超越した殺人

池田蕉陽

第1話 画面の向こうで


 新谷にいや 義孝よしたかはあることを小耳に挟んだ。今の時代、ネットで見知らぬ人とビデオチャットが可能という。会社の同期の大塚がそれで彼女を作ったということを社内で自慢し回っていた。それを聞かされた会社員たちは特に興味を示さなかったが、それを盗み聞きしていた義孝だけは居ても立っても居られなくなっていた。


 その日の仕事帰り、義孝は早歩きで自分のアパートに向かった。会社の上司に飲みに誘われたが、用事と言って断った。今の義孝は会社の人間関係よりも、もっと優先すべきことがあったからだ。


 最寄り駅から十分ほど歩いたところに彼の1Kアパートはある。二階建ての黒い素材で成り立っており比較的新しいアパートだった。


 義孝の部屋は二階の一番奥で、彼はそこを目指し階段をゆっくりと二段飛ばしで上っていく。ビジネスバッグから家の鍵を取りながら薄暗い廊下を進む。そこで義孝はある扉の前で足を止めた。


 そこは義孝の一つ手前の部屋だった。その部屋は今朝までは空きだったはずなのだが、今扉の横には『下野』と書かれた表札が付けられてある。どうやら義孝が勤務している間に、この部屋に越してきた者がいるらしい。彼はそう思った。


 さほど気にすることでもないので、再び止めていた足を動かした。既に義孝の手には鍵が握られてある。それを自分の部屋の扉の鍵穴に差し込むと手首を捻った。


 玄関の明かりをつけずに、彼はキッチンを抜けてそのまま洋室の方へと向かった。そこでスイッチを入れると、天井の明かりが部屋を照らした。白くて十帖ほどの部屋が広がっている。男一人暮らしには充分な広さだった。


 隅に置かれた小型の薄型テレビの前にテーブルが配置されている。その上にノートパソコンが置かれており、義孝は早速その前に座った。


 彼がノートパソコンを開けながら思ったことは、ようやく俺にも彼女が出来るかもしれないということだった。


 とはいっても義孝に交際経験はあった。だがそれは八年も前のことで、義孝が大学生の時だ。半年間付き合っていた。彼にとっては初めての恋人であり今のところ最後の恋人でもあった。


 そんな彼女と別れた原因は義孝にあった。浮気をした訳ではない。喧嘩もしていない。ずっと義孝は彼女を大事にして何事も彼女を最優先に考えてきた。


 だが、それが却って彼女を負担にさせた。つまり重かったのだ。あの時、彼女から「重いんだよね」と迷惑そうな顔で言われたのを今でも鮮明に覚えている。八年前だというのに、思い出しただけであの時の負の感情が蘇ってくる。それは義孝に未練があるからではない。ただ、無意識に自分がそうなっていたことに対しての羞恥心や侘しさなどを感じてしまうのだ。


 なので次に彼女が出来た時は、そうならないようにしようと義孝は決めていた。しかし、その決心が彼を扶けることはなかった。まさかあれから一切彼女が出来ないなんて思いもしなかったのだ。


 合コンなどに行っても容姿端麗な男に全部持っていかれ、容姿平凡な義孝にチャンスなど訪れなかった。かといって、女心を鷲掴みするほどのコミュニケーションも彼は持ち合わせていない。


 正直義孝は諦めかけていた。もう自分はダメなんだと。そんな時に知ったのがビデオチャットの存在だ。


 ビデオチャットなら一対一で話すのでイケメンに奪われる心配はない。彼女が欲しい義孝にとってこれほど必要なものはないだろう。出会い系も考えたことあるが、サクラが多いと聞いたので彼は手を出さなかった。


 義孝は大塚が言っていたソフト名を検索欄に入力した。一番上に出てきたウェブサイトをダブルクリックする。そのソフトの公式ページが映し出され、画面中央に『ダウンロードはこちら』と書かれている。義孝は誘導されるがままに矢印をそこに持っていった。


 ダウンロードはすぐに完了して、早速ホームに追加されたアイコンをクリックし、ソフトを立ち上げた。アカウント作成をぱっぱと済まし、早速ビデオ通話が可能な女の子を探す。どうやら条件を絞れるみたいで、義孝は『20代 女性』と検索した。


