日本国憲法改憲の党
有木 としもと
第1話
梯子を登り終わると、青い空が見えた。
今日は快晴だ。
車って結構高いんだな。
それもそうか。
心に差し込んだ暗い影を振り払う。
最初はこれでやりたいと主張したのは僕だった。
「古くさいですよ」そう言いながらも協力してくれた皆に感謝したい。
マイクのスイッチが入り、僕は深呼吸。
そして、一瞬だけ昔を振り返る―――
「私たちは日本国憲法改憲の党です」
動画閲覧前の広告でそんなメッセージが飛び込んできたとき。
一体どこの右翼政党かよ、という感想しか出てこなかった。
選挙制度改革なるものが行われてからというもの、この手のコマーシャルは増える一方だった。しかし僕たち視聴者に言わせれば金の無駄でしか無い。
そもそも僕たちがブラウザを開く目的は楽しい無料動画の閲覧だ。盛り上がった気分に水を差す広告を強制的に流される数秒は、ただの苦痛でしかない。
考えてもみて欲しい。あなたは自分の楽しみを邪魔する人間に親しみを覚えるだろうか。ましてそんな単純な事実にも気づかない低脳に、国の未来を託そうなどと考えるだろうか。
はい、証明終わり。こんな広告にはなんの意味もありません。
スキップ可能になるまでのあと五秒を、僕は心待ちにする。
ちなみに視聴者がネット広告を閲覧するのは、ほぼ百%の確率でスキップ不可能な最初の数秒だけ。だからもし本当に言いたいことがあるならば、この短い冒頭に全てを詰め込まなければならない。そんな常識も知らず小綺麗なイントロだけで最初の五秒を使い切り、社名すら見て貰えない大企業のなんと多いことか。
その視点からすると、この広告は合格点だった。
画面には簡潔でどこかポップな雰囲気のフォントで「日本国憲法改憲の党」の文字だけが表示されている。
「我々のマニフェストはたった一つです」
不慣れで不器用そうな、だがどこか親しみを感じる女性の声が早口気味にそう告げた。
続いて映されるテロップ。
「令和二十九年に現行憲法百周年の記念式典を行い、そこで新憲法を公布します」
なんだって? 令和二十九年?
僕は混乱する。どんだけ先の話なんだよ。
普通の政治家ってせいぜい四、五年先までの約束しかしないと思うんだけど。
いや、まあ。どっちにしてもそんなものを守った奴なんて見たことないけどさ。
それにしても、最初から約束を守る気があるのか疑わしいレベルなんですけど。
うっかりとテロップの内容を考え込んでしまった僕が我に返った時には、既にスキップ可能時間から五秒も経過してしまっていた。
クリックボタンを押すまでもなく速やかに広告は終了し、待ち望んだ無料動画がスタートする。邪魔されたというマイナスイメージを感じる間もないままに。
うーん。
悔しいが認めざるを得ない。
少々の敗北感と共に僕は思った。
なかなかにスマートな広告じゃないか、と。
改憲にやたら積極的だった首相が失脚してからというものの、この話題は停滞しがちだった。
提案しても支持率は上がらず、下手な対応をすればマスコミやネットで袋叩きにされる危険な話題。いわゆる地雷ってやつだ。
もちろん、僕たちだってこのままで本当に良いのかという疑問は持っていた。
これまで頼りにしていた大国の力は徐々に低下し。
徐々にきな臭い話題が漏れてくる。
憲法九条は大切だと言われれば反射的に頷いてしまうけれど。
本当にそれが僕たちを守ってくれるのかについてはどこか疑問で。
かと言って、今までのやり方を変えるのも不安でしかない。
世の中には、今の憲法はアメリカ人が作ったものだから悪いと言う人もいるが。
正直、その言い方もどこかピンと来ない。
だって作り直したとしたって、どうせそれをやるのは僕の知らないどこかの偉い学者や政治家達だ。
どっちにしろ「僕たちのものじゃない」という現実は変わらない。
だとすれば、それは何が違うんだろう。頑張ってそれを変化させようなんてモチベーションなんて、どこからも出てこない。
ひたすら面倒くさい上にどうせ上手くできそうにもなく、可能なら投げ出したい夏休みの宿題のように。
この問題は僕たちの机の上に投げ出されたままだ。
当初の目的であった無料動画の閲覧が終わってから。
誠に以て不本意ながら先ほどのネット広告に興味を抱いてしまった僕は、党名を検索してそのリンク先をクリックするという暴挙を行ってしまった。
