オゼルの海
ミツ
1
オゼルの海は赤かったと彼女は唐突に口にした。
「失礼、今なんと仰ったのですか?」
「オゼルの海を私は未だに思い返します。オゼルの海は赤かったと大人たちは私に語りました」
その時シュシュ・ウントが浮かべていた表情を私は未だに覚えている。彼女は、自分の身にかつて起こった出来事をどこまで理解していたのだろう。たぶん、すべてを理解していたのだと思う。シュシュ・ウントの赤い海が、悪夢としてではなく、美しい記憶として彼女の支えとなっていた事を願ってやまない。
***
ヴヴの市街には、おざなりの祝祭ムードが漂っていた。ヴヴ・ドゥ・カウク(ヴヴこそが故郷)と書かれた横断幕の下を行く市民は皆、顔を下向けて歩いた。入植管理局の触れ込みを信じるならば、私たち第二次入植者はおよそ五十年ぶりにヴヴに足を踏み入れた外界人だった。鳴り物入りでヴヴに乗り込んだ第一次入植者とその末裔は、数十年続いた本国との断絶により、すっかり大人しくなっていた。かつて彼らが夢みた新天地は、私たち新たな入植者の期待を担うほど多くの実りをもたらさなかった。そのことは、市街に蔓延する閉塞的な空気によく現れていた。ヴヴでの生活に期待したことはなかった。だから落胆もしなかった。
それでもヴヴは美しい街だった。ヴヴ地方原産の白石で組み上げられた建物は、ヴヴの二重の太陽を反射して白銀に煌めいた。尖塔で埋め尽くされた市街は、風に研磨された骨――砂漠で行き倒れた獣の、乾いた胸元を突き破る肋骨――を思わせた。実際に土地は乾いていた。ごく希に降る雨は、水たまりを作ることなく白い大地に吸い込まれて消えた。
私たち家族に割り振られた土地もひどく乾いていた。ヴヴの市街から
文明は、私たちの新規割り当て区画がその最前だった。地平の先に何があるのかと尋ねても、誰からも答えを得ることができなかった。地図は空白だった。全部で五つの家族がその土地に移ってきたが、互いに面識はなかった。出自や、血や、かつての所属を理由にいがみ合うことの無意味さを私たちは渡航の始めから理解していた。輸送機の中で生じた小さな
「お姉ちゃん!
「マソベさんが来たの?」
「そう!僕にそう伝えるなり帰って行ったよ。すみません、すみませんって何度も謝ってさ。こーんなに大きな肉のブロックを置いていった」
「そんなに急いで知らせに来なくても良かったのに」
「でも、お姉ちゃんに知らせた方がいいって父さんが」
「ありがとう」私はショーの頭を力強く撫でた。
「雨、降らないね」
私はショーに続いて空を仰いだ。雲が、蜃気楼のように不自然なずれ方をして見えた。太陽ですら二重になって見えたが、それでもヴヴの空は正常だった。
「それ、どうするの?」ショーは足下に目を向けぬよう顔を上向けたまましゃべった。
「わからない」私には答えようがなかった。足下には
ショーを家に送り返すと、私は大地に掛けられた覆いを外した。
「なぜ、この場所だったの?」
人骨は古いアーカイブに見たエジプシャの王のように、たくさんの宝物に囲まれていた。旧世界の王と違う点は、人骨に添えられた宝物がただのガラクタに過ぎないことだ。朽ちた手帳の残骸や錆びた金属のアクセサリ、首のもげた人形、色の褪せたワンピース、模造花でできた花輪、写真立て(写真は被写体が判別不能なほど色あせていた)、かかとのすり減った靴――人骨の胸元には、花束を抱えるように多量の木片が置かれていた。
「10、5、76、28……」
木片に記された数字はヴヴの文字に似ていたが、ほんの少し違っていた。
シャベルの先で人骨の首下に掛かる木片をすくい上げると、その番号が知れた。
「32。あなたは32番だったの?」
入植管理局はいつまで経ってもやってこなかった。
入植管理局の主張は例によって明快だった。
「我々の管轄ではない」と受付の男は言った。
「あなたたちが一方的に割り当てた土地なのに責任がないと言うの?」
すると男は肩をすくめた。
「ヴヴの大地に埋まる物をいったい誰の責任にできる?我々はヴヴという未開地で入植を試みているんだ。完璧な予定など立つはずがない。コントロールは不可能だよ。
「あの土地にあったものをせめて教えてもらえる?」私は苛立ちを隠そうともせず、乱暴に言い募った。声を抑えたつもりだったが、周囲にいる幾人かが私の方を向いた。
「わからない」男は考える素振りすら見せなかった。
「何か残っているでしょう?土地の管理記録か、古い地図だって良いから」
「少なくともここにはない。アーカイヴされた資料はすべて
「長い待ち時間に調べさせてもらったわ」
「ならば、それがすべてだ」
「他に資料はないの?」
「あるかもしれないが、探すのは骨だよ。ヴヴの旧統治局か、図書館か、博物館にでも行ってみるといい。物理資料が残されているとすればそこだけだ」
入植管理局の
「放っておいてと父さんに伝えて」
「役人が来たんだ。
私はショーに聞こえないように舌打ちをした。
「それだけ?」
「これ以上、土地を荒らさないようにってさ」
「役人が来たって、どこの役人だったの?」
「わからないよ。入植管理局だって父さんは言ってるけど」
「わかったわ」私はできるかぎり不機嫌を悟られないように
その日は、ヴヴの市街に泊まった。
翌日は、朝日が届かぬうちから
手持ちの
どこに行っても返答は同じだった。土地の記録はどこにも残されていなかった。
「すべてが漂白されたんだ」と旧統治局の受付に座る初老の女は言った。「ヴヴの白い太陽に敬意を表して、何もかも漂白しちまったのさ」
「でも、何かあるでしょう?」
「何にもさ。あんたのとこの土地の記録だけじゃない。この場所には去年の地図だってありゃしないんだ」女は深々とタバコを呑むと、ヤニにまみれた歯を剥き出しにして笑った。
「歴史がアーカイブされていないなら、この施設は何のためにあるの?」
「ただのお飾りだよ。この場所に来るのは、この場所が何のためにあるかわかっていない連中だけさ。最近のお客はヴヴゥズ(ヴヴ人の蔑称)の女で『私の家はどこ?』ってうわごとのように繰り返していたさ。小汚い布きれで胸元を必死に隠そうとしているんだけど、おかしなもので胸から下は裸でね。あまりに汚れてたんで最初は気づかなかったけどさ」女はニタニタと薄笑いを浮かべるとタバコをもみ消し、そのまま新しいタバコに火をつけた。
「あなた自身は何か覚えていないの?」
女がタバコにむせるのを見て、自分が愚かな問いを発したことを悟った。
「私が?どうしてさ。あんた私がいくつに見える?まだ四十八だよ。私にヴヴの何がわかる。物心ついたときからヴヴは私たちの街だったよ。ヴヴ・ドゥ・カウク(ヴヴこそが故郷)って言葉知ってるだろう?」
気が狂ったと思えるほど息を切らせて笑う女を置いて、私は旧統治局を後にした。
通りは鼻につく臭いで満ちていた。かつては大勢の人で賑わったであろう広場は半分がゴミで埋まっていた。目の前を、解体された
家に帰り着くと、人骨の数は二桁まで増えていた。数を数えることはもう止めたと、父はため息を漏らした。
「俺はもう眠るよ」
母は、父について寝室に戻るかどうか迷っていることを示すために、父と私の間で視線を忙しなく行き来させた。
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