車に乗りたいとか思たりすんの?」

「何だ急に」

「いや、そういう歳かなって」

「まあ、普通はそういうこともあるかもな」

「……だよな」

 じいちゃんの運転する車にただ乗っているだけなのが急に恥ずかしくなって、ついそんなことを聞いてしまった。咲恵や恵花ならじいちゃんを乗せて運転してやることもできるだろう。新座だってもしかしたら両親や祖父母を乗せてドライブとかしているかもしれない。大学を出てちゃんとした企業に就職していたら、将来的に新しい車を贈ってやることもできるかもしれない。でも免許も職も持っていない俺にはどちらも空想だ。十余年で俺に生じた変化と言えば後ろの荷台から助手席に移ったことくらいで、依然としてじいちゃんの運転する車に乗せてもらっていることしかできない。同じ境遇に身を置く人たちの中でも、俺だけは違うという気持ちがどこかにあって今まで目を伏せてきたが、ここにきて突然それが恥ずかしいことだと感じた。

 新座にも咲恵にも嘘を吐いた。最近は曲作りなんてろくにしていない。曲を作り始めた当初は路上演奏もしていたが、それに至っては一年と続かなかった。同年代の連中は来年から立派な社会人だ。対して俺は経歴も資格もなければ熱意や野望をも失いつつあるしがないフリーターだ。横一線でスタートして途中まではずっと隣にいたやつらが、気づけば数歩先にいる。このまま何も変わらなければそう遠くない先には背中が見えなくなるに違いない。

 後ろから隣に移ったり、隣から後ろに移ったり、自分が一人忙しくなく彷徨っているような気がした。霧中を手探りで亀の速度で進んでいる様子を想像すると、その滑稽さに可笑しくなってくる。本当は笑っている場合ではないのだが。

「お前やっぱり後ろ乗れ」

「は? 何で」

「いいから早くしろよ」

 じいちゃんは突然車を止めると有無を言わさず俺を助手席から追い出した。俺が車から降りてすぐじいちゃんは扉を閉めてしまい、もうこちらを見てはいなかった。仕方なく荷台に乗ると、そこにはじいちゃんの言った通り懐かしいブルーシートが置いてある。上に置かれた大きな重石も健在だ。少し苔が生えているのが時間の経過を思わせる。

荷台から運転席の方を叩くと慣性を生みながら再び車が発進した。身体を取り巻く全てのものが昔のままに感じる。心地よいと思ってしまったのは本意ではなかった。そう思うことで、やはり俺はこうして後ろにいるばかりなんだということを認めてしまっているような気がした。

 いきなり運転席側の窓が開いてそこからじいちゃんの腕が生えるように伸びてきた。手にはウクレレが握られている。意図が分からず俺が眺めていると「早く取れよ」という大声が飛んできた。俺はウクレレを受け取った。

「前はよく歌ってたろ」

 再度じいちゃんの大声が聞こえて思い返した。俺は確かに走る軽トラの荷台でよく歌っていた。運転席からカセットテープで大音量の音楽を流して、それに合わせてでたらめにウクレレの弦を弾いていた。思えば歌を好きになったきっかけはそれだったかもしれない。

 今ではもう随分長いこと歌ってない気がする。他人の才能に触れるのが怖くて音楽を聴くこともしていない。自分の実力を知るのが怖くて曲を作ることもしていない。子供の時の俺は才能とか実力とかそういう夾雑物とは無縁だったはずなのに、いつの間にかそれらに捕らわれている。小さい時には容易にできていたことが大人になるとできなくなってしまう。こういう思慮の獲得を成長と呼ぶのかもしれないけど、俺にとってそれは退化にほかならない気がする。

「なあ、何か曲ないの?」

 今度は俺が大声で運転席の方に聞いた。

 やはり俺の特等席は後ろにあるのだ。無理に隣に行って大人ぶった感傷に耽っているよりも、子供の心地で雑念に惑わされずに歌っているべきだ。それは世間では怠慢や逃避と嘲弄されるものだろうが構わない。ここ数年でそういうのは割と浴びなれてしまった。

 やがて前方から聞こえてきたのは、いつかに飽きるほど聞いた曲だった。スタンドライトの光だけで照らされた 薄暗い部屋で、割れるほど頭を抱えた夜がもはや懐かしい。もうすぐあの夜に戻れるという確信の高揚が喉を震わせた。

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海辺を走る沃野 朽網 丁 @yorudamari

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