N死人病院譚

@kuratensuke

第1話


N死人病院譚

  


           



 

十津川 会津


  




 私の記憶が正しければ、これから話す事は概ね本当にあった、若しくは記憶違いは古い話ゆえ、軽い間違い程度であろう事ばかりである。

つまり私と言う媒体、人間媒体を主とする本当の話である。

それ以上に他意は無い、私の目がおかしければそれまでではある。





釣り針




ここはK市の西の方を包括する市民病院、総合的な受診体制を整える。高度成長期に出来た。言わば、西側の人口流動化に対応するべくして作られた病院。

神多田は救急業務に就くべく事務所を出て、東側にある救急入口横の救急事務室に座った。

今日の当番は、小児科と外科である。大変な一夜になりそうな予感が有った。

特に小児科は何時も多い、子供の事ゆえ親も慎重のあまり受診が多いと言うのが相場である。

早速、電話が鳴る。

「N死人病院です」   

神多田は、そう言って業務の辛さを笑いに変えている、趣味の悪い話であるが多忙でストレスの溜まる仕事と神多田は感じている。

生来、ふざけているのでそう言って笑いで対応している、人に知られた事は無い。

其れを好い事に使い続けているのだ。

西死人です、とか、西死人病院です、とかである。

 K市に入り配属が決まると寮に入った。

悪名高き配属ではあった、病院勤務は兎に角苦労が多いのである。

死体も見なければならない事もあるし、医者を筆頭として看護婦や検査技師、先生と呼ばれる者ほど厄介な代物は居ない。そんな事も有るのだが給料面は厳しい労働の対価としては良い。看護婦ともロマンスが楽しめるという面も少なからずはある。

寮から降りてくると須磨海岸から見る朝やけ夕焼けは、遠望の背景に淡路島を控えて、誠に美しい風景が見れる。比較的内海の所為か須磨海岸は、冬の寒さにも波は荒くなる事は無い、寄せては返す悠久の波を思うと此処で色々な歌が出来たのも判る気がしたものだ。

ふと歌が思い浮かべる。

淡路島通う千鳥の鳴く声に幾夜目覚めぬ須磨の関守

平和で何事も無い田舎の様な心持ちで溢れている、静かで淡路島から通う千鳥の無く声しかないので関守りは役目を果たす為毎晩目が覚めて仕方ない、だけど何もない平和な海岸だ、と。

あたかも歌の関守りの様に生きている、K市の高い倍率を乗り越えて、市職員となった。其れで人生の通行券を持った気でいた、馬鹿な職員であった。

よく他寮の須磨寮の同期達と海岸に散歩したりする。

偶に釣りをしている人が居る。須磨の海岸では釣りは近ごろ珍しい、何故なら魚影が薄いからである。

しかし、コチやガシラ辺りは釣れる事もたまにある。

一番は釣りの初心者が、釣り方を覚えるのには一番身近かで便利であった。

子連れの人には大変楽しい時間が過ごせる場所では有るのだ。

今日も親子で釣り人が居た。

この親子にはその後起こる恐ろしい事態をこの時、想像だにしてはいなかったのだ。

「武、釣りいうのはな、こうして場所選びからや、其れに仕掛けが問題やねん」

 会社が休みなのに子供の為に須磨までやってきた。

洋一郎は、会社では目立たない飲料水メーカーの営業である。

待望の男の子が生まれて、念願の魚つりが出来る。親子で初めて須磨に来た。

小さい頃、父親に同じように連れてこられたのを思い出す。その場所が此処であった。

都会から近くて、安全で岩場が無い、風景も美しいし、近くにはトイレもコンビニも有る。

小さな子供を連れてくるには最高の場所なのだ。

今年五歳になる武は、念願の子供であった。

少し甘やかしてしまったのか、外で遊ぶよりは家の中などでゲームをして遊ぶのが好きなのである。

其れを何んとか外で元気よく遊ぶ子供に育って欲しいと夏の終わりに連れて来た。

最初、珍しそうに見ていた武では有るが、そのうち父親ばかりが楽しそうに釣りの用意をしているのを見ていると飽きて来たようだ。

「うん」

 気の無い返事しかなかった。

「如何した面白か無いのか?」

 母方の生まれ育った鹿児島弁が少し気を許すと出てしまう。

砂を弄りながら、武は小さいながら父親の希望に応えようと身の置き所が無い様子である。

それをお構いなしに投げ釣りの準備が出来た。

えい、とばかり投げてみる、小一時間投げて見たが一向に当たりはない。

武はもう、砂弄りも飽きてしまい、海岸を走りまわって棒きれを拾っては、テレビのキャラクターのものまねをして遊んでいた。何度か投げては、又投げる、繰り返しやるのだが一つも当たりがこない。

そんな内に子供の事も忘れがちになる。

何度か投げていると、何かに当たって竿が前に行かなくなった、

「ぎゃああ」

 我が子の有らぬ声がした、後ろを振り向くと糸が武の顔に伸びて繋がっている。

気が付いた洋一郎は慌てた。血の気が引き、わが子に走り寄った。

顔に釣針が刺さり、寄り戻しが顔面の頬から出てきて血はまだ出ていない、血は少なそうなのだ。

しかし、此方を恨めしそうに涙をためて見つめるわが子の顔が有った。

「パパ、僕死んじゃうの?」

「アホ言うな、死ねへんわ」

 しかし、その時の洋一郎には、言葉と裏腹に自信が無いし何よりも如何しょうかと慌てて考えがまとまらない。

しばらくして近くの茶店の電話を借りて救急車を呼んでいた。


今日の一番初めは子供の事故であった、どうも釣針が顔をえぐり通ってしまい、慌てた父親が連れて来た。

見ると、顔の頬の部分に釣針が上手く差し通されて、より戻しが頬から出ている。

「いたあい、……」

五歳ぐらいの子供が泣いていた。

小児科では無いだろうか、悩んで看護婦に相談する、科の種類にもよるのだが今日は小児科と言う事もあってか、看護婦の体制は手厚く五人位の若い看護婦と、古株の主任級の看護婦が詰めていた。

「あらあ、痛そうやね」

 おもわず口を押さえながら主任の看護婦が言った。

「外科やわ……」

 丁度その時、小児科の先生が事務室の戸を開けて入ってきた。

「あらあ、大変、直ぐに診察室に入れて……」

 泣きながら、子供は救急の診察室に付いて行った。

残された父親が心配そうに診察室の様子を伺っている。

「どないされたんですか?」

 おもわず神多田は聞いた。

「投げ釣りしてたら、後ろに子供が居てね……。びっくりしましたわ」

「そりゃそうでしょうね、恐ろしいでんな」

「投げた瞬間、ぎゃあ、言うから、びっくりして見たらあんなんですわ、嫁はんに殺されますわ」

「怒るでしょうね、嫁さんわ」

 そちらの怒りの現場を想像して、神多田はゾッとした。

鳴き声がしていたが、数十分、頬に絆創膏を付けた可愛い子供が出て来た。

小児科医は、女の先生で子供扱いが上手い、

「もうお父さんと釣り行かないの?」

うんと頷く子供、しかし、直ぐにいやいやと首も振った。

穏やかな笑いが辺りを包んで、

「行きたいのンか、釣り、御母ちゃんに怒られても?」

 うんと頷く、子供。

辺りに大笑いが起こった、子供の純粋さが辺りを事の重大さを、和らげてくれた。

「目で無くて良かったな、目なんかやったら、えらいこっちゃ」

より戻しをペンチで切り、上手く湾曲に沿わせて抜いたらしい。

一時はどうなるかと思ったが、ようやく落ち着きが戻る。

親子はすごすごと手を繋いで帰って行った、車に乗り、釣りの事など殆ど跳んでしまったに違いないだろう。

先程の小児科医などは、男の様に足を組んでソフアーに腰をかけ煙を出している。

パイプをやるのだ。

女では珍しかった、どうに行ったもので、見ていて安定感があった。

早速に晩飯の話になった、ほとんどは兵庫楼と言う中華を頼む、偶に大盤振る舞いで医者の先生が寿司等を頼んでくれる事もある。

此の小児科医は、新聞を読みながらパイプを燻らすと、

「天津飯と餡かけのスープ、でも頼もうか?」

 どうも腹が減っているらしい、昼も忙しくて食べれない医者も多いのが常である。

「分かりました、先生、直ぐ頼みますか?」

 神多田は聞いた。

「そうやね、君はもう頼むかな?」

「いや、まだ後からにします、先生の分、先に頼みましょうか?」

 其処に割って入ったのが主任の看護婦、

「先生、検食が有りますよ」

「あれか、うーん、あれは榊先生に頼んでくれ」

「分かりました」

 検食は不味いのでみんな医者は嫌がる事が多い。

「榊君は若いから、大丈夫だろう」

 糖尿病の予防食や、高血圧患者の食事なので味が薄い。

いつぞやは食べ残した検食を、食べ残しとはいえ殆ど手を付けないでほったらかしにされる事が多い。殆ど食わないのと一緒である、夜食にと神多田などは食べている。

味が薄くて不味いのだが、夜なかに小腹が減るとそれでも御馳走である。

「今の子供にはびっくりしたね、ペンチがよく有ったものだね、外科の先生が使うものかね?」

「そうですね、美喜美建からか、営繕から借りて来たものじゃないですか?」

 神多田は返事した。美喜美建とは出入り業者で掃除や簡単な大工仕事を手伝う。

「アルコールで消毒されたものだろうね?」

「さあ、解り兼ねますが……」

 神多田は返事する。

「まあ、いいか、大丈夫だろう」

 抗生物質も複合された傷の手当て薬が出ていたので、化膿の心配はない筈だ。

救急では、レジが閉まり会計が出来ないので後日清算に来なければならない、

三千円程を預かって保険証と共に後日、保健証の割合を確認して清算する決まりになっていた。

それから晩ご飯に有り付けるまで数件の小児科の患者を診ている。

既に中華は来ていたが、先生は少しも箸を付ける暇が無い、

「医者は救急の時には、点滴で食事代わりにする事もある、それとビタミン剤だな」

 ブドウ糖の点滴やビタミンの点滴がよく使われる。

これは備剤で処理されて保険点数には上がらない、いい加減なものだ。

神多田は二日酔いで泊まりの当番をしなければならなくなると、酷い時には点滴を打ってもらう。

「ビタミンや精力剤を打つ先生もいた、と聞いた事が有ります」

「そりゃ酷いね、男の先生はそんな人もいるのかもしれない」

「先生は、そんなの大丈夫ですよね?」

 ここぞとばかりに聞いてみた、

「そりゃ、私だって解らないよ、好い男に出会うと精力剤を打つかもよ」

「はは、そうですか、精力剤を打ちますか」

「ありゃ、精力剤と言うより、病弱になった患者の気付け薬だからね、君には必要ないだろうね、眠れないで走りまわらないといかんかももしれないね」

女医はそう言って笑った。

「君なんか若いから、打つ必要はないわ」

 主任クラスの看護婦が口を挟む。

若い看護婦達は恥じらいもあってか、滅多にはベッドルームからは処置の時か食事のとき以外は出てこない。

主任クラスともなるとどうどうとしたもので、平気で下ネタでもついてくる。

「神多田君は幾つになる?」

「二十三歳です」

「まだまだだね、これからじゃないか、市の方ではどういう身分なんだ?」

「まだ事務員ですね、後一年で事務吏員の研修があります」

 市では最初に中学しか出ていなければ、雇員で入庁が許される、続いて事務員、事務吏員と上がる事になっている。

雇員は雑用しか仕事が無い、中学しか出ていないので特に地元の同和対策の雇用で入ってくる事が多い。

ガラが悪くて言葉づかいも酷い、地元のスラングがおおにして口から出るのだ。

この辺りは同和地区で有る事も相まって特に酷い、神多田などはこの場所が初めての職場なので、最初は何を言っているのか判らないほどであった。

そうして雑談をしていると、けたたましいサイレンの音と共に救急車が入って来た。




           