何かに踊らされたようで、とても口惜しい。
とても地味な。正直に言わせて貰えれば、あんまりお金のかかっていなさそうなそのページには。
例のテロップと同じフォントで、同じ内容のマニフェストが記されていた。
「令和二十九年。現行憲法百周年の記念式典。そこでの新憲法公布を目指します」
日本国憲法改憲の党。字面に似合わぬ丸みを帯びた書体で記された党名はどこか滑稽で、強烈な違和感を僕に与える。
僕は「私たちの主張」と記された動画へのリンクをクリックした。
最初の動画はとても大事だ。
人の入りはほぼこれで決まってしまう。
これで興味を引けないようなら、どうせ大したものじゃないだろう。
出てくるのは強面のおっさんか説教好きそうなおばさんか。
それとも口先だけが異常に発達したようなチャラい男か。
そんな僕の予想は再び裏切られた。
画面に現れたのは、僕と歳の変わらない女の子だった。
真面目そうな風貌と眼鏡。
僕の脳細胞が動き出すよりも早く、画面の中の少女が一礼した。
「私たちの党の動画にお越しいただき、誠にありがとうございまーす」
おとなしげな風貌と明るく屈託の無い口調のギャップに困惑しつつ、僕は上手いなという感想を抱かずにはいられなかった。
珍しいモノ、普通と違うモノにはつい視線を注いでしまう。それは僕たち世代の習性、あるいは一種の本能になりつつあると言って良い。
彼女は手作り感溢れるコメントボードを取り出す。
「皆さんは憲法にまつわる様々な話を聞いたことがあると思います。そしてこのままで良いのか、そんな疑問を持つ人も多いと思うんですね。調査によれば、改憲を必要と考える人の割合はずっと増え続けています。こんな感じ」
グラフがアップにされた。賛成の率。その変化を示した棒グラフ。
次のボードが取り出される。
「しかし同時に反対の意見も根強いです。そして何より。最も多い回答は『分からない』。この傾向はずーっと続いています」
当然だよなと僕は思った。
改憲なんて、それが良いことなのか悪いことなのか判断がつかない。
分かるなんて言い出す人たちは余程頭が良いか、僕たちを騙そうとしているかのどっちかだろう。まず間違いなく後者。
未来の物事に対する解決策を「知っている」と言い出す奴らは要注意だ。
彼らは実のところ何も分かってはおらず、良くて三割も当たらないいい加減な予想を高値で売りつけようとする詐欺師に過ぎない。
だが彼女は、そんなありがちなトークを始めたりはしなかった。
「分からないのは当然だよね。特に憲法第九条の取り扱いをどうすべきか。それはとても難しい問題だから、迷うのも無理ないと思います。うん」
彼女の語り口には、党名からイメージされた押しつけがましく強引なイメージはまるで無い。
むしろ共感を前面に出したスタイルで、好感が持てる。
いやいや。それは単なるイメージ戦略の問題だってばさ。
僕は浅はかな自分を戒めた。
物腰の柔らかいヤクザだっているらしいし。
騙されないぞと心の中で呟きながら、僕はついつい動画の字幕と彼女の言葉に集中してしまう。
「分からないし不安だけれど、そのまま放置するのも気持ち悪い。タチの悪い夏休みの宿題みたいに、それは私たちの課題として残り続けています」
その表現になんだか自分の考えを読まれたような気持ちになって、僕は思わず視線を逸らした。
「だーけど。そんなにウジウジ考えても仕方ないと思いません?」
そして彼女は明るく笑う。
「憲法は私たちの生活の基本方針を決める大事なもの。しかし同時にそれは、私たちの生活を豊かにするための道具でしかありません」
少女はそこで言葉を切った。
「どんなに素晴らしい道具でも、何十年も放っておいて、全くメンテナンスをしないことが適切だとは思えません」
道具。そしてメンテナンス。
その表現はなかなかに新鮮だった。
憲法というものについて、そんな認識を持ったことは無かったから。
「まして、その必要性すら議論せずただ放置するのはおかしいと思うんだよね~ 憲法は我々国民が管理するものであって、学者や政治家が扉の奥にしまい込むようなものじゃないんだから」
そういって出された次のボードには、こんな文字が書かれていた。
『1.私たちは新しい憲法の案を出す予定はありません』
はい?
