第二十一話「閉ざした心」

 暗くて、寂しくて、悲しい世界に居た。

 そこにはわたし一人でだけが居た。怖くて、辛くて、泣きそうになったから、蹲って顔を埋めながら震えていた。


 誰も居ない。わたししか居ない。だから、誰もわたしに気付かない。誰もわたしは気付かない。


 それでも、声だけは聞こえた。

 何度も誰かを呼んでいた。誰に向けたのかは分からない。でも、わたしに向けたものかもしれない。わたしをここから出してくれる人声かもしれない。

 でも、わたしはそれに答えられなかった。声は出せた。でも、届かなかった。答えたいのに、答えることができない。

 声をいくら張り上げても、音は生まれない。生まれてくれない。誰もわたしに気付けない。


 この世界はただひたすらに暗かった。怖かった。寂しかった。悲しかった。だから、誰かに助けてほしかった。わたしを救い出してほしかった。声はすぐそこにある。でも、この世界には居ない。だから、届かない。近くにいるのに、温かさは確かにあるのに、見つからない。見つけられない。


 嫌だ。このままじゃ、わたしはわたしでなくなってしまう。嫌だ。わたしはわたしで居たい。嫌だ。変わりたくなんてない。嫌、なのに.....。


 急激に身体の震えが治まり始めた。何かを受け入れてしまったのかもしれない。もう、わたしは....。


『......ちゃん』


 ふと、わたしが呼ばれた気がした。

 聞いたことのある声。知っている声。近くにあったはずの声。とても大切な声。聞くだけで心が温かくなる声。安らぎに満ちた声。ずっと、一緒に居たいはずの声。


 声の方向は近い。きっと、それがわたしを.....でも、否定されてしまった。


 ・・・あなたを助けてくれる人なんて、存在しない。あなたは自分を信じる人々を幾度も裏切り続けた。父親の血を受け継いで。もう誰かと関わるのなんてやめてしまえばいい。それだけの行いをしたんだから。おまえなんて、居なければよかったんだ。