指詰め




慌てて神多田は対応に外に出た、冷たい冬の風は、神多田の頬を斬れんばかりに差す。

救急の隊長らしき男が、

「三十五歳男性、ヤクザのいざこざで指を詰められた模様です、救急で外科診療をお願いします」

神多田が、

「お電話頂きましたか?」

「いや何度車中から電話しても出ませんでしたね、そやから取り急ぎ、外科と言う事は聞いていたので来ました、お願い致します」

 突然の応急に神多田は焦った、多分、電話が多くて話し中が多かった。

「しばらくお待ちください」

 頭を廻るのはまだ顔を出していない外科の若い医者の事だ、新任の先生なので何処で如何しているのか不明である。

院内のマイクを使い、院内放送をしてみた。

「外科の榊先生、外科の榊先生、救急の方まで至急お越しください」

 暫らくすると不機嫌そうに若い医者が降りて来た。

そそくさと診察室に入る。

救急隊が付き添いながら、ヤクザらしき人物が降りて来た。

「ワレ、ハヨしたらんかい、痛い、痛いのにから待たせやがって、ハヨせいハヨ」

まゆ毛の間が繋がって変な顔立ちであった。どうもよく見ると、眉毛と眉毛の間に龍の刺青が有る。龍が絡まり上を目指すように墨が入っていた。まるで孫悟空の頭に付いた冠だ。笑いが込み上げたが押し殺す。

「何見とんねん、兄ちゃん、ハヨ、先公呼んだらんかい」

 左の小指の先をタオルで巻いてにじむ血を抑えている。

瓶詰めの小指を救急隊の一人が持っている、磯自慢のパッケイジが目についた、又、笑いそうになったが押さえこんだ。

診療室でも騒ぎは続いているようだが、大きな声の割にはハッキリとは聞こえづらい、三十分ほどして何んとも処置が上手くいかなかったのか、慌てたように若い外科医が事務室の方に足早に入ってきた。

「先生、どうも神経の接続が判らないので、助けてもらえませんか?」

 パイプ燻らせていた女医だが、

「どうしたの? 手の指ぐらいは外科医として出来るはずではないのか? 当り前の事だろ」

 少し怒ったような口調で若い外科医を睨んだ。

スクッと立ち上がり、診察室にゆっくりと歩いて行く、若い外科医はその後をすごすごと着いてゆく。まるで叱られて先生に説教を受けに職員室に付いて行く生徒の様であった。

 暫らくして女医の先生は又ソファーに戻ってきた、機嫌が悪い。

「外科医も落ちたもんだ」

 荒々しくパイプに火を付けた。

その後から暫らくして静かになった診察室からは、ヤクザの男と救急隊の一人が出てきて此方をちらりと見ると救急車に乗り込んで行った。

神多田は、預かり金を貰おうとヤクザの男の後を追ったが、救急車には乗らず、どうもタクシーでそそくさと診療費も払わずに逃げるように消えていた。

又、食い逃げならぬ診察逃げであった。金が無いのか慌てて財布を忘れたのか、此の手合いにはまともに診療費を払う気はない場合が多い。

又、金を取りに行かなあかんか、面倒な事ばかりである。

偉そうに喚き散らかすが、要は金を払いたく無いのか判らない。

取りに行くと決まって刑務所に居るとか居留守を使い、まともに払ってくれる事は無い。

ただ、出来た親分も居て直ぐに万札を出して、すまん、と言ってくれる親分も居る。

何度か取り立てに行った経験のある神多田は、又か、そう思った。

と言うか、神多田しか行かない体制であった、皆、恐ろしいのか行けないのである。

何んとも市の税金が大変と言いながら取れない、取らないのである。界隈にはヤクザの事務所が多い。

内容のあまり分からない馬鹿な神多田は、嬉しそうに、楽しそうに集金に行くのであった。

意味も判らず若気の至りで行くものだから始末が悪い、でも本人は楽しかった。

日がな一日、暗い事務室にいるよりは外に出る機会が有れば若い神多田は嬉しい。

取り立てに行くと出来た親分の計らいもあって、飯代、足代とばかりに五千円ぐらい余分にくれるものも居る。

そんな時はその地域の通中の通しか知らないお好み焼屋で、すじ焼き等を頼んでは一杯を引っ掛けて帰ってくる。

此のすじ肉はそこいらの犬やら猫のすじ肉と言う、もっぱらの噂が有った。

食うと、とても美味いのでそんな事は一度も気にした事は無い、神多田は一度このあたりで生まれた年上の職員から、足代でもろたんやから言わんでいいわ、と言われていた。

その通りにしている。少し、後ろめたい気はしたものの回を重ねるにつれて罪悪感は無くなった。

伊豆海さんと言うこの年配の女事務員はこの辺りでは有名で、この人がこの所謂、前身の病院からの古株で当に五十は過ぎていた。

顔が広いのかヤクザでもこの叔母ちゃんには挨拶を欠かさない、言わば地元の顔役なんだろうと思う。

太り気味の大きな体からは女と言う以上に貫録と迫力しか感じない。

当たり屋のヤクザのおっさんも刺青を入れた市会議員もこの人には一目置いているのか、事務所には挨拶にやってくるのだ。

この叔母さんが神多田を可愛がってくれた。事あるごとに高級ウィスキーをくれて、その代わりに家まで料理のカニを運んだりふぐを運んだりしていた。

その度に足代として五千円の足代を呉れる。神多田は嬉しくてしょうがなかった。

月給十万にも満たない、其れに小遣いとして五千円は大きい。

喜んで使い走りをしたものである。

車で向かうと永田の神社前である。その裏辺りに団地の家は有ると聞いてはいた。

その前まで行った覚えはないが一度は御主人が出迎えて呉れたものである。

御主人も市の職員と言う、愛想良く挨拶をした。

一度きりの事だ。でも妙に記憶に残ってはいる。そんな幸せな日々が、しんどいけれども嬉しい神多田が居た。

若い神多田はさらに恩恵を被る。

ヤクザの当たり屋の名前は忘れたが、六十絡みの叔父さんが居た、伊豆海さんの知り合いだ。

事務所の中央に座り偉そうに煙草を燻らす、大きな声で指示を出すし少なからず神多田は嫌な思いもするのだが、副産物は大きかった。

「嫁はんから、これを兄ちゃんにとの事や」

 笑いながら渡してくれるのはトルコの券、割引券なんだ、神多田は気がついた。

「御目子券や」

トルコに割引券が有るのだ。此の叔父さんの奥さんとは何度か会っている。

何時もカルテや薬を取りに行くのは神多田の役目だ。

周りの若い同僚達は此方をチラリと見ていた、どうも羨望と嫉妬、不謹慎を咎める目つきが入り混じっていたのを覚えている。

トルコは大好きである。入浴利用がタダだから五千円はやすい、ただ、巨人軍の名前が出ている、長島、王は売れっ子なので待っても出てこない。泊まり開けには風呂にも入れるし、酒も飲める、よく通ったのだが、阪神好きの神多田はそれが面白くは無い。

でも長島、王の売れっ子は如何なのか、気になってしょうがない、御目子はしたいからトドのつまり若い女で我慢する。

若い女は傲慢である、唯、寝て横になっていれば事は済むと思っている。

面白くない、唯のお目子の事だけなら好いのだが、何度も通っていると腹が立つ。

何だか、事務的で面白くない、させれば金だと言う感覚が拝金的で嫌だ。

当時の若い神多田にはそれがすべてであり、何物にも代えがたい崇高な愉しみそのものだった。




喘息死




何度か電話が鳴った、若い女の声からは主人の深刻な病状は伝わらない、簡単な喘息の発作と思えた。

暫らくして、救急が何時もの様にやってきた。

寝ている男は、唯、寝台に寝て静かである。嫁らしき女は、小さな子供を抱えて窓口に来た。

至って静かなしゃべり方からは、事の深刻さは感じられない、何事かと思った。

神多田は事務的な処理をして席についた。

それから五十分ほど、処置室の音は無い、静かである。

突然に、すすり泣く声が聞こえた、明らかに先程の子供を抱えた若い女の声だ。

其れは大きな嗚咽に代わる、

「おお、何で、何で……」

若妻が鳴いている、事の次第は若い神多田には俄かに理解しかねた。

診察室からは若い医者が出て来た。

電話で、

「喘息で窒息死しました」

 冷たい報告が鳴り響く、恐らく寝ている内科医の老齢の先生に報告しているのだろう。

冷淡な時間が過ぎ、沈黙のまま事は進んだ。

「三千円になります」

 預かり金の徴収と言う冷たい言葉を吐いた、心は冷たい、慰めの言葉を言う必要が有ると感じても事務は淡々と進める。

泣いて泣いて泣きじゃくる若妻にかける言葉は無い、驚いている様子の小さな子どもは母親の一大事に無言で見つめるしかなかった。残された若い妻と子供の将来が気にかかる。

一つ間違うと同世代の神多田も同じ境遇に陥るかもしれない、人の事には思えないのだが、事は静かなまま、冷静に行われ、冷たい、人として冷たい時間が流れた。

喘息として馬鹿にしていた、死に十分に至る大病なのだ。

冷静に事が進むのに言葉が必要である、閑寂を埋めて神多田は言った、

「ご愁傷様です、……」

 それ以上の言葉は出なかった、自分の子供も同じ年頃である。

今、自分がこの様に喘息で若い命を散らせば、残された妻と可愛い子供はどうなるのか、身につまされる。

時間と共に事務を淡々と進める自分に無力さを感じて、情けない。これが仕事、これが仕事なのだろう、慰めにもならない。若妻の細い手が、腕が震えている。

一心に顔を見つめる小さな子供には先ほどまでの鳴き声は無い、事の重大さは、小さな子供にも解る。

時間が流れると共に事は済み、事務的に、飽くまで事務的に済んだ。

怒りしかなかった、何故か判らないが、怒りが込上げた。

無力さに腹が立つのだ、若い医師が処置したからか、寝ている大御所なら出来たのか、

そんな運命に翻弄された若い美しい妻の泣き顔が妙に思いだされる、子供の、抱かれた子供のこれからの人生はどうなるのか、一瞬の時間に総ては巡る。

それでも冷たい時間は流れて、若妻と小さい子供は、淡々と事務的な流れに流されていく。

小さな子供は不思議に先程の様に元気には泣かない、其れが余計に不憫さを生んだ。

神多田も心で泣いた、因果な仕事だ、とても長続きする気はしない。

好い事も多いが苦しい場面も多い、これが救急の職場だと思った。

美しい妻は、言われるがまま、事務的な作業を済ませて子供を抱いて去って行った、一連の映画の一幕が終わった、そんな気がした。

誰も物も言わない、無言の時間が過ぎたのだ。人生でそんな時間は余り持てる物でも無い。

暫らくは救急スタッフの言葉は無い、無言である。それぞれの部屋に戻り、ベッドに戻り、次の患者を待つ、その間にどんな思いが去来するか、それぞれの心に何が残るのか、誰も知らずに眠りに入るのだ。