 たちまち画面上に様々な女性のプロフィール画像が並び始めた。猫や犬、背景にしている人もいれば、自分の顔写真の人もいる。余程顔に自信があるのだろう。そして実際に美人だった。


 そんな中、義孝が目にとめたのは『歩優あゆ』という名前で登録している女だった。画像は自分の顔写真。マウスを動かしていたのをやめたのは、その顔が義孝にとってドストライクだったからだ。栗色のボブヘアーに彼好みに整った顔立ちをしている。


 この子にしよう。そう思い、義孝はその子のプロフィール画像をクリックする。一言コメント欄に『誰でもどうぞ♪』と書かれており、その横に通話ボタンがある。


 突然、緊張が走った。少し鼓動も早くなっているのに義孝自身気づいた。今考えれば、プライベートで知らない女に電話するのは初めてだった。どうしようかと一瞬逡巡する。


 だが、すぐに義孝はその邪魔な思考を振り払った。奥手になっていては一向に彼女は出来ない。


 義孝は意を決して通話ボタンをクリックした。画面が電話マークに切り替わる。左上に彼の顔が写し出されている。その顔を見て、どうして自分はこんなにもつまらない顔をしているのだろうと自分自身を罵倒した。


 カメラで顔の角度を調節し、彼がベストポジションになったところで歩優という女は出た。


 画面に若い女の顔が現れる。プロフィール画像と大差はなかった。かなりの美人だ。


「もしもし」


「も、もしもし」


 予想はしていたが、声も義孝を満足させるものだった。その顔立ちだからこそ発せられるような声質。


 対して義孝の声は緊張のあまり震えていた。彼女が絶世の美女でなければこうはならなかっただろう。


「もしかして緊張してます?」


 彼女が笑顔で訊いてくる。その顔もまた義孝の心を動かせた。


「実は俺、こういうの初めてで」


 義孝は動悸を抑えようと冷静を意識して答えた。


「あ、そうなんですか? 最初は緊張しますよね。私もそうでした」


 女は慣れている様子だった。滑らかな口調がそれを物語っている。


「歩優さん……でいいのかな? いつくらいからこのビデオチャットを?」


「えっとー、ほんの一か月前くらいですよ」


 女は思い出す素振りをしてから答えた。


「一か月? すごいね。それだけでそんな普通に喋れるんだ」


 義孝は素直に感心していた。きっとリアルの日常生活でも彼女の周りには友達が沢山いるに違いない。彼はそう思った。


「全然すごくないですよ。もっと話し上手になりたいって思いますもん」


「いやいや、十分だよ。そんなんだったら彼氏とかすぐ出来るでしょ?」


 それを言った後に、義孝はしまったなと思った。いきなり恋愛話に持ち込んだら、彼がそれ目当てで彼女に電話をかけたのだと疑われるかもしれない。


 しかし、彼女はそんな怪訝にした様子もなく明るい表情で答えてくれる。


「そんなの全然できませんよ。もうここ一年くらい彼氏いないですもん」


「え、嘘。ほんとに?」


「ほんとですよ。だから今いい人いないかなーって探してるんです。でも、なかなかこれといった人が見つからないんですよね」


 そんな美人な顔だったらすぐに出来るでしょ、という言葉が出かかるのを義孝は喉元で留めた。普段からそう褒められているであろう彼女にそれを言っても何も刺さらないだろう。褒めるなら中身。それも少し捻った褒め方をしなければならない。義孝はそれらを自己啓発本で学んだ。


「へえ。じゃあ歩優さんって結構男見る目ありそうですよね。一年いないっていっても男から言い寄られたことはさすがにあるでしょ?それで避けてきたってことは、その男のことがダメだなって判断したからだよね」