 目の前からそう聞こえた。声を掻き消すように、精神に鳴り響いた。


 わたしの名前は、ウィバーナ。それ以外に名前なんて知らない。


 その人の言う通りかもしれない。

 わたしに誰かと一緒に居ていい権利なんてない。それはわたしが一番分かっている。


『......ィーちゃん』


 それなのに、声が消えてくれない。わたしを呼んでいるかもしれないその声が。


 ・・・貪欲なんだよ。資格もないあなたが誰かと一緒に居たいだなんてさ。罪を受け入れろ、他人の幸せを考えろ。おまえはもう、独りだ。


 独り。独り、独り。独り、独り、独り。


 嫌だ、怖い、苦しい、辛い、悲しい。


 だけど、わたしは....。


『ウィーちゃんっ!!』


 弱々しかった声が、わたしの心に響いた。

 気付いて欲しいと存在を知らしめるように。


 今度こそわかった。

 それが、自分に向けられたものであり、誰から発せられたものなのか。


 それをきっかけに、暗い世界が徐々に晴れていく。

 暗がりにヒビが派生していき、崩壊が始まる。


 その中心で顔を上げたーーーーー目の前に居たのは、真っ黒なわたし。背格好以外は何も分からないほどに全身が黒かった。


 だけど、表情だけは分かった気がした。


 目が、目だけがはっきりとしていた。


 それは、わたしの事をひたすら睨み付けるようなものだったことも。


 その視線の意図に気付ける前に、世界はもう崩壊していた。


「まって、きみは.......」


 わたしの体がそこから元の世界へ戻っていく。

 足先から風化していくように崩れていく。


 わたしが居なくなってしまうのがわかった。どうしても聞きたいことがあるのに。世界の崩壊に逆らうように、立ち上がって、手を伸ばした。でも、届くことはない。

 前のめりに倒れて、言葉が中断される。両手で何とか起き上がり、わたしにもう一度向き直る。


 ダメだ。消えてしまう。

 まだ聞けていないのに。

 それなのに、聞きたいことを言葉にできない。


 待ってほしくて、行かないでほしいのに、崩壊は止まらない。


 どれだけ手を伸ばしても、わたしには届かない。

 もう腰から下が無い。左手が地面に着いた。もうすぐ消える。消えてしまう。


 無くなりそうなわたしをただ見ているだけのわたし。


 瞳の色は変わっていない。でも、やっと喋ってくれた。


 紛れもない、わたしの声で。


「父親に似て、大切な人を守れないんだね」


 何を言っているのか、よく分からなかった。

 だって、わたしは親を知らない。だから、わたしも知らないはず。


 だけど、わたしは悲しいそうにしていた。きっと悲しい内容だというのは、声音からも分かった。わたしはきっと、この後に泣き出すのだろう。


 それが分かった。だから、慰めようと言葉をかけるのは、当然の行いなんだって誰かから聞いた。


 口が消えてしまう前にそれだけはできる気がした。


「わたしはきっと、守ってみせるから。だから」

「わたしは......」


 耳が消える前にその先を聞けたのに、この世界での記憶はどこかにいってしまった。もうきっと、思い出す事は無いのだろう......。


 全身が消失し、世界が真っ白になった。

 それが本体への覚醒を促すものであることに間違いはない。


 意識が目覚め、唐突に精神が蘇ってきたような感覚が全身を駆け巡った。

 脳と身体が覚醒したことによって身体の自由が解放され、自分が寝ていたことと起きたことの両方を理解した。


 弱々しく瞼を開くと、見たことのない天井と目が合い、首を傾げる。否、見たのは初めてではない。数年ぶり故、忘れてしまった。


 傾げた首がフカフカの枕を検知、すぐに寝台であることが分かった。


 身体がとても怠い。起きて早々に二度寝をしたくなってきた。

 ルギリアスにも注意されたが、本能には逆らいかねる。猫は自由でいいじゃないか、夜に吠える狼には分かるまい。


 早速に二度寝へ、とした意味ところだが、それ以上に思う事がある。


 怠い身体をゆっくり起こして、一つ欠伸をする。そのまま、ぽつりと呟く。


「おなか、空いた...」

「ウィーちゃんっ。良かった。起きた、起きてくれた」


 自分の眠る寝台の横、そこに置かれた椅子から上半身を布団に預けていた少女が、起き上がりに気付いて歓喜の声を漏らした。


 それはもちろん、涙を流した親友の姿であった。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 あの事件から二日間は経っていた。


 ウィバーナは診療室へと運ばれ、アミネスの看病の元、意識不明のまま命だけは取り止めていた。


 何らかの後遺症がある訳でもなく、二日間の目覚めから覚めたウィバーナはまず、空腹を満たさんと食事をせがんだ。


 余程おなかが減っていたのか、かぶりつく様はアミネスでなければ引いていただろう。


 アミネスは久しぶりに見るウィバーナの元気な姿に満足している様子。目の奥が熱くなっている事は、隠しておくべきだと判断してのこと。


 しかし、ここ数日の記憶の欠如に対して、ウィバーナが疑問を浮かべない筈がなく、


「アミちゃん、わたし分かんにゃいんだけど、にゃんで寝てたの?」

「えっ......やっぱり、覚えてないんだね」


 あの日の事を話すには躊躇いがある。ウィバーナがどんな子かを知っているから。どんな反応をするのかは予想がつく。


 けれど、自分はあれを見届け、さらに親友である。

 悩んだ末に覚悟を決めて、真剣な眼差しでウィバーナを見つめる。

 一方でウィバーナはそんなアミネスの様子に頭を傾げるばかり。そのため、事実を受け止める心構えは整っていなかった。


「二日前、死神種と戦ったウィーちゃんは、種の門を開いてしまったの」

「えっ...............はぁーーーーーーッ!!」


 刹那、獣が本能で怯えるような衝撃と恐怖の衝動が全身に走った。


 身体が徐々に震え始め、瞳が沢山の動揺によって焦点すら合わぬまま揺れている。

 震えのまま身を捩り、何かにすがりつくように引っ張った布団に強く抱き着いた。


 体がどんどんと冷えていくのを感じた。呼吸が荒くなる。恐怖、それの近い感情に身体が猛烈に反応している。


 このままでは正気を保てず、発狂すらしてしまうかもしれない。


 その瞬間、暖かい感触に震え続ける全身を、弱れきった心を優しく包まれた。


 怯えるウィバーナを見ていられなくなったアミネスが抱き着き、その震えを止めてあげようとしたのだ。

 ウィバーナの頭を腕で覆い、顔を胸に埋めさせる。それだけで、心は休まることをアミネスは知っていたから。


 ただ深く、純粋な愛を感じた。全てを包み込んでくれるような優しさだった。まるで、母のような。

 でも、ウィバーナは母の愛を知らない。小さい頃に亡くなったのだとリュファイスから知らされた。


 それでも、それ以上にこの温かさを表す言葉を知らなかった。


 心が安らぎ、落ち着いて、震えが小さくなる。


 その優しさに触れてしまったから、実感してしまうのだ。自分は大切な人たちからの信頼や想いを裏切って、アミネスや、獣領の倒せたな人たちを危険にさらしてしまった事を。

 それなのに、優しくしてくれるアミネス。未熟なウィバーナにとっては訳が分からなかった。


 唯一理解できたことは、否定しなければならないこと。


 自分がこの優しさに甘え続ければ、また同じことが繰り返される。その度にアミネスは危険にさらされ、その度にアミネス許してしまうのだろう。それが許せない。許される自分がどうしても許せない。


 アミネスの、親友の事を考えてたら、否定するしかない。それ以外の選択なんて、ウィバーナは知らない。


 だから、泣きそうな声で、拒絶するように言ってしまった。


「おねがい。わたしの前から、いにゃくにゃって」

「えっ」


 突然の一言にアミネスは動揺した。それと同時に、どうしてそんな事を言ったのかも察した。


 ゆっくりと腕を離し、椅子から立ち上がる。さっきまでウィバーナを包み込んでいた手は、胸を押さえている。


 今、ウィバーナが平常心でない事はもちろん分かっている。声音からもそれは十分に分かる。それが分かっていても、今のウィバーナは嘘偽りなくそれが言えてしまった。だから、心を酷く痛みつけた。