飽くまで救急は、淡々と合理的に済ませるものだと考えている、感情は無い、無用である、でも人間には感情が彷彿と湧いてくる。

因る瀬なく涙する事は救急では許されない、唯、淡々と事を成すのみである。




美男の悲哀




夜も十時を過ぎると救急の窓口も一段落して来た。

仮眠でも取るつもりでいたが、フッと人影が窓口に立った。

窓口のガラス窓を開けると、百八十はゆうにある長身で痩身の男が立っている。

ズボンのポケットに手を突っこんだまま、此方を見ている。

「どうかされましたか?」

マスクをしていた、だが、マスクに隠れたところを除くと絶世の美男子である。

眉と目の間が狭く、掘りが深い、まるで自殺した沖正也の一観が有った。

切れ長の二重瞼は此方を見つめた、男なのにゾクッとするほど美しい、

「注射、痛み止めの注射を打って欲しい」

 それだけでは解らないので神多田は、看護婦を呼んだ。

看護婦は、ひと眼見て美しさに驚いたのか、少し後ずさりしたが気を取り直して、

「如何されましたか、ただ、痛み止めと言われましても困ります」

「……」

 美男は暫らく、看護婦を見つめていたが、

「これなんです」

 と、マスクを下げた。

マスクの下は酷く爛れ、歯が根っこの方まで抉り取られている、醜く、爛れた唇は歪み、かろうじて口だと解る程度にしかついてはいなかった。

看護婦は思わず後ずさりをした。

上の半分との落差に神多田も戦慄を覚える、

「先生呼んで」

 看護婦は身なりを正しながら診察室へと行く、神多田は当直医を呼んだ。

美男はマスクを戻しながら、看護婦の後を追う。


「二郎……」

 姐御は、車の中で二郎の手をとり、自分の股間へと手を誘う。

二郎は又かとばかりに、その手をのけようとはしない、手を除けると余計に荒々しく攻められる。

「触って」

 割れ目はすでにしとどに濡れて、熱く火照っていた。

「二郎、ホテルに行こう」

 耳元で雌豚が言う、仕方なく二郎はホテルに入った。

週に何度かお茶や、着付けと言いながら、何時も運転を二郎に任せていた。

二郎はこの柳原界隈で生まれた、母は言わずと知れて、パンパンである。

父親は誰かは知らされてはいない、気づいた時には養護施設の一員になっていた。

母親は、この辺りでは有名な女で美貌で客を取る戦争孤児であった。

福原や柳町界隈には戦後の焼け跡時代から、色街と戦後に開かれた新開地が有った。

そこで二郎は生まれた、母親は判ってはいるものの、食う為とはいえ客を取らない日は無い。

見かねた近所の者達が二郎を赤子のうちに市の福祉に保護させた。

シャブと酒と男に爛れた生活から、二郎を何とかしたいと考えたのである。

連れて行かれる二郎を見ても母親はシャブを打ち、二郎を見もしない。

目がかすみ、意識が朦朧とする、早く死にたいと考える。

二郎の事等、自分の事で精一杯の母は、其れが却って二郎の幸せなのだと信じていた。

前の子供は薬のやり過ぎで水子になった、二郎は何の因果かこの世に苦労と共に生まれて来たのだ。

母譲りの美貌だけは、生きて行く上で上手く働いてくれた。

しかし、なるべくしてなったヤクザの世界は、裏目にも出てくるのであった。

何度か逢瀬を重ねて、二郎は組の者からチクられたのだ。

「二郎、一寸来い」

 組番を務めていた二郎は親分に呼ばれる、理由はすぐに分かった。

逃げるつもりでいた、便所に行くふりをしながら、小さな窓から逃げた。

それから、逃げる時に金庫から抜き取った組の金と、姐御からのその後の送金で半年は生き延びていた。

女が居た、礼子という。この女も、福原の女郎屋の女だ。

足抜きをさせて逃亡の生活に入った。半年が過ぎてもこの女に客を取らせたり、飲み屋をやらせたりしながら生活をした。

子供は一人いたが、小さい時に母親と同じようにシャブまみれの生活の中で殺してしまった。風邪を拗らせていたのだが、気付かないままに弱ってしまい、病院通いは、組にばれると嫌い、殺してしまったのだ。罪悪感は無い、仕方ないとしか考えなかった。

二郎と礼子は、涙も流さなかった、死に行くわが子を目の前にしながら、何も出来なかったのだ。

子供の死から世間に事情がバレた、子供を埋葬するには何かと役所の世話にならなければならない。埋めてしまおうとも考えたのだがこの寒村の東北の地では不憫さが働いた。

直ぐに組の者が見つけて拉致同然に二人と亡き子の逃亡生活は終わる。


ソファーに腰かけて神多田は落ち着きを取り戻そうとした。

美しい眼と眉にも拘らず、下の部分は殆どが爛れ落ち、見るも恐ろしく歪み、焼け落ちているようである。

塩酸を飲まされた話は後で分かった、塩酸で焼け落ちた唇や歯茎の一部、そして少なからず飲み込んだ事で食道や胃、腸が痛み、痛み止め、モルヒネに近いソセゴンの中毒患者と言う事が解った。

市内の救急病院では有名になっており、断るケースが多いと言う。

当初はそんな事は知る由も無く、驚きに満ちた。

なんでも、守衛さんの話によると、ヤクザの彼は美しさゆえに親分の女房や、愛人に玩ばれたのである。

何時しかそれは親分の耳にも入り、塩酸を飲まされたのだと言う。

美男ゆえの悩みであろう、女達は彼に群がり体を許す、羨ましい限りではあるが、周りの男達には嫉妬と羨望の眼差しでしかなかった。

やがて親分の女房、愛人が何んとか色仕掛けで彼を独占しようとする。彼は何度も断っていたらしいが止むなく手に落ちたと言うのである。

何んとも、哀れと言えば哀れな話であろう。

其れからも何度か、病院を訪ねては来るものの、窓口にはカルテの一部がコピーされ、解らない様に内側から張り出されていた。

消化器系の総てに及ぶ凄惨な内容であった。言わば、消化器系が塩酸の焼け跡で爛れているのであった。

痛みは想像を絶したであろう、その後の彼の消息は時と共に消え薄れ、カルテもいつの間にかはずされていた。




飛び降り




年に何度か病棟から、何号室の誰々さんが居ません探して下さいという報告が来る。

看護婦数人と、守衛、事務方が探しに出る。

概ね悲観した患者が自殺する、屋上から見て廻るのが常である。

癌であると解ると儚んで自殺するケースが多い。

何度か探しても見つからない場合もある、家に帰り、酒を浴びるほど飲んでいる人も居た。

屋上には揃えられたスリッパが有る、遺書も偶には見つけられる、スリッパの横に書いて置いて有る事が多い。

下を見てみると、横たわった体が見つけられる、血が辺りを覆い、見つめた目の先はこの世に未練を残したまま恨めしそうだ。

後始末には骨が折れる、守衛の人と決まって抱えながら霊安室に運び込む。

いつぞやは、途中で守衛さんの手袋を見た、神多田はしていない、素手で患者の亡骸を直に担いでいた。

「あかんわ、手袋欲しい」

 笑いながら守衛さんが、

「もう少しや、辛抱し」

「頼みますわ、ハヨ言うて」

 笑いながら守衛は先を急ぐのだ。

偶に小水を垂れ流している者も居る、自殺と言う勇気のいる事がそうさせたのかもしれない。

亡骸に冒涜は許されないが、手袋はしたいものだ。

何度かの悲痛な思いを通して、泊りの仕事の時には、手袋を用意した記憶が有る。

又、後始末として、血糊の激しい地べたに水を掛けながら束子で擦っても取れない事が多い、寒い冬などは大変で泣きたい気持ちで擦ったものだ。

拭いても拭いてもこの世に未練が有るのか取れない事が多いのだ。

大変な作業を守衛の人と共有しなければならない、これで手当てが付かないのは致しかた無いのか、何度も疑問を感じた。

又事務員の中でも年寄りの人たちは、泊りをするのが嫌な人が多い。

代わってくれと切願される、神多田は手当て目的もあるのだが、可哀想に思い、代わる事が多いのだ。

何時しかそれも、会議の中で問題になった。

神多田ばかりが泊りをする事にだ、周りから苦情が出始めた。

手当て目的で泊まり開けに家に帰るのが度重なると、不公平だと言うのである。

神多田は月に四度ほどの泊りをこなしていた、通常は二度ほど回って来る。

それでも神多田は、別に回数が減ろうと構わない、如何とでもしてくれと言う気でいた。

泊りの仕事は大変で、年をとると、辛い仕事で有るのは当たり前なのだ。それよりも怖いことがあった、会議でいつ話題にされるかとひやひやした、神多田は、両替と言いながらレジの金を横領していたのだ。初めてその行為をしたのは、レジに来る客の金の渡し違いからであった。

一万円として預かったのが、二万円払ってきたのだ、新しいお札はひっついてしまい、一枚のように見える。

神多田はすぐに気づいたが、黙っていれば分かるまいとそのまま預かった。それが始まりで癖になった。

一日の売り上げが五百万近くなるのだから判るまい。

それを続けて来たのだ。辞めようとしても辞められない、どうせレジを閉めるといつも金銭の出納が間違っていて帳尻合わせに打ち込みをしたりしている。

金は不思議と増えるばかりで余った金はレジで打ち込んでしまうのだ。その中から幾何かの金をくすねていた。

いつもだめだと思いながら、治まらなかった。それよりも人から見られているのではないかという不安のほうが多かった。誰か見ているとしても黙って見過ごしてくれているのではないか、何時かはばれてしまい、懲戒免職になる。そう思っていた。でも辞められなかった。係長から呼ばれたりすると心臓が高鳴った、ばれた、いつもそう思った。

しかし、超過勤務が多いのと、残業の日時が食い違っているとの指摘であった。

みんな病院勤務は忙しいので超過勤務は、日を違えても違う日につけることが恒例になっている。昼当番などの時には、三〇分単位で超勤をつける、一時間単位しか認められないから次の日にまとめて一時間つけるのだ。