それって変じゃないの。
改憲を目指すのに、案を出さないなんて。
「皆さんが最初に興味を持つのは、九条をどうするのか、自衛隊の存在をどう記すのかという点だろうと思います。ですが、その部分に踏み込んだら議論が始まる前に決裂してしまう。それがずーっと繰り返されてます」
その通りだった。
それは余りにも微妙な問題で。
誰もが触れることを恐れている。
「私たちの提案は『話し合いを始めましょう』ということです。改憲の議論を当たり前にする。それが私たちの目的。だから具体的な改憲案は他の人に出して欲しいと思っていまーす」
なんだかとても無責任に聞こえることを彼女は言った。
だけど。
司会役、という定義ならばそれはあり得るのか。議論を誘導する司会役は中立でなければ、人々の言葉を引き出すことができない。
特にこんな微妙な議題ともなれば。
考え込む僕の前に、新しいボードが示された。
『2.改憲の時期の目標は、令和二十九年』
これまたぶっ飛んだ提案だと、改めて僕は思った。
だが彼女は大真面目にそれを主張する。
「憲法の改正は国民投票が必要だから、あらかじめこの日って決めることはできません。否決されちゃったら、改憲出来ないからね~ だからこれはあくまでも目安。人間、締め切りを決めないと動き出せないと思うんだ。うん」
締め切りがあったとしても動けない人も多いけどね。心の中でそう突っ込みを入れる。
「さて、改憲の時期については急ぐ必要はないという意見が圧倒的多数。そして、話し合いの期間は十分に持ちたいと思ってる。当然だよね。中途半端なコト言っているとどーせ話が進まないんだから。ここは思い切って締め切りを延ばしちゃいましょう」
新人編集者を騙そうとする漫画家みたいに彼女は言った。
いや、僕は本物なんて見たことないけどさ。
「私たちの提案は令和二十九年です。憲法の日にするなら五月三日かな。そこで現行憲法百周年のお祝いを開いて、同時に新憲法を公布する。ちょっと素敵だと思いませんか?」
百周年。
へえ、と僕は思った。令和二十九年がそうなのか。
そして。
百年も経った法律を少々新しいものに変えてもおかしくはないかな、と。
「三十年近くあれば、議論の時間が足りないなんてことないでしょ? これから皆で考えて、この日の改憲を目指して議論していく。そんな状況を当たり前にしたいなーって」
そこで彼女は少し口調を変えた。
外見のイメージに近い、真面目そうなそれに。
「たった一文字の修正の無いまま百年も使われた憲法なんて他にない。今の憲法も十分に敬意を払うべき存在だと思います。だけど全ての法は生活の道具なのだから。時代に合った改善の努力を放棄するのは間違っている。私たちを百年間守ってくれた現行憲法に感謝しつつ、私たち自身で新しい憲法を作り出していきたい。そんな風に考えています」
彼女はボードを机に伏せた。
「今回はここまで。次からはもうちょっと詳しい内容もやりますので。私たちの主張に興味があるのなら、他の動画も見てくださいね。それじゃ、まったねー」
両手を振るその仕草で、僕の記憶が呼び覚まされる。
ああっ!
シークバーをクリックして少し画像を戻す。
自分の脳内にあるイメージに最も近い角度でストップ。
間違いない。
随分と大人びた印象にはなったが、その姿には覚えがある。
間違いなく、彼女は中学時代の同級生だった。
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