 二人は、アミネスもウィバーナも同様に、お互いが初めての親友。最初は友達からで、慣れないことも多かった。それでも、お互いがお互いを想ってきたから。


 アミネスの俯く姿が視界に映った。熱くなった目の奥から涙が滴り落ちている。表情は見えない。けど、親友が泣いている。その事実だけで十分だった。


 どうして、泣いているのか。誰が、何をどうして。自分しかいない。


 大切な、たった一人の親友の反応を見て、もう後には戻れないと確信して、続けざまに言った。

 このまま追い込んで、引き離して、自分から遠ざけるにはそれしかないから。他の誰でもない、親友を守るために。


「出て行って、もう会えない」


 最後の言葉、「会いたくない」ではなく、「会えない」と言った。ウィバーナの優しさを、その本心を知れた。


 悲しく震える声で、すぐにでもしゃくりあげそうなのを我慢する泣き声で。

 そんな声、聞いていられない。聞きたくない。


 何も言わずに寝台に背を向けるアミネス。


 ウィバーナからは顔は見えない。丁度良かった。今だけは、泣き顔を見せる訳にいかなかったから。


 高ぶる感情の分だけ、涙は溢れ、頰を伝っていく。

 なら、今はこれを止められそうにない。


 アミネスがどうなっているのかを見れないウィバーナ。無言で背を向けられ、同様に感情を抑えられなくなる。


 行かないでほしい。そう思ってしまった。


 自分から拒絶した。それなのに、何一つ抵抗はなく、アミネスは去ろうとしている事が悲しくてしょうがなかった。

 やっぱり、少しでもアミネスが否定をしてくれていたら、ウィバーナはアミネスと一緒に居ることを選んでしまっていたと思う。


 これでいい。これしかない。そう自分に言い聞かせる。....それなのに、涙が止まらない。


「...わかったよ」


 続いて発せられた言葉。アミネスからだ。別れの言葉とは程遠い、覚悟を決めたような、そんな声音。


 その一言を残して、扉に向かう。ドアノブに手を置いた状態で振り向き、ウィバーナに目を向けた。


 既に布団を被り、姿が見えなかった。身体が震えているのは、布団越しでも理解できた。自分と同じように泣いているのだと。


「ウィーちゃん......」


 再度の振り返り際、誰にも聞こえない程の小さな声でそれを口にした。


 会ってから間もない頃、初めてお互いに決めた自分たちだけの呼び名。

 これを忘れない限り、ずっと頑張れる。まだ諦めない。絶対に諦めてはいけない。きっと、ウィバーナの心を救うのは、アミネスでなければならないのだから。


 目を閉じ、何かに浸るアミネスは、そっと幸せなため息を吐くと、見えない親友に笑顔を見せながら部屋を出た。

 最後は笑顔で、次に入るにも笑顔で居られるように。次に入る時が、その時になるのだから。


「すまんな」


 部屋の外、扉の横で聞き耳を立てていたルギリアスが唐突に言ってきた。

 言葉の意図を察したアミネスは、服の裾で涙を自然に拭き取って、安心させるためにこう言うのだ。


「大丈夫ですよ。ウィーちゃんは、私が助けます」


 事実をただ述べ、年相応の微笑みを見せた。確かな意志を秘めた瞳で。



 アミネスが何処かに行くのを見届けたルギリアスは、ウィバーナの部屋にもう一度目を向けた。

 そこでカイザンには見せることのない小さな笑みを浮かべ、誰に聞かせる訳でもなく独り言のように呟いた。


「お前は、良い友を持ったな」


 カイザンを除き、アミネス単体になら安心してウィバーナを託せるのに。そう思う場違いなため息を吐いて。



 こうして、殺意と悪意の作為に満ちた災厄の夜が明け、一つの危機は去った。

 そして、友愛と信愛で紡がれる新しい朝が幕を開けるのである。



カイザン&ルギリアス パターン三


「なあ、ルギよ」

「用がないなら俺を呼ぶな、暇人」

「まだ何も言ってないのに決め付けるなよな」

「何も言わないからこその判断だ」

「まあ、そうか。...じゃなくて、聞きたいことっていうか、疑問的な不満があるんだよ」

「だから、早く言え」

「獣種っていろいろと恵まれてないか?ラーダとかリュファイスが獣種はかなり位が低いとか言ってたけど、実際には特殊錬技ってのもバカ強くて、索敵も最強。それに、獣身の異能なんてのもある」

「浅はかだな、カイザン」

「あぁん?」

「我ら獣種には、一切の才能を待たずして生まれたアニマルたちが存在している。それに、獣身の異能は才能をある程度持ったビーストの中から、ほんの数名にしか現れないのだぞ」

「つまりは、俺は恵まれているが、他の獣種は違うって言いたいんだな」

「まあ、そういう.......待て、訂正させ」


「はい、じゃあ、次回。最暇の第二十二話「過去と責任の落とし前」....領主リュファイスの責務とは一体?」

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