そうすると休みの日にもつけていることがある、それを知らない新しく入った係長などは間違いだと指摘してくる。ろくに仕事もしていないくせに人のあら捜しに忙しい係長などは係員たちの攻撃の的にされてしまうのが落ちであった。忙しい時に係長だけが暇そうにタバコなど火をつけていると、皆からは嫌われて相手にされなくなる。特に思い出すのは草元係長であった、何処か飄々としていて緩い感じがあった。皆には嫌われ、話しかけてきても忙しいとばかり相手にはされていない。最後には心臓神経症か何かでどこかに飛ばされていった。泊りは病気の所為で出来ないし、理屈っぽい性格は病院の忙しさには議論の時間もなく、そのうちに誰からも相手にされなくなった。釣り自慢をよくしていたが、誰も耳を貸すものもなく、壁に貼られた大きな真鯛の魚拓を見たことはある。そんな仕事が出来ないという噂は、課長の耳にも入り、何時ぞやは怒鳴りつけられているのを見た事も有った。二年の苦行は終わりどこかの部署に飛ばされてしまった。

話を戻すと、又、いつぞやは、何度探しても死体が見つからない事もあった、家にも何処にも姿が見当たらない、夜に飛び降りをする事が多いし、きまって冬が多い。

儚むには、冬時で夜という設定が必要なのだ。

朝方、守衛の人から、

「見つかりました」という連絡を貰った。

歯科診察室の前に下がエントランスになった前栽が有る、その前栽に頭から突っ込んでいた。常緑樹の前栽に足だけが出て、まるで犬神家の一族の一場面の様相で有った。冬なのでその死体は凍り付き、マネキンが逆さになっているようだ、白くなった顔には霜がおり、とても人の物とは見えなかった。

得てして、自殺が多い守衛さんが居た、この人と泊まると決まって自殺者が多いのだ。

大坪という守衛さんが泊まると自殺者が多い。

この人と泊まりになると怖くてしょうがない、何時死なれるか解らないのだ。

無ければホッとする。

もう一人仲の好い守衛さんが居る。無愛想な大坪さんに比べて、この杉本さんは年も近い、

朝まで気にせずに話をし、働いた。泊りが寧ろ楽しくなっていた。

この杉本さんは三十を超えていたがとても楽しい人物で、結婚などは考えていない様子である。

泊まり開けには決まって福原か柳原で酒を飲んではトルコに行く。

神多田は、貰う割引券をこの人にもあげた。

喜んで彼は神多田を誘い、飲み歩き、トルコにしけこんだ。

玉屋の入り口には、名札が有る、黒と赤の名前が有り、赤の時にはその名札が客取りの合図である。いつもの長島は、赤で有ったが、その日に限って王の名前が黒くなっている。

神多田は迷わずに王を指名した。

見なれた従業員の男が付き添い、部屋まで案内をしてくれる。

「今日はついとりましたな、売れっ子やさかい、なかなか空いてません」

 中から美しい細めの背の高い女が着物を着て向かい入れてくれた。

着物は帯をしておらず、中の肌衣だけが紐で占められている。

上の派手な色合いの着物は袖掛けしたままの状態であった。

「いらっしゃいませ」

 丁寧に膝をつきながら、三つ指を衝いて出迎える。

色っぽく、項からは、ほんのりと女の匂いと湯上りの火照りが立ち込めた。

顔を上げると色白の何処か不幸を背負った、凛とした女の美しい顔が有った。

これが売れっ子と言わんばかりの孤高も感じる。

神多田は溜めこんだ思いのたけをぶつけた。何度激しく抱いても女は表情を変えずに相手をしている。

変えて成るものかという意志を感じた。余程の事が有るのだろう。

どんな男に抱かれても変えない意志を持って要るよう、何か原因は解らないが想像はついた。

神多田には、この王なる女が二郎と逃げた礼子に思える、思い入れが合致した。

子を亡くし、美貌ゆえに数奇な運命に振り回された二人の片われであろうか、と。

確認は出来ない、しかし、その日はそのつもりで、その想定で彼女を抱いた。

変な、何時に無い感情に、酒の力と共におぼれて、我を忘れたのを覚えている。

それから、その王なる女には、惹かれるままに何度か通ったが会えなかった。が、短い時で感じた思いは忘れる事が出来なかった。そうではないがそうであって欲しい思いが有ったのだ。

こんな人生に負けない、意志が有ろう礼子が居た。愛した二郎はその後の消息は知らないが礼子と一緒に居て欲しい気がする。聞く事も出来ない思いが充満した夜だった、せめて一夜でも労わりたいという思いは有った、行為とは裏腹に……。


病院の受け付けをしていると、ふと目に留まる人が居た。

大きくなってはいたが、何処か面影の有る子供が居た。その傍らには美しいあの喘息の夫を亡くした女の人が、髪は切って、短くなっていたが判った。

軽く会釈を呉れた、思わず会釈をし返して、声をかけた。

「その後、御元気でいらっしゃいますか?」

声は聞こえない様であったが、その美しい微笑みを初めて見た時には、なんとなく安心したのを覚えている。

やはり美人には微笑みこそが似合うと思う、そう感じた。

あれから二年の月日が彼女を変えていた、よく変わったのか、悪く変わったのか、神多田には知る由も無いが、見た限り、悪くは無いように思えた。

唯、間違いなく強くは生きている気がした。子供と共にどんな二年間を過ごしてきたのかは分からない、でも本当にその言動や仕草には子を持つ母親としての強さや、力強さが備わって逞しい、そう逞しさが備わっていた。

明るさと過去を振り返らないこの子と共に生きて行くという力とたくましさが有った。

少なくとも、神多田にはそう見えたのだ。

礼子にも言える事だが、此の二人に共通しているのは、荒波に漉然と立つ灯台の様な可憐さが有るという事だ。




狂人




朝早くから、神多田は、昨日の救急の計算を済ませようと躍起になっていた。

昨日は連休の所為もあり沢山の患者が来ていた、計算も大変である。

もうすぐ窓口も空いてしまう、何とか間に合わせようと必死であった。

「ガシャン」

 窓口の向こうで異様な音がした、

何だろうと神多田はカーテンを開けてみた。

窓口の窓越しに眼鏡をかけたスーツ姿の男が此方を向いて立っている。

目は虚ろでどこかおかしい、一瞬にそう思った。向こうのカウンターには、灰皿が転がり、灰がこぼれ落ちている。

頭がおかしい、又咄嗟に思った。

「東大を出ていないからお前らは出世できない」

 いきなり言った。

「……」

 返す言葉は見つからないで、茫然としていると、

「お前らは潮岬の灯台や」

 笑うとまた踵を翻した。

今度は、大きな、待合においてある灰皿を投げようとしてきた。

神多田は仕事を邪魔されたこともあって腹立ちまぎれに睨み返した。

怯んで男も隣の入院係のカウンターに灰皿を投げた、大きな音とともに、窓口にぶつかったが、幸いに、窓ガラスは割れず跳ね返った灰皿が男のもとに帰ってきた。

スーツに灰がかかり、男は慌てたが、それが余計に腹が立ったのか、足で蹴り返している。

そこに守衛の人たちが数人現れた。

大声をあげながら数人の守衛に囲まれて男は去った。

また数日ののちに、男は現れた。

待合の椅子に腰掛けている。キチガイにはつける薬がない、神多田は横目で侮蔑しながら、通り過ぎようとした。

その時、大声で叫んだ、男は、訳のわからぬ奇声を発したかと思うと、今度は大声で泣きだしたのだ。

「おおー、おおー」

 それに恐れて子供が数人泣き出した、声に驚いた母親たちは子供を固く抱きしめた。

さらには身を上下に揺さぶり、激しく泣いていた。

神多田は、嫌悪とある意味での恐怖を抱いていた。

ある思い出が浮かんできたからだ。小学生の頃、

「神多田、この道を抜けてみろ」

 友達の翔やんが言う、何故だかわからないが、翔やんの含み笑いを思い出しながら狭い袋小路を自転車を降りて歩いて行った。

去ること十数年前、神多田は姫路の車崎あたりに住んでいた。

突然、目の前に現れた五十絡みのおばさん、

「あんたら、キチガイやろ、キチガイいやったらキチガイらしくしなさい」

 怒鳴りつけられた。

驚きと衝撃で、神多田は泣きそうになる。

「うるさいわ、婆あっ」

 翔やんが怒鳴り返した、どこかしら楽しんでいる、そんな気がした。

半泣きになりながらその場を逃げた、翔やんとは、其れからは会っていない。

突然の別れがあったのだ、夏が過ぎて2学期が始まる前に親父の転勤で明石に引っ越してしまった。

それ以来のキチガイとの遭遇である。

激しく異様なまでの感情の表現に神多田はその時のことを思い出したのである。

思えば翔やんは変わっていて、人生を、そこまでいかなくとも、少なくとも、人を斜に構えてみる節があったように思う。

恐怖が、年月の所為か、嫌悪も含みながら目の前にあった。

周りの子連れの若い母親などには、恐怖と嫌悪の気持ちが顔に出ている。

また守衛の人たちが取り押さえに来た、

「……」

 前は暴れていたが今回は大人しく、守衛の誘導に従って行った。

それ以来会うことはなかった。が、暫くして、当直の折に、神経内科の医者が、その男のことを話してくれた。

当時は精神科というと、恐ろしくて誰も遠ざける存在であった。

しかし、遠ざけても今と変わらず患者はいた、今はどちらか言うと猫も杓子も精神病であってそれを好いことに年金がもらえる、と狙っている者がいるように感じる。

なんでも優秀な、ビジネスマンであったらしい、某有名商社に勤めていたのだがある失敗があり、あんな風になってしまった。失敗が許されない世界ではある、当時石油戦線真只中で、商社は熾烈な戦いを余儀なくされていた、そんななかでの出来事であったらしい、医者は言う、

「人生はどうなるかわからないものだ、東大を出て優秀であっても、どこで歯車が、人生の歯車が変わるか知れたものではないよ」

 吉田は、会社命令でクエートから乗り継いで砂漠の街にやってきた。

当時、クエートは砂漠一色の町であった。

砂漠が一色とはおかしな言い方だが、当時はそう呼ぶ日本人が沢山いたのだ。

嫌になるほどの一面の砂漠、ここに日本人たちは新たな金の稼ぎ先を求めてやってくる。

エコノミックアニマルと揶揄されたが、当時の日本人たちはどこ吹く風と受け流し、戦後の復興とばかりに躍起に働いた。

 神多田の親父に至っても、2年間の砂漠暮らしを余儀なくされた。

後で聞いた話ではあるが、神多田の親父たちは、休みになると街に出ては酒を飲んでは女を買った。いろいろな国の女がいた。

黒色、白色、黄色、人種の坩堝、楽しかった。

酒はいろんな種類が飲める。中にはアブサンのようなやばい代物もあった。

会社の為、家族の為、しいては国の為とはいえこんな地の果てまで来て、毎日砂漠で働かなければならない。

一人などは神多田の親父の社宅暮らしの折に二階に住んでいて、名前は忘れたが、その御主人などは、砂漠を掘ったパイプラインの穴に落ち、足場に腰を散々に打ち付けられて帰ってきた。

