エタ作家の忠言

東郷 学

作者と物書き

 諸君。妄想するのは好きかね?


 唐突になんだと言うだろうかまあ待ってくれ。


 例えば空から女の子が降ってきてそこからラブコメが始まるとか。

 例えば突然異世界に呼び出されてそこから自分の冒険が始まるとか。

 例えば世界の裏側を知り、銃を片手に悪の組織や国の暗部と戦うとか。


 展開はベタでも構わない。或いは僕のように中二病を拗らせに拗らせた挙句、「ライト・・・ノベルじゃ満足できねえ!」と考え、ニッチなノベルゲーという道にのめり込んだり、神話や伝説を参考にしたガチの詠唱を考えたり、異世界モノは異世界モノでも宗教や国やらの設定をがちがちに固めて「よっしゃこれならいけるぜふぉおおおおお!!」とニヤニヤしながら筆を取ったり……。


 失礼、若干個人的な意図が入った。


 ともあれ、少なくとも物書き……小説のような作文が好きな諸兄らは大小の違いはあれど恐らく妄想を保有しているはずだ。

 という寧ろ、妄想を無しに創作できる人間が居るなら逆に知りたい。


 さて、僕を含む小説のような作文をすることが好きな諸兄らは当然、思いついた妄想を文に書き立てるわけだが……この際、二つのパターンに分かれる。


 ・思いついたが最後、一気に書ききって満足げに投稿する。

 ・一旦発想をメモして細部を考え、どうやったら面白い作品になるか考える。


 人によってはまだパターンがあるかも知れないが、おおよそはこのどちらかに該当するだろうと僕は思う。

 そして、この二つの前者か後者。

 それによってアマとプロは明確に分け隔てられるとも。


 まずは前者。これば僕も該当することだが、アマの発想だ。

 小説に限らず作品とは、自分ではない誰かに向けた娯楽、エンターテイメントだ。そして誰かに対するエンターテイメントなのだから当然、その誰かが楽しめることを念頭においていなければならない。


 前者の発想はそれがない。

 当然といえば当然だ、これは妄想をただ文に仕上げただけなのだから。

 こういう話は面白い、こういった展開が好きだ。

 そういった自己を満足させるための作文であるがために他者が介在しない。


 無論、それでも人がよって来る場合があるだろう、それこそ並の作家達より面白い一品を作れるかもしれない。だが、その例は残念ながら、少なくとも人気小説を書きたい、プロになりたいと考えている諸兄には無意味だ。参考にならない。


 何故ならそういった人たちは自分の感情と感動を伝えるのがひたすらに上手く、また多くの人の共感を知る……即ち「大衆受けする勘」、文才とはまた別の一種の才能の持ち主達だからだ。

 それが出来るなら、態々他人の役に立つかも知れないエッセイやら創作論やらを除くことは無いだろう。彼らは天然で人気を呼べるのだから。

 故に少なくとも人気が欲しい、プロになりたいと考え、しかし成れずに他人のエッセイやら創作論を除き見ている時点で、残酷な話ではあるが、自分が好きなように考えて人気が出るというスタイルは不可能であると考えられる。


 話が長くなったが、前者の計画性のない作文では残念ながらプロにはなれない。慣れてもそれはその人物に元々才能があったという話だ。狙って成りたい、人気となりたいと考えてなろうとしているなら参考にはならない。


 となると、プロや人気者に多いのはやはり断然後者だ。

 それも当然、他人を考えているのだから。作りこみの桁が違う。


 要素の確認、プロット作成、話の構成……一つの発想に様々なパーツを張り付けて少なくない時間を掛けて練りこんだそれは作文ではなく作品といって過言ではあるまい。人気があるにせよ、無いにせよ、これが出来る能力があるならばそりゃあ受ける。

 この手法を自分の意思で継続できる諸兄がいるならこのエッセイのような創作論を読む必要はない。

 それとも、それでも人気が出ないから読もうと思っている?

 残念、それは傾向の分析と自作の解析が甘いことが一番、考えうる原因だ。そして残念ながらその手の悩みに僕がいえることはない。

 タイトルの通り、僕はエタ作者の物書き……思いつく、書く、賢者タイムの三つが創作論という僕がそれこそ本格的な創作論を書いている方々に及ぶわけもなし。

 そういうわけで、この駄文は「チッ役にたたねえ」と閉じたまえよ。

 但し、文句は心の中で。実際に書かれたりすると作者は落ち込みます。

 ガラスのハートなのですよ僕は。その辺りも作者ではなく物書きである要因か。

 時に批評もプロとしては必要だからね。

 僕は物書きだからその辺り知らん。


 さて、ここまで呼んで諸兄らが思うことを書いてみよう。


「アマとかプロじゃなくて結局、アンタのエタる原因は何だよ?」


 大方、そんなところだろう。

 しかし、諸兄ら。その答えは既に半分以上開示済みだったりする。


 それは私のスタイルであり、アマの諸兄らも良くやるだろう書き方


 発想→ 書く → 賢者タイム


 である。或いは最後が満足という人もいるかな? まあその辺り臨機応変に。


 つまるところ計画性がない。進展性が無いのである。

 何せこちとら行き当たりバッタリ、その時その時の感動と可笑しなテンションで全力で殴り書きしているのだ。当然そこに他者という存在がなければ、次という文字も存在していない。


 そう、続けられない原因は自分の感動をその時その時、計画のけの字も無くひたすら小説と言う形で投稿していることにあるッ!


 まずこの時点でプロなら絶対にやってはいけないことである。

 何せ、楽しませるつもりがない。作品として洗練されていない。次が無いのだから連載系を念頭においた作品なら失格も甚だしい。


 感動を己の感情のままに書いたならそれは作品ではなく感想文、ただの作文の類であろう。続かないのは勿論のこと大衆受けするはずもない。

 これで人気となり続けられる場合はもうそれは才能の類であり、僕ら凡人には理解が及ばない領域の話で参考になんぞならない。


 とはいえ、だ。僕はこのことを一切後悔していないし、プロやら人気が欲しいやら一応、小説のような作文をしているのだから心の何処かで思っているが、一方で満足しているところもある。


 何せ、僕は物書きだ。人を楽しませるわけでもなく人気を取るわけでもなく、ただただその時その時に思いついた発想をニヤニヤしながら書き出すだけ。


 原因は明確、けれど直すことなんて出来ない。

 何故ならそれが好きで文字を書き始めたのだから。


 あの作品が素晴らしい、ならこういう発想はどうだろう。

 あのキャラクターは素晴らしい、なら此処を弄ってこういう世界に。

 この世界観はどうだ。難しい文字が乱立する作品を書いてみたい。

 哲学のような或いは憧れた中二病全開の燃えゲーとか。


 自分の感動を文字に書き立てて満足する、それが自分の思う物書きである。


 故にこれはアマの発想であり、考察を持って人気を獲得したい、プロになりたいと考えている人たちは今すぐやめたほうが良い。自分の書ける物、大衆が求めるもの、この両者をすり合わせ、綿密に計画を練れてこそのプロである。


 だが、物書きならば十二分。

 だからこそ、僕がエタりたくない諸兄ら、人気やプロになりたい諸兄らに送れる参考になりそうな一言はたった一つだ。


「僕のように書くな。」である。




 最後に一言。そもそもこの創作論だかエッセイだか分からない作文を書こうと思った理由。「なんか自主企画のところに自分の創作論について教えて!」みたいな企画があったからである。


 ……いいですか? こういう刹那的発想をしているから続かないのですよ。

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