 義孝がそう言うと、女の瞳孔が僅かに開いた。


「すごいですね義孝さん。実は私自分でも思ってたんです。男を見る目があるんじゃないかって」


「やっぱりね」


 義孝は心の中でガッツポーズを決めた。大分好印象を植え付けれただろう。


「まあ、多分私の勝手な思い込みですけどね」


 彼女は笑ってそういうが、謙虚な部分を表すために過ぎないだろうと義孝は思った。


「一年いないってことは、その前にはいたんだよね」


 少々踏み込み過ぎかとも思ったが、それでも彼女は嫌な顔をしなかった。さっぱりとした性格なのだろう。


「いました。二年付き合ってたんですけどね」


 屈託のない笑顔から察するに、もう彼女に未練はないのだなと義孝は思った。一年も経てば忘れる人は忘れる。義孝も元彼女に対する想いは別れてから案外直ぐに消えてなくなった。残ったのは自分が重い性格だったことを知ってしまった時の恥ずかしさだけだった。


「へえ、二年も。マンネリかなにか?」


 彼女は首を横に振る。


「ちょっと事件がありましてね」


「事件?」


 義孝がそう聞き直すと、彼女の顔色が僅かに暗いものに変わった。


 その内容を訊くのはさすがに野暮だろうかと彼は思ったが、彼女からそれを話してくれた。


「私、一年ちょっと前からストーカー被害にあってるんです」


「なんだって?」


 そう驚いたものの、よく考えてみれば当然なのかもしれない。彼女並の美貌の持ち主ならそういった悩みがあってもおかしくはないだろう。


「そのストーカーが原因で別れることになったんです。彼氏がその男を浮気相手って勘違いしちゃって、何度も違うって私が言っても信じてくれなくて」


「それで別れることになったのか」


「そうなんです」と彼女は頷いた。


「それは災難だったね。二年も付き合ってたのに」


「でももう吹っ切れましたから、気にしてませんよ」


 そしてまた彼女に笑顔が戻る。やはりこっちの方が良いなと義孝は思った。


「それで今日、ストーカーから逃げるためにようやく引越ししたんです。本当はもっと前からしたかったんですけど金銭的な問題で」


「え、今日引越ししたの?」


「はい。仕事が休みだったので昼間に。多分これで追ってこないと思います。場所も知らないはずだし」


「やっぱ女の人は大変だな」


「なんですかそれ」


 可笑しそうに彼女が笑った。その笑顔を画面越しに見ながら、義孝はあることを思い出していた。


 隣の人のことだ。その人も今日昼間に引っ越してきたはずだ。名前は確か『下野』だったはず。


 一瞬、義孝は運命的な何かを想像してしまった。しかし、すぐにその妄想を頭から追い出した。そんな訳がない。あるはずがない。偶然にも程がある。


 だが、義孝は真偽を確かめずにはいられなかった。


「変なこと聞いていいかな」


「なんですか?」


 彼女が首を傾げた。その姿もまた美だった。


「苗字を教えてくれないか」


 すると、彼女は笑った。不快に感じていないのは義孝でもわかった。


「本当に変な質問ですね」


「だから言ったじゃないか」


 そんなやり取りをしてから、彼女は「私の苗字、ちょっと変わってますよ」と前置きを入れた。


 それを聞いて、義孝は少し落胆した。下野が変わってる苗字だとは到底思えないからだ。つまり、隣の人は彼女ではない。


 そして、やはり彼女の口から発せられた苗字は明らかに『下野』と呼べないものだった。


 彼女の苗字は『カバタ』だった。あまり耳にしない苗字だなと義孝は思った。どんな漢字なのだろう。そんな彼の心中を察した彼女が「どんな漢字だと思います?」と聞いててきた。


「えー。くわえるの加に、はしっこの端?」


「ブブー」と彼女が胸の前で両手でばってんマークを作る。


「違うかー。正解は?」


「正解は……」


 義孝は彼女の口から出る答えを待った。


 だが、どうしたことかいつまで経っても彼女がそれを発しようとしない。


 様子がおかしい。画面越しに映る彼女の顔面が青ざめている。義孝と目が合っていない。彼女は義孝からみて少し右の方を向いている。


 どうした、そう義孝が問おうとした時、彼女が目と口を大きく開けて、さらに甲高い悲鳴を上げた。


「な、なんで、なんでいるの」


 彼女は震えた声でそう言っている。意味がわからない。義孝に言っていないことは分かる。彼女の目の先に誰かがいるようだ。


「愛する人を追うのは当然のことだろ?」


 少し聞き取りずらかったが、男の声がパソコンから聞こえてきた。やはり誰かいるらしい。


「やだ、こないで、こっちこないで!」


 彼女が画面左の方に勢いよく移る。その際にパソコンに手が強く当たったのだろう。義孝のパソコンの画面に映っている背景が変わった。さっきは白い壁だったのにキッチンが映っている。やがて画面の右から彼女が現れる。彼女は尻もちをつきながら後ずさりをしている。そして次に右側で黒い足が見えた。