心という小さな娘がいたことだけは、神多田が高校生だったのでよく覚えてはいる。

吉田もそんなモーレツ社員の一人ではあった。

石油のバイヤーと石油の買い付けをしなければならない、相場が変動するので安く買わなければならないのだ。

勿論現地の人間にすれば高く買ってもらえるに越したことはない。

そんなある日買い付けた石油は、相場を度外視しても、とても信じられないほどの安値で買い付けられた。

吉田は、有頂天になり、酒を煽った。これで俺は同期を飛びぬいて昇進できる、とも想うことは致し方ないことではある。

しかし甘い夢は儚くも消えた。

石油を乗せた船が海峡を渡る手前で折からの内紛ですべて奪われてしまったのだ。

中東危機が叫ばれてはいたが、折しもこんな時に、ついてはいない。

吉田の酒は、やけ酒に変わった。

会社に連絡もせずアブサンを煽った。

三日三晩、現地の連絡も取れない女の家で酒に女にと現を抜かす。

当然会社からは、現地からの早期撤退と減給、懲罰処分を食らう。

東大までは上手く入れた、官庁の役人の道は無かったが、教授の助手という手もあった。

しかし、学んだ経済を生かす道は、商社しかないと考えてこの道を選んだのだ。

吉田の流転はそれから激しく、地方の漁場勤務を命ぜられて北陸支社に飛んだ。

この頃から心を病んだのか、言動がおかしくなる。独り言が多く聞かれて、夜になると、寝ていてもお経が聞こえてくる。なぜか般若心経のようであった。

布団をかぶり枕で頭を抑えてみるが聞こえてくる、壁に何か住んでいると壁を叩く、挙句の果て、壁を割り出した。

とてもではないが隣の住人から苦情が出て、住む場所を追い出された。

当時強制入院の制度があったのか定かではない、気が付けば生まれ故郷の神戸に帰ってきている。

通う病院は転々と変わり、当病院は、大学病院の紹介であった。





狂人そのニ





神多田は、昼まで泊り明けの処理と月末に請求しなければならないレセプトの処理に追われた。

朝からの雨で、帰るには一時間半の道のりがある。

伊丹までの道のりは遠い、でも生まれたばかりの娘と女房が待っている。

福原に時化こんでもいいが、懐は相変わらず寒い。

仕方なく仕事を済ませるといつもの病院食堂で飯を食うこととした。

 下に降りると何やら騒がしい、

「ガシャン」

 食器が割れる音がして、慌てて入ってみると、一人の食堂の賄の女給仕が暴れている。

この女は、前から愛想が悪く、神多田も少し変な女だという気持ちがしていた。

注文を言っても返事はない、ツンとして横目で睨む。

今、目の前で起こっている行状は予測できないものではなかった。

カウンターに並べてある食器の山を腕で横に押して落としていた。

何度も繰り返し、暴れた。

また守衛の人が見かねて飛んできた。

「何をするんや」

「やめなさい」

 厨房からは、料理を作るおばちゃんたちが叫んでいる。

守衛の人が手を抑えるとしゃがみ込んだ、そして何処にも行かないという風にその場から離れようとはしなかった。

 神多田にはこうなる予感は日ごろからあったのである。

何処かしら、社会に慣れてはいない、いい意味合いでは、世間ずれしていない。

それでいてまだ中高生のような反抗的な瞳があった。神多田には、其れがわかる。

自身もその様な幼い部分がその当時には持っていた気がする。だから、反抗、社会に対する漠然とした反抗心、其れがあった。

今、それがなるべくしてそうなってしまった。と、言っていいと思う。

こんなことを考えながら、漠然と彼女の行動を見ていた。

やがて連れ去られて行った彼女、神多田も何時自分がこんな形で爆発するかもという心配を自身で感じていたのを思い出す。

作り話でしか想像を出来ないが、例えば、

「母ちゃん、言ってくるけんね」

「敏子、頑張るんだよ」

 敏子の母親、しのは涙ながらに敏子の見送りに来ていた。

船はやがて、港を出ていく、二人の門出は冬の寒い夜であった。

中学を出て父の代わりに働きに神戸に向かい、親戚かなんかの伝手で市民病院の食堂に勤る。

妄想はさらに膨らんで、

ここがお前の明日からの部屋だよ、と言われて、四畳半一間の部屋を与えられる。

当時は携帯電話はない、トイレは共同で、風呂は近くの銭湯。

夜な夜な家に残してきた兄弟のことが思い出されて涙する。

母親は相変わらずの夜なべで内職をしている、病気がちか、さもなければどうしょうも無い博打打か、父親はいても意味がない家計の邪魔である。

敏子は神戸に来て、なんとか家の助けにと金を貯めるが、偶々、出会ってしまった不良な男に騙されて金がなくなる。

やがて荒廃してくる敏子の生活、そんな時に、

「敏子さん、早くお客に注文聞いといで」

「早く洗い物を下げてきて、私らが帰れないやないの」

「彼氏が待ってるから早くしてきて、遅いわね田舎者は……」

 そんな中傷やいじめが続き、敏子は爆発寸前な状態にまでなる。

そんなある日、客に初めてやっと喋れた言葉に、

後ろの厨房から、

「へえ、やっとお客としゃべれテンやな?」

「少しまだ、変やけど、方言丸出しかも」

「不細工やわ」

 切れた、大いに切れた、敏子は目の前のガラスというガラスを叩き割った。

ひきつる顔が、厨房のひきつる顔が見えた。

心の中では、どうだ、偉そうにしていてもお前らには出来まい。

敏子はもういい、如何なってもいい、心持ちしかない。

母ちゃん御免と謝りながらガラスを割った、でも目の前にいる根性の腐りきった厨房の奴らには、如何だお前らには出来るのかこんな破壊行為が……。

何処までも被害者ぶって生きていきな、本当は腐れ切った根性のくせに……。

と、言ったところかな、神多田の単純なフロイトならぬ分析が済む。

暫くして、敏子は寮の一室で首を吊り死んでいた。

中学を出てからなので雇員級で入ってきたのだが、いたたまれずに死んだ。

厨房の女たちは、今日もまた敏子に代わるいじめの対象を求めて働いている。

守衛の人達には、どんなに自身たちが正義で敏子が悪かを言い続けている。キチガイだと言う者もいた、神多田には、どちらがキチガイなのか計り知れないという思いがあった。今考えてみると、そのころの神多田の当たらずとも遠くない分析に驚いたものだ。

自殺した敏子、仮名ではあるが、その話を聞いて想像力に驚いたものだ。

実際の名前は知らない、苗字までは聞いたかもしれないが、今となっては覚えていない。

一六,七の多感な女の子にもっと如何にかして救いようもあったのかもしれない、と、思うと生き残された者たちには不幸だけが待っていてほしい。親や兄弟を除いてだが……。

さらにはそれから数か月して、吉田の飛び降り自殺があった。

冬の寒い晩に、病院の屋上から飛び降りたのだ。

ドバイかクエートで買ったスーツを着ていた、やはりその日の当直の守衛は、大坪であった。

 

こうしてみると日本人は自殺が多い国柄である、世界でも有数の自殺国家であろう、なぜこうも死ぬかというと、個性を認めず、従属を押し付ける。

自由がなく、働きずくめで逃げ場がない、いわゆる、ファシズムの温床が未だ国是に残っているから民度が低く、ゲオポリ的には島国で逃げ場がないことに由来するのだろう。と、神多田は、結論付けた。




 宝子




 関多田が熊本の駅に立ったのは、昭和三十年代初頭であった。

東京の大学病院から渋々、地方の定員割れに乗じて水俣の市民病院に派遣されてしまった。

 この時代、就職先は見つける事がかなり難しかった、特に医者となると上昇志向の者が多い。

よって地方の病院に行くのは殆ど変わり者であるか、家が医者で大小の差はあれ、大学にのこる事等執着しない、最終就職先が決まっている者であった。

暫くのうちは、苦労しなさい。と、言う事である。地方見聞、かわいい子には旅を……、と、言う意味も有ろう。

 関多田は、漸く東京の医大を卒業し、インターン制度を受けて東京の大学病院に就職する予定だったのだが、成績芳しく無く、地方の病院に空きのある水俣の市民病院勤務となる。内科医であった。

少々、不足ではあるがこの昭和の景気に翳りの有る時代、そう言ってはおられない。

 熊本の水俣は、熊本県の最南部に位置する都市である。西は不知火海に面して天草の島々を望み、もともと海の幸、山の幸に恵まれた風光明媚な土地柄である。

農業や林業もあるが主に漁業が盛んである。

おいしい地元の魚は、博多の料亭等に直送するが、何よりは、やはり地元で消費する事が主である。

「先生、今夜ば、熊本の町案内するけん、はよ仕事の段取り済ませてきんしゃい」

 事務長の倉田の案内で初任の挨拶もそこそこに、医局の重鎮達と今夜は宴会である。

料亭に行くまでの時間が迫っていた。

と、流暢に煙草等を吹かして時間を待っていると、そこへ、てんかんに似た症状を持った患者が、病院の玄関を母親らしき人物に抱かれて入ってきた。

「救急でお願いしたいんばってん、何方に行けばよかと? 」

「こちらに来てください」

 守衛が、大きな玄関口から廊下の突き当たりの方を手で示して来た。

其の女の人は、汗ばんだ顔を蒼白に染めて、言われた方向にそそくさと向かう。

アナウンスが流れて、内科の医者が呼ばれていた。

関多田は、相変わらずに煙草をロビーで吹かし込んでいる。

そこへ、ストレッチャーが走り回る事態となった。

ザワザワと五月蝿く、多少迷惑な気がしていた。

年はまだ十五歳から十六歳というところか、あごをあげて泡を吹き続けている。

目は既にこの世に無いようである。チアノーゼの為に顔が真っ白になっていた。

手は少なからず指先の関節や、手首のところでひどく折れ曲がっている。

そこに痙攣が混じり、足も手と同じような様子を呈している為、何時、台の上からこぼれ落ちるか気が気で無い。

「先生、暇そうにしとらんと見てやんしゃい!」

 突然の言葉に驚き、慌てて声のする後ろを振り向いた。

そこには少なからず怒りに満ちた様子の看護婦が立っていた。

仁王立ちの風体、腰に手を当て此方を睨む。

「私は今から用事が……」

 言う暇も与えてもらえず、肘当たりをつかまれ、救急診察室へ連れて行かれた。

仕方なく診察をする。気管切開をし、気道を確保して息を出来るようにした。

漸く血が通う、顔色に血の気が戻った。胃洗浄と気管洗浄を施した。

嘔吐物が気管に詰まっていたのである。先ほどの様子では、幼く見えていたが胸のふくらみや、太もものふくよかさを見ていると、やはり二十歳前後には見えた。

カルテを見てみると、二十一歳、かなり貧弱に見える。病気のせいか、成長が止まってしまったのだろう。身長はどう見ても、百五十センチ前後しか無い。

呼吸が確保出来た事により、血の気が戻り、呼吸音が正常にもどった。


「ありがとうございます、助かりましたけん」

 母親らしい、体の、これまた頑丈その物の女性が立っていた。

エプロンに長靴、モンペ姿である。関多田にも其れは、海の市場当たりで働く女という第一感がした。

診察室を出ると、

「しえんしぇ、何処ば行っとったんよ? 探しよったとよ」

 事務長の倉田が言う。

「いやいや、救急でして……」

「そないば、他のもん頼ばねば! まあ、よかと、行きまっしょ」

 それから、市内の料亭で何やら関多田には珍しいもの、魚料理や揚げ物など関東地方ではお目にかかれない馳走を食したのである。

夜中まで宴会は続いた。倉田の独壇場だった。

お座敷芸者風の雇仲居がよばれ、宴会に花を添えたつもりなのだろう。

花を添えたのかどうかは、関多田等にはあやしい。

年が上すぎて花とは言えないのだ。

それでも自分の為に開いてくれたと思うと中座は出来ない、しかし、最後には倉田を中心とする宴会屋の楽しみや道楽であった事に気づいてしらけてしまった。

 漸く終わると挨拶もそこそこに、新居となった病院が探してくれたアパートにたどり着いた。

帰りに不知火湾の海沿いを少し見聞がてら歩いてみた。

夜中になっていたのでよくわからなかったが、どうもやはり腐敗臭のような匂いがした。魚が腐っているのだ。

海と反対には、巨大な工場群が立ち並んで異彩を放っていた。高さがあったので見上げたが、夜の帳で分からなかった。上を向いていると、急に酔いが回って気持ち悪くなったのと眠気をひどくもよおした。

