終章 娼館のシュバリエ

 光のさざめきを浮かべた水面。波の音が引いていく。

 なだらかに揺りあげる水。穏やかな曲線を、繰り返し滑らせる水辺のような、穏やかな音が消えていく。その行方を追うように、シュバリエは耳を澄ませた。

 ぽつりと、嗚咽だけが打ちあげられた。否──かれはかぶりを振る。音も色もない闇のなかですすりあげているのは子供。自分ではなく、子供の声だ。


 しくしくと子供は泣き続けている。暗闇にひとり、取り残されて。

 波音は、風はどこにいったのか。どうして消えてしまうのか。

 どうして──

「……」

 嗚咽が聞こえる。

 はっと目を開け、シュバリエは視線を巡らせた。視線の先の暗がりに、稚児の姿を見つけて驚く。


「……クリーマ」

 頬にあてた両の手を、涙に濡らして泣いている。

 童女は、主人の視線を知ると、たまりかねた様子でせきあげた。

『こちらに来てはいけないよ』

 自分の言葉が脳裏にひらめく。寝台のうえ、かれは素早く体を起こした。


「!」

 左肩が燃えついた。思わず呻いて背なかを丸める。

 クリーマが小さく悲鳴をあげた。

 痛みを堪えようと、シュバリエは胸に膝を引き寄せた。

 ふと、足許の重みに気づく。

 高嶺の衣をかけていたのだ。


 かれは、あるはずの姿を探した。

 愕然と部屋を見まわす主人の意を汲み、しゃくりあげながら、童女は言った。

「……あのかたは、さきほど帰られました。クリーマに、高嶺を頼む、とおっしゃいました。シュバリエさまのおそばに、ついているよう、おっしゃいました」

「……」


 言い終えると、クリーマは火がついたように泣きだした。寝台から少し離れたところから、こちらに近づいて来ようとしない。薄闇のなか、迷子のように立ち尽くしている。

 シュバリエは、クリーマに言葉をかけてやることができないでいた。それでも、この心根のやさしい童女が、心配のためにうろたえて泣いているのだと判っていたので、大丈夫だよと笑ってみせた。


「お客様のことは判ったよ。ありがとう、クリーマ」

 童女は無理に口を噤んで頷く。大きな瞳が赤かった。

 ほどなく、ややおぼつかない足取りで、彼女は部屋を出ていった。傷の手当てをするために、道具を取りに行ったのだ。


 倒れている椅子。ずれている卓。端が避けて垂れさがり、しおれた花弁のような天蓋。

 静寂が降ってくる。静けさは、遠い幻を蘇らせた。確かな事実であり、経験であり、けれどもう、幻でしかない記憶。

 

 強すぎる感情は、いつまでも鮮烈な余韻を残す。だからこそ、余計に遠い。何もかもがあまりに遠い。

 思い出は、しいんと澄みわたるなかで、現在を鏡のように映しだす。時とともに流れたものを、はっきりと、あますことなく。

 男娼として、かさねを生業とする自分の姿。そして……


『いつも待っていたのだろ?』

 自分の慕った男の言葉を思い返した。

(満たされない心は、渇望そのもの)

(そうだ……わたしは待っていたのだ)

 待っている。変化の訪れを。この、今の生活が、自分自身が変われるときを。戻るはずのない過去が戻るのを。

 今より確かにしあわせだった、昔が帰ってくることを。


(しかし、それで?)

(わたしはそこに、何を期待している?)

 揺るがない。過ぎてしまった出来事は。止まらない。時の流れは。

 そして、人は変わる。それは生きるということ。時の流れとおなじこと。それなのに。判りきっていることなのに。


 人は変わる。何も特別なことじゃない。

 変わっていくということがもし間違いだとするならば、ただ生きていくということに罪が課せられるとするならば、いったい何を償えばいい。何を責めればいいだろう。その理非を、誰に問えばいいだろう?


 どこで道が分かたれたのかなど、その道を知らないものにどうして言える。どう進めばよかったのかなど、歩きもせずにどうして言える。かくあるべきだと、どうして言える?

 人は変わるのだ。

 ただ──

 

 いつもの言葉をつぶやく。

「鳥はね。自分が飛ぶことに疑問を持つと、飛べなくなってしまうんだよ」

(……──)

 静けさが、遠い音楽を連れてくる。うつむいた目の先の、あでやかな色がぼやりと溶けた。

 シュバリエはひとり、自分の体を抱き締めた。




 港より続く坂をひととき昇り、小道に入ればカレルの花街かがいだ。

 商店の並ぶ大通りから石畳を一本折れると宿場街。その、青緑の扉の棟々のそばにひしめいている赤の連なり。これが花街である。青の羅列はやにわに途切れ、あたりは、賑々しい酒場の黄金、娼家のあだっぽい朱に塗り替えられる。

 この地では、商店などの扉や門を、塗料で縁取る習慣がある。特定の業種を、看板のほかに塗料の色で示すのだ。


 傾いてきた陽のなかで、すでに夜半のような賑わいをみせる店がある。その店は、屋号を<赤椿のねや>と言う。今や『翠玉館』の名で呼ばれ、世界のいたるところで知られていたが、そのわりには、取り立てて目立つでもなく、落ち着いた、いかにも古店らしい趣で、常に変わらぬ佇まいを持っていた。


 上花街では一般的な、枡形の造形である。黄昏のなか、中庭の、四角に切り取られたような空は金色だ。区切られた空間のなかに、光が満ち、漂っている。柱や部屋に灯るあかりが庭を染めているのだ。


 中庭に面した、背の低い衝立の置かれた広間からは、店いちばんの器量を誇る高嶺こうりょうが、客の許へと柱廊を練り歩く様を間近に見ることができる。客たち、そして娼妓たちも、みなで息を飲んで見守るのである。


「シュバリエ様。お時間でございます」

 かれが侍女の言葉に頷くと同時に、銅鑼が大きく鳴らされた。

 高級娼妓の出座に、店は色めき立つ。

 

 シュバリエは、色彩の滝のような重く華やかな衣を纏い、裾を持つ稚児とともに、金色の光のこぼれるほうへ、ゆっくり歩みを進めるのだった。

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娼館のシュバリエ 双星たかはる @soiboshi

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