「どうして黙って引越しなんかしたんだよ。何故僕に何も言わなかった?なあ、なんでだよ、なあ!」


 たちまち男の声が荒くなっていく。顔は見えない。ただ義孝の目には恐怖で青ざめた彼女の顔しか映っていない。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 彼女が泣きながら謝る。謝り続ける。


「勿論許してあげるよ。だって僕達の仲だろ?でも……」


 男がしゃがんだ。背中が丸々見える。


「お仕置きが必要だね」


 何をするのかと思いきや、男が彼女の上に乗っかった。それから苦しみ悶えるような声が漏れてきた。彼女の足がバタバタと激しく暴れている。


「これは罰だよ」


 そうしてから一分もしないうちに彼女の足の動きは止まった。徐々に鈍くなるように止まったのだ。さっきまで聞こえていた彼女の唸り声も、もうしない。


 義孝は声がでなかった。ただ口を半開きにしてパソコンの画面を瞬きもせずに見ている。


 そうしていると、画面の向こうで不意に男が後ろを振り返った。男と目が合う。金縛りにかかったように義孝の体は硬直してしまった。だが、それも一瞬のことで義孝は慌ててパソコンの画面を壊れる勢いで閉じた。


 しばらく思考が働かなかった。ただ、脳裏にあの男の顔だけが浮かんでいた。


 こけた頬に乱れた髪。肌もひどく荒れていた。なにより義孝を恐怖のどん底に陥れたのは男の目だった。深い眼窩がんか。そのせいか、ほとんどが黒目で白目はあまり見えなかった。


 人が殺された。次にこの事実が義孝の中で認識されたのだった。画面越しにではあるが、人が死ぬのを彼は初めて目にしたのだ。ドラマや映画では感じられない生々しさがあれにはあった。


 そして、その殺人現場を目撃しまったことを犯人に知られてしまった。その事が義孝の一番の恐怖の要因でもあった。口封じとして自分も殺されるのではないかと。


 だが、それは杞憂だ。物理的な至近距離で犯行現場を目にした訳では無い。ビデオ通話で確認しただけで、犯人も義孝も互いの居場所を知らないのだ。なので義孝が殺される心配はないのだ。そう分かっていても不安を拭えないのは、やはり非現実的な光景を目の当たりにしてしまったからだろうと彼は思った。


 そうして何もしないまま時間だけが過ぎていった。徐々に気持ちが落ち着いてきた頃、義孝はしなければならないことが今になって思い出された。警察のことだ。


 本来通報するべきなのだろうが、どのように警察に伝えればよいのか。義孝は犯行現場を知らない。彼が知っているのは人が殺されたことと、その犯人の顔、被害者の名前の『カバタ 歩優』という名前だけだった。警察にこれらを伝えても、場所が分からないのでは警察も動こうに動けないのではないか。