「早く帰ろう」足早に家路に着いた関多田だった。

 数日後、検査結果で救急の彼女は、水俣で最近流行りだした、奇病である水銀中毒に当たっているとの事。

有機水銀を触媒として使うので、窒素肥料やプラスチックの原料という製品が出来れば、要らなくなった水銀を海に垂れ流していた。

此のような被害者は、胎児性のものが多く、生まれた時からの脳てんかん症状に似た病状が出ていた。

水銀は有る程度、尿や便、汗等で排出されるのであるが、摂取した時、脳や臓器を破壊する。破壊された部分は水銀が出て行っても壊れたままである。

被害者は続々と増えて来ていて、裁判も各地区が一丸となって行われようとしていたのだが、問題が有った。

此の窒素農薬工場で働く家族が多かったのである。

被害者でありながら、親会社を訴えて仕事が無くなるのを恐れる被害者家族が、多いのであった。

此の事が発見を送らせて、なおかつ、裁判で時間を必要以上に採らせた原因となった。

其れを良い事に会社側は操業を続け、空前の儲けを得た。

実際に、会社側はのらりくらりと事実をはぐらかせて、被害者家族に謝罪どころか、儲け優先の資本主義の悪徳を地で行っていたのである。

銭ゲバ、等と揶揄されようがおかまいなしの窒素農薬工場の会社社長であった。

此の会社社長、恐ろしく金に執着心が強い。培養に使った水銀を有機水銀でなく無機水銀と書き換えさせる。

献金を国会議員につかませたりして国の認定基準や認定そのものを遅らせ、緩く甘くさせたりしたのだった。信じる物は金だけであった。

当然にその魔の手は、市民病院にも忍び寄り、子飼いの市会議員等を使っては市民病院にも間接的に献金を行って来た。

関多田が、派遣された市民病院の宴会にも此の社長は顔を出していた。

「先生一つ今後ともよろしく」

「はい、此方こそよろしくお願いします」

「院内にも、似非インテリみたいな輩が増えて困るね、事務長」

「そうですばい、こん頃においては、ビラまで巻きよるけん、心して院内では    そげんこつせんように見張りますけん」

 何処までもごま摺りに徹している事務長であった。

「関多田先生、今日会った看護婦には気をつけてくんしゃい、ありゃあ、今社長がいっチョル、向こう側の人間ですばい」

「向こう側? 」

「そうですばい!」

「ケチばつけてからに、会社が流す廃水でやられた魚ば食うて、あがいな病気になったちゅうやぬかしよるんばい!」

 一応公務員である身分故、首には出来んが、共産党員であるという事であった。

「アカやばってんが!」

 捨てるように言った事務長の倉田の言葉が忘れられなかったのである。

関多田は思う、水銀中毒である事は検査結果から明らかである、かといって其れを此の病院では言ってはならない。

どうせ暫く居てまた東京に帰るのだから、事を大きくする事も無いと考えていた。それにこの宴席の帰りに、社長から金一封を頂戴している。

壱拾萬と言う金は此の頃の金にしては破格である。

此の金が口封じみたいなもんだろう、そして子飼いの給金なんだ、関多田の脳裏には漠然とそんな考えが浮かんでいた。

 幾日か過ぎて、

「先生様、この間は偉そうにしてごめんなさいね、お見知り置きを……」

 割れんばかりの笑顔を振り撒きながら、近寄って来たのは、この間の仁王立ちの看護婦だった。

「水島恵理と言いますけん」

 また割れんばかりの笑顔だった。

この間とは違い、笑顔の中に屈託の無さと親近感を持っていた。

少なくとも、関多田の生きて、学んで来た人間関係の感性においてはそう感じた。

「百合の調子ばあれからよかとよ、ホンに有難うございました……、妹なんですばい」

 合点もいった、あの剣幕で偉そうにして来たにはそれなりの理由もあったのだ。

「どういたしまして、これからもよろしく頼みます」

 関多田は、すっきりとした関東弁を喋った、すると、

「私たちは先生のような関東弁を聞かんからね、なんとも、映画のようですばい」

 と、恵理はカラカラと笑った。

「ほいじゃ、先生またね」

 走り去って行く恵理と同僚達であった。

白衣の後ろ姿を暫く追って見ていると、東京の看護婦や女達とは違う、健康美があり、素直で元気そうだ。好感が持てた。垢抜けしてないがその分近づきやすい。

 関東弁か、此所じゃよそ者だからな、せいぜい当たり障りの無い滞在を望みたいものだな、と関多田は思った。

その晩、寝ていると、艶かしい夢を見る。

 百合の体は少し、汗ばんでいた。その白い太ももからは、匂い立つほどの目に見えない蒸気とともに女の香りがした。

少なからず百合は興奮を覚えている。

股間から、特に甘い蜜のような滴りが女陰の線に従って伝わるのである、其れは肛門に向けて滴り続けている。顔を見ると、上を見詰めたままの恵理の、えっ、恵理か? 百合、か? 欲望に押し消されて何方でも良くなった。

関多田は美しい姉妹に魅了された。気管切開、胃洗浄をしながらも何時にも無く、吐瀉物、嘔吐物の匂いも気にならない。百合の口から、喉からでたものは、美しい香りがするのである。

いや、間違いなく甘い香りとともに性的な媚薬を吐き出していた。甘い汗が少しずつ、少しずつ百合の、恵理の内股から噴いて湧き出して来ているのだ。

薄い茂みから赤い秘部が開かれて光るものが滴っていた。

太ももが少し寝ている診察台から立てられ、横へと押し倒されたのだ。

百合の、恵理の覗き込むような笑みがこぼれて、関多田を誘っている。

関多田は股間の密を吸い上げた。

「はう」

恵理の、百合の小鳥のさえずりのような嗚咽が、甘く聞こえた。

一物の異常な腫れを感じて目を覚ます。

既に夜は開けて、晴れやかな秋空が広がっている。

窓を開けながら、カーテンが大きく揺れ動いたのを見た時、夕べの夢を思い出して心までが大きく揺れ動いた。恥ずかしさを覚えた関多田は、少し汗ばんでしまったパジャマを剥ぎ取った。股間は未だ腫れそぼるばかりであった。

「いやあ、久しぶりにあんな夢を見るとは? 」

 また、裏腹に若さの自信も湧いてくる気がした。どうもその日を境に、恵理の体を見る目つきが変わったようだ。

あまりジロジロとも見てないのだが、少なからず相手にも悟られているかもしれない気がした。

医者と看護婦の不倫ないし恋愛は、聞き飽きるほど日常的である。

 そんな時、百合に水俣病という名がついた病名が出た。百合は元々、胎児性の病気ではなかったらしい。

三歳当たりまでは、恵理と目前に広がる海原の恵みを、食べ尽くさんばかりに食していたと言う。

特に岩場にへばりついた、岩牡蠣は夏でも、冬でもよく取れて食べられたのであった。

おやつ代わり食べていた牡蠣には、水俣の窒素工場から流れ出して来た有機水銀がふんだんに含まれていた。

排水溝から二百mも離れていない、恵理達の家は、海の漁師であった父親の船着き場も兼ねたものである。

子供の頃から目の前の海で遊び、牡蠣や魚を食べて来た。

此所らの住人は、殆どそんな生活をしていた。

 戦後の水俣の窒素工業は、農薬ばかりでなく、プラスチックの製品材が量産されていたのである。

百合が泡を吹いて倒れたのは、三歳を過ぎた頃であった。

それから彼女は言葉を失った。

美しい百合の顔は、固まって、瞬き一つしなくなった。

まるで、血の通った、寝たままの白雪姫のようであると姉の恵理はいった。

母親の房代は、泣きながら百合の体を拭く、

「なんかしゃべらんね、百合ちゃん、きょうはなんばしちょったとよ? 」

 新聞記者や週刊紙の雑誌記者は、面白がって書き立てた。

「眠れる海の美女」「水俣の美しい花」……。

様々であった。

 当初、取材に応じて、費用も当てにはしたが、余りにも血の通わない取材記事に腹を立てた父親がある時から断じてしまった。

暫くは、記者団が家の前に居着いて独特の論理をぶって、さも正義感ぶっていたが、腹は売れたらよしとする商業主義だけで、何も体制を変えようとはしなかった。

市当局や、県、国も見て見ぬ振りであり、個人の事は考えない。

有るのは水俣に落ちて来る、金、其れを誘導して来る窒素工場様々なのである。

「植物や言いよるとやけど、私には、百合ちゃんの息ば臭うとね、かわいい女の匂いばしちょるとよ、ねえ、百合ちゃん、母ちゃんば分かるとね? 」

「もう!すかん」泣きながら、恵理も言う。

「母ちゃん、毎晩泣かさんといてね」

「なんばなかもん、喋りよるだけたい」

 頬に伝わる涙を母が拭くのを恵理も見ている。

父親もいたのだが、百合が十九の年に死んだ。癌であった。

水俣の廃水が影響しての膵臓癌なのか定かではなかった。

後で事件になる事を恐れた会社側は、雀の涙の弔慰金を払って来た。

病院の費用が重なっていたし、此の頃は恵理の看護学校の学費も家計に重くのしかかっていた。

肩を寄せあいながら、親子三人海鳴りのする昔と変わらない家で住んでいる。

赴任して一年も立つと関多田は、倉田との約束や、社長との子飼い契約を無視して恵理を抱いてしまった。

毎夜夢にまで見た恵理の体は、想像に違わないすばらしいものだったのだ。

夢の中と変わらない。太ももの、内股のほくろがあるのも夢をより現実と信じさせた。そのうち、事務長の倉田も知り、大学へも連絡が行く、これは大学当局への裏切りでもあった。

親も嘆く、が、すべての約束を反古にして恵理にのめり込んだのだ。

詳しく言うとおそらく、百合にものめり込んでいた。

 倉田は苦言を呈した、やがて社長の耳にも其れは聞こえた。

人事権を行使して市は一丸となって関多田と恵理の家族を襲った。

大学からも声がかかる。

「汚名をこれ以上垂れ流すのは辞めてくれ」

 教授の一言が有り、関多田は大学を排斥された。すべてを関多田は失った。

三年の月日が経ち、未だ関多田は、水俣に居る。

父親は、もう居ない、開業医だった家は人手に渡った。

母は、もとより関多田の生みの親であり、性格も分かっているのか何も言わない。

その代わり、母は、関多田を慕って水俣にやって来た。

これには関多田も恵理も驚いたが、さすがに関多田の母親なのか思い切った事をする。

さっさと東京の家や土地を売りはらって水俣までやってきた。

「此所は風光明媚で良いとこね」

七十歳近い母が、こんな辺鄙な田舎町に来るにはよほどの決心が要る事だったろう、関多田は思った。

 母と似ているところが有るとも思う。

こうと思うと損得計算や人生設計等何とも思わず変えてしまう。

其れよりも関多田母子は、その時のやりたい事、やろうと思う事をやってしまう性格はよく似ていた。遺伝だろう。

ともかく母は、小高い山の上に小さな空いていた別荘を手に入れて、そこに住んでいる。

恵理の家からも近いのでよく散歩がてらに恵理の家に来る。

魚を分けてもらい、おいしい、おいしいとよく食べる。

汚染等気にはしていない。

聞くと、

「どうせもうすぐ死ぬんだから」

 恵理の母房代は未だに漁に出る。

旦那が死んで意地なのか、百合を養生する為の薬代稼ぎと言っては辞めないのである。

「逃げとるんよ、母ちゃんね」

 恵理が言う。

「何からだい?」

「人生……」

「……」

「つらい人生からや……」

「……、俺たちは幸せになろうな」

「うん!」

 ひときわ甲高い声で恵理は言った。

 そうして関多田は、半年もすると母親に金を借りて、開業する事にした。

恵理の家の倉庫を改造して、曲がりなりにも医院が出来た。

恵理はまだ市民病院に残ると言う、辛い暗い、いじめが続くのだがそれでも構わないと言う。

今までやって来た共産党の仕事も有るし、急には辞められない。

民青同盟の地域委員を五年近くやっている。

此の頃は、まだ地域性もあってか迫害、差別が激しい時であった。

それでも隠れながら活動を行っていた。

いつもアカ呼ばわりされながらも、大企業との戦いに明け暮れる姿勢を常に意識していた。

相手は無論、チッソ株式会社水俣工場である。

莫大な利益は人の命と変えて生まれる。

垂れ流した水銀の量は、イタイタイ病の神通川の比ではなかったのである。

時代はプラスチックを求めていたという事であった。

触媒液、培養抽出液に使われたのが水銀であった。

其れを突き詰めて調べたり、現地で調査をしたりした。

何時しか、恵理のライフワークになっていたのだった。

 

 関多田の母、由美と恵理は存外に仲がいい、二人とも呆気らかんとしているところがある、よく似ている。

休み等には由美と恵理は水俣の市内まで実の母よりも一緒に出かけたりしている。

恵理も市内観光やおいしい店等を紹介して、房代と出来なかった事を取り戻すかのような様子であった。


 関多田の母、由美は、会津の生まれで東京の大学時代に関多田の父と知り合い結婚した。

由美は、東北本線の車内で数人の大学生に口説かれたのである。

その中の一人の学生に手紙を出した。

その理由が、生徒会長と書いてあったからである。

これが父佑治であるのだ。

由美の性格は、幕末の壮絶な死に方を余儀なくされた白虎隊に有ると思う、関多田は常々思っていた。

 女白虎、婦女隊の先祖を持つ由美である。

有志とは裏腹に決死が正解であった。

その歴史は、あまりにもひどい内容なので記録を読むにも辛いものが有った。

薩長連合は、人の死体の海を作りながら其れを乗り越えてやって来た。

無論、殺人の上、人肉を喰らい、姦淫、淫行の限りを尽くしたと言う。

其れが出来るかどうか、人として出来るかどうかが 勝負の分かれ目でもあった。

韓国や朝鮮と近い、所謂、弥生人系の人たちが多い薩長連合軍隊には其れが出来た。

可能な人間が多かったと言う。

渡来人と元来、日本に居た、縄文人との違いが有った。

混血を重ねているとは言え、幕府を倒す側と、尊王攘夷側とはそもそも、渡来人と原住民のたたかいであったとも言えるのである。

 また歴史を紐解けば、原住民が勝つためしは無く、インデアン、アボリジニ、インデオ達はすべて先住の地を失った。

朝鮮渡来系の民族に日本は、占領されて、今や混血を重ねて分別はつかなくなっているが、関多田の母等には未だ古い考えが有り、

「九州と言えば、会津の敵、仇。」

関多田の父親の爺さん等は、会津白鷺城開城のおりに飯森山に立て籠った一人である。

後にその妻、関多田の祖母さんとなる人とは白虎隊繋がりで結ばれた。

そう言う中でも此所にきたのは、母親が、一人っ子の息子の事を慮っての事であった。

そうではあったが、住んでみると九州の人間の情の厚さ、人間味有る生活態度に圧倒される事も多かったのである。

 何しろ九州人は、熱い。

気候がそうだからではないが、東北に比べると諦めないと言うか、それに頑固であった。

東北も特に会津には頑固の代名詞強じょっぱり、じょっぱり、会津っぽがいる。

肥後もっこす、九州も同様に同じ種類の人間がいた。

自分の意見を曲げない。

関多田の子は、会津もっこすか、肥後じょっぱりなのである。

こんな冗談を恵理の妊娠とともに語る。

ただ心配は、胎児性の水俣病だ。

恵理は体がまだ若いのと、偶然ながら、海産物より肉系が好きな性質であった。

水銀を溜めると、膵臓の毒物を除去する機能が働くのだが、水銀毒性がよりきつくて膵臓自体がだめになるのだ。

 此所のもの達は、年を取ると膵がんで死ぬものが多い。

問題は恵理の母親であった。

膵臓の検査数値がひどく悪い、恵理の検査数値からはまだ所見は出ていない。

癌の可能性が高い母親の検査数値は、かなり前から分かってはいた。

が、もっこすのせいで頑として養生しない。

薬は飲ませているのだが、飲んだり飲まなかったり、

「酒ば飲んで消毒ばすっとよ」

 何とも難しい。

ただ、関多田の母からこんなことを言われた、

「子供さんを、私たちの孫を恵理さんに、恵理さんひとりにまかせて死んでしまうのかしら……」

 これにはかなりの説得力が有ったのか、以降酒を辞めて、薬もちゃんと飲んではいる。

関多田が来て、七年目の事だった。

 今や共産党のアジトと言われても可笑しく無い関多田医院ではあったが、恵里ももっぱら、市民病院での勤務を辞めずにいたし、関多田は医院経営に勤しんでいた。

儲かりはしないが流行ってはいる。金はあるとき払い、まるで赤ひげ先生であった。

医院も大きくなり、恵理の家はほとんどが病院になってしまった。

一番の入院患者は、百合であった。

相変わらず、美しい顔を身動きもせず、涙ながらに天井を見詰めるままである。

涙の量が尋常ではないので、誰かしら側にはついていた。

母房代は去年の冬に死んだ。膵癌であった。

また会社側は雀の涙の弔慰金で済ませた。

此の事に腹を立てた、娘の恵理は、又、裁判をしている。

長いだけで拉致のあかない裁判では有った。

何しろ水銀との因果関係が立証出来ない、概ね分かってはいるものの、熊本大学も国も市も県も相変わらずの頰っ被りなのであった。

関多田は三歳になる娘の恵が、心配では有った。

少し言葉が遅い、

「父ちゃん、母ちゃんは言いよると、ばってんが、其れ以上が言いよらん」

 それに水銀中毒特有の痙攣発作が有る。

それ故、山の上の婆ちゃんのところからは帰ってこない。

母も寂しいので、昔の教師をしていた経験を生かしては孫の世話に勤しんでいる。

お手伝いも雇えるので問題は無かった。

母親は、看護婦として遅く帰ってくる時も有る、父親も医者として手が離せ無い。

だから、母親の由美の手は欠かせないものであった。

「お母さん、いつもすいまシェン、遅うなりました」

 此所から小一時間ほど車で行くと市民病院まで行く。

帰りには買い物を済ませて、此の山の家の夕食を作るという毎日であった。

8時を過ぎた頃には関多田も山の家まで散歩をしながら帰って来るという日常でもあった。

 ある日、関多田が山の中腹までやって来ると、前を行く恵理を見つけた。

買い物のビニール袋が重いのか今日は何時になくゆっくりであった。

「えっ、……」

 ふらふらとよろめいて来た、買い物袋を投げ出さんばかりに一振り振ると、ゆっくりとしゃがみ込もうとした。

横の崖から落ちてしまうけん、危なか、思わず心で叫んだ。

 関多田が喋る初めての熊本弁かもしれない。心の中では有ったのだが……。

「恵理!」さっき、辞めた言葉を言った。

 慌てて駆け上がる。

「朝から腹が痛かったのよ」

「無理せんと、休めばよかとに」

「今日は党の幹部会があってね……」そう言えばこないだ、そんなことを言っ

 てたような気もする。

自分も忙しい毎日を送っているし、いちいち覚えてはいなかった。

癌か?

関多田は医者の直感で思った。

毎年受けている職員検診は、いい加減なものだが見る限り異常はなかった。

ただ此の年、三十五を過ぎて来ると、それに日頃の激務に身を投じていると疎かになるのは自分の体である。

何かを忘れたいのか、恵理には次々とスケジュールを組む癖と言うか、周りが彼女の働き者の部分を利用している節があるのだろう。

其れは関多田も感じてはいた。

人は薄情でエゴイスチックなものであるから、何でも引き受けて仕事を次から次へとこなして行く人間には、尊敬や妬み、それ以上に利用という形を採る事が多い。

自分に無い、人からの人望や美しさ、屈託の無い明るさ、すべて恵理の持つものであり、妬まれる材料でもあった。

そんな腹立たしい事を考えながら、こんな母親の事を思い出していた。

生きている時に母親であった房代は言っていた。

房代にはそんな妬みを持つ余裕すらなかった。

「今日も、百合ちゃんば、綺麗な顔してこっちば見てくれとるよ」

 辛い漁から帰り、一杯引っ掛けるのを父ちゃんが、生きとる時からの日課にしていた。

「植物人間て……、なんば言いよるの、医者も新聞記者も節穴目じゃけん、こうしてかわいい顔して寝取るだけのこっちゃい。

こんなべっぴんさんば、熊本中探してもおらん、色が白うて艶艶しとる。

目も黒目が大きゅうて日本人には見えんとや、ほんに、グレース・ケリーかイングリッド・バーグマンよ、可愛かばい」

「母ちゃん、はよ寝んね」

 関多田も側でその時は飲みながら聞いていた気がする。

「婿さんどうね? 今からでも百合にすっか?」

「はあ?」

「母ちゃん、関多田さんは、私の婿さんね」

「いや、百合ちゃんにも結婚とかさせてやりたいね……」

 皆しんみりしだした。

泣きながら、酔った勢いも乗じて来た房代は言った。

「宝子ね!」

「……」二人には理解出来なかった。

「ほんに、こん子は宝子ね、こん子がおるから、精出して父ちゃんも働いた、私も働きよるんよね」

「……」

 聞いていた関多田も恵里も神妙になる。

「恵理はよか女子になって、よか人間になっとるんもこん子のお陰やわいね」

「なんでな?母ちゃん?」恵理が聞いた。少しはにかみながら、

「もとから良い子なもんや」とも言った。

 恵理と関多田が不思議そうに見ていると、目を細めて遠く、昔を思い出している。

「分からんかいな? 父ちゃんが生きてるとき、言うたんよ」

 父ちゃんが、子守唄聞かせてから、百合を見てささやいていたらしい。

「お前は可愛いのう、小さい時から海の牡蠣好きやって、食い過ぎたら手が動かん、足動かん、震えて来てから、瞬きもしよらんばい。可愛い、可愛い顔してからに……」

 残った酒をあおると、又続けた。

「だけんど、お前がおるから、みんな仕事も頑張るんよ、父ちゃんも母ちゃんも、朝から働いて、働いて、魚とってよ、魚採る事しか知らん……、それによ、皆、お前がおるからね、優しくなった」