 そういえば……と義孝は思い出した。警察とは関係のないことだが、少し気になることがあった。


 結局、彼女の『カバタ』という苗字は、どんな字を書くのだろうか。正解を聞く前にあのような事件が起きてしまったので、わからずじまいになってしまった。


 義孝はスーツポケットからスマートフォンを取り出した。画面を開き、メモアプリを開いてキーボードを出す。『かばた』と入力すると変換ワードが並んだ。


『蒲田』まずこれが漢字として出てきた。


 これかな、と義孝が思った時、『蒲田』の隣にあった変換ワードに目が移った。


『下野』それがあった。最初これを見た時、これも『かばた』と読むのかと呑気なことを考えてしまった。


 だが、すぐに事の重大さに義孝は気づいた。同時に薄れていた恐怖心が先程よりも上回って彼を支配した。全身から汗が滲み出ている。


 義孝は恐る恐るといった様子で、ゆっくりと後ろを振り返り、隣の部屋とを隔てる壁に目を向けた。


 画面で見たあの出来事が、あの壁の先で行われていたとしたら……まだ男がそこにいるとしたら……


 そう考えただけで震えが止まらなかった。


 義孝は、はっとして慌てて玄関の扉の鍵が閉まっているか確かめに行った。鍵は閉められていなかった。いつもは閉めているはずだが、今日はビデオチャットのことしか頭になかったので閉め忘れていたのだ。


 義孝は震える手でサムターン錠を回した。それから崩れるようにして玄関に座り込んだ。


 あの超越した殺人が隣の部屋で起きていたことは、ほぼ間違いないだろう。歩優という女は今日の昼間に引越したと言っていた。苗字は『カバタ』その漢字を調べると『下野』というのがあった。それは隣の部屋の人の表札と一緒なのだ。


 義孝の中で、あの男に殺されるかもしれないという不安が渦巻いていた。それが無意味な心配だということは彼自身わかっている。義孝と違い、あの男は彼の居場所を掴んでいないのだ。


 それでも体の震えが止まらない。義孝は立ち上がり、着替えだけを済ませてベットに潜り込んだ。


 寝よう。そうすれば気持ちも落ち着くだろう。


 義孝は瞼を閉じた。




 一睡も出来ないまま朝を迎えた。もしかしたら寝ていたかもしれないが、義孝の中ではずっと起きていたつもりだった。


 どうしても男のことを考えてしまうのだ。自分を探しているのではないか、今にも扉の方からガチャガチャと音がするのではないかと不安になるのだ。勿論そんなことはなかったが。


 部屋のチャイムが鳴ったのは、義孝がベットから起き上がった時だった。


 嫌な予感がした。今は朝の七時。こんな朝早くから誰だろうか。朝に義孝の元に人が訪れることなんて滅多になかった。それに昨日のこともあるので警戒心が離れなかった。


 義孝は足音を立てないように玄関に向かった。扉の覗き孔から訪問者を確かめる。


 あの男ではなかった。五十代くらいの人の良さそうな女だった。義孝は思わず安堵の息を漏らしてサムターン錠を回し扉を開けた。


「あ、どうもすみません。こんな朝早くに」


 女は申し訳なさそうに目尻に皺を寄せた。


「いえ、それは全然。どちら様ですか?」


 義孝がそう聞くと、女は顔を和ませた。


「昨日、お隣に越してきた下野したのと言います」


「えっ?」


 義孝は驚いた。その反応を見た女が、やや首を傾げて「あの……」と不安そうな声を出した。


「あ、すみません。そうでしたか、お隣に」


「はい。昨日の昼間に挨拶に行ったのですが不在でしたので……この後出かける用事があって挨拶が長引くのも悪いと思いまして、こんな朝に伺ったのですが大丈夫でしたか?」


「全然平気です」


 義孝がそう言うと、女は「よかったです」と笑みを浮かべた。


「あの、一人でお住いに?」


 義孝は気になったことを聞いてみた。


「はい。息子が」


「あ、息子さんが」


なら何故あなただけが挨拶に来たのかという疑問は口にしなかった。


「そうなんです。今は出かけてるのですが……」


 そこまで女が言うと、アパートの階段を登ってくる音がした。


「あ、丁度帰ってきたみたいです」


 女が右方に目を向けたので、義孝も倣うようにした。階段を登ってきた人物を見て義孝は口をあんぐりと開けた。


 あの男だったからだ。間違いない。昨日パソコンの画面で見たあの男なのだ。


 隣の人は歩優という女ではなかった。女の話でそれが分かった時は安心感から涙がこぼれそうになった。


 だが、それはほんの一時だった。隣人があの男自身だったからだ。現実が義孝が想像していたのを遥かに上回る形になってしまった。


 一方、男も義孝の存在に気づいたようで、彫りの深い目を大きく見開かせている。


 だが、それは不気味な笑へと変わっていったのだった。

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