「姉ちゃんは、恵理姉ちゃんば、優しい子になったんわ、お前んお陰とよ、お前の面倒見よるさかい、此所、痒かね? 此所ば痛かね? ちゅうて人ん心ば、分かるとね、ほんに、お前は、神さんがくれた宝子ね、水俣のみんなに言うたらないけんね」

 と、ため息をつくように続けた。

「何も百合は恨みよらんもんね、好きな牡蠣食うて遊んどっただけやもんね」

「何もかも、怨んでもよかに……」恵理が言う。

「そんとき、百合の目からひときわ涙こぼれたちゅうとに……」

 さらに、

「百合はやさしか子やけんね」

「父ちゃんは?」

「そん頃には、大いびきかいて寝とったばい」

 みんな笑った。

父ちゃんを思い出して少し笑いに包まれてほっとした。

何れだけの苦渋が此の小さな漁師の家庭に降り注いで来たのか、容易には分からないが、苦労するにあまり有る人生なのである。

恵理は涙を拭きながら、母ちゃんの話を、その中の父ちゃんの優しい話を聞いていた。

関多田はそんな家族の姿を垣間みては、恵理を守る。

と、心に決めたのであった。

今迄の東京での何不自由無い生活を送って来た自分にはまるで別世界のようであった。



 坂の途中で恵理を捉まえて、

「少しこないだからね、痛いんよ、生理かと思っとったけん」

「よし、荷物を貸しな」 

 関多田は、恵理をおぶって階段を上る。

二人で見る不知火の海は、月がまん丸く海を照らして、さざ波の動きが分かるほどであった。

つぎからつぎへと、波は寄せては返し、返してはまた寄せ打って来る。

 今こうして見ていると、この下の世界に水銀の海が広がってはいない。

悠久の太古より寄せては打つ不知火の海だけである。

そこは魚の宝庫であり、島々の並んだ美しい海が広がっているだけなのである。

こんなところに人々を殺す殺人工場を造ると言う、発想が何故生まれるのか、関多田や恵理には分からない。

またここのうつくしさを水銀で殺してまでも金を優先する気持ちが分からなかった。

夜の不知火は、知ってか知らずそんなすべてを吞み込んで、ただ月の光に照れている。

不知火の夜の海は月と一緒に二人を包んでくれていた。

「随分と気持ちよかね」恵理は背中で言う。

「寒くは無いかい?」

 首筋に冷たいものが落ちてくるのに、時間はかからなかった。

「どうしたんだい?」

 二人は背中越しに抱き合いながら階段を上りきった。

広い背中から涙を拭きながら降り立った恵理は、一言いった。

「いつも、ありがとう」



 数日して検査を受けた、無論、関多田はすぐに膵癌の初期である事を知った。

膵臓は無言の臓器、と言われて症状がなかなか出ないのである。

出た頃には既に末期に近い癌になっている事が多い。

恵理は看護婦なのですべての事は分かっていた。

問題は、残された人生をどう生きて行くか、それだけである。

子供に対して、夫に対してそれに何よりも自分の人生をどう生きるか、のこった人生をどう生きるか。

 暫く、がむしゃらに働いて支部活動もしてみて、得た答えは、出来なかった旅行に出る事だった。行ってみたいところは沢山ある。

ただ子供の事や夫の事、百合の事をどうするか、であった。

関多田から了解を得るのは案外と簡単であった。

「君の好きにすると良いよ」

 関多田は言った。

方法としては、連絡を密に取り合い、各所、各国の病院には必ず診察を受けて体調管理をする。

医療経験者なので心配する事も無いだろう、しかし、油断は禁物である。

逐次報告の手紙を出す事とした。

 主に行きたいところはヨーロッパなので予め、関多田がその都市都市の病院をチェックしておく事にした。

関多田の母、由美も行きたがっていたので仕方なく関多田は許す事にした。

いろいろと苦労ばかりかけてしまっている、罪滅ぼしであった。

ただ高齢でもあるのでお互いに労りながらの旅になる。

大丈夫か、と心配したが由美は脳天気に答えた。

「死に場所を探す旅よね、お互いに」

 まあ良いか、これ以上言っても聞く二人ではない、という気で二人を見送る事にした。

此の二人なら何とか……、仲もいいし、なるだろう。安易に考えた。

元々、恵理一人の旅は抵抗があったのでこれも苦肉の策では有る。

それに旅行の時期をひと旅行当たり二週間から三週間と決めた。

二、三週間迄なら処方箋も出るし、体調の変化も診察も手遅れになる前に対応出来る。

 小学3年生になった良子も母親の不在を寂しい様子ではあったが、口うるさい邪魔者がいなくなると言う心中もあってかあまり何も言わない。

百合の世話はすべて看護婦がしてくれる。

 二人は春先の桜が咲き始める頃、熊本を後にした。

それから忙しい人事異動の時期を迎えて、市民病院は蜂の巣を突くようであった。

恵理は仕事を退職していたのでもう病院とは関係は切れてしまった。

ただ、今や水俣病患者の治療に関して権威となってしまった関多田が週に二、三度回診をせねばならなくなった。

水俣病の義理の妹を持つ彼は、あちこちで講演や本を出して、今は引き手あまたであったのだ。

百合を何とか快方に向かわせようと努力した。その成果が漸く実りだしたのである。

 水俣病では入り込んだ水銀をいち早く除去する事が寛容である、其れと同時に損傷を受けた部位をいかに復元させるかが重要な治療なのである。

此所十何年の間に関多田はその両方に効く薬を製薬会社の肝煎りで研究して来たし臨床も行って来たのであった。

ただ此の事は秘密裏に行われた。

裁判の事等問題点は多々あったのだ。

薬が出来てしまうと、裁判の判決自体に影響を与えてしまうし、会社側が軽んじてしまう恐れが大きかったのである。

無論損害賠償を減少させる原因になる恐れがあったのだ。

そのため秘密の研究は百合の体を使って行われていた。

百合の体はこのところできた新薬の影響で見る見る快方に向かって行ったのである。

今ではほとんどと言っていいほどに、脳の損傷部分が組成されて新たな脳が出来つつある。

人としての個体差はあるものの此の薬は百合に合うのか、副作用も少なく順調に回復して来ているのだ。

 スポンジのようになってしまった前頭葉部分は、ほぼ回復をして、後は軽い人体に適応する範囲の弱電流の効果で回復に向かって来ているのだ。

今や眠れる美女は、より輝きを増して横たわる。

 目もつぶれるようになった。

全身を覆う無菌容器に入れられた体は、見る間に妖艶なふくらみを取り戻し、はじくようなみずみずしい肌を取り戻した。

薄手の着衣に包まれて、ビーナスの中世絵画のようであった。

 恵理達は、あれから何度か出ては、入り、入っては出て行った。

ほぼ、ヨーロッパの著名な土地を回り、この頃は気に入った場所で滞在をしている。

よく滞在するのは、カンヌ辺りで南フランスがお気に入りの場所のようであった。

恵理用の膵癌対応の薬も功を博し、今では、つけていた補助膵臓器具も外しても大丈夫な迄に回復して来た。

 母は、衰弱するどころか増々元気になり、旅が功したのか旅の紀行文等の本を書き出した。

二人は、今は別々で行動し、旅先で落ち合う形式を採りながら、旅を続けていた。

 一度等は、モンマルトルの有名な料理店でばったり出くわした。

人気のリンゴ酒を片手に、これ又有名なクレープ何ぞに舌鼓を打っていると、窓の外をー後で分かったのだが母が道案内に頼んだタクシーの運転手らしいのだがー母らしい人物が、ハンサムな男性と一緒に歩いていたのだった。—

 若いツバメを連れて歩く妖艶な老人が店に入ってきたと思っていた恵理は、後で裏話を聞き大笑いした。

パトロン文化の流行るフランスでは、あり得る話でもあると母はくやしそうに言ったらしい。

恵理は辛い過去を払拭するように人生を謳歌した。

困った事に三年も遊び歩いている母をそろそろ反抗期でもある良子が、当たり散らすようにはなっていた。

「ママとおばあちゃんは遊んでばかり、良子の事は可愛くないんだ」

 拗ねては口を尖らす、そんな事を繰り返していると、夏休みに一度旅行に連れて行った。

その後、嘘みたいに機嫌が良くなった。

 それにしてもそんな家族を尻目に働きずくめの関多田であった。

新薬の効果は、臨床試験に向けて大詰の段階にきてはいたのであった。

 


 ある日の深夜、山の上の家で仕事を終え、酒を片手に新聞を読んでいる関多田がいた。

妻達は旅行に行っている。

今頃は、シベリアの上空でも飛んでいる事だろう、娘も夏休みに乗じて同行した。母も勿論そうであった。

夏の暑い夜ではあったが、風は海からと、山から吹いて風とおしは良かった。

故に熱さはさほど感じる事は無い。

海からの塩の香りが程よく匂って気持ちがよかった。

海の烏賊釣り船の船団が明かりを水平線に向けている、エンジン音が重なって聞こえた。

風がひときわ吹き込んで、カーテンを大きく揺らすと、

「宝子……」そう聞こえた。

 か、と思うと、子守唄が聞こえ出す。

「オドがボンギリ、ボンギリ……」

 カーテンが又、大きく揺れ、その後ろに、

「宝子、……、オドがボン……」

 百合が立っていた。

白い、薄い寝着は、はだけ、此方に歩いて来る。

全身が耳となりすべてを悟った、関多田。

寒気がして、鳥肌が立った。

「百合を抱いて……」

 豊満な体を関多田に摺り寄せて、馬乗りになろうとする。

「ああっ」

 百合は股間から滴り落ちる処女の証等には目もくれなかった、兎に角、長年の餓えを満たす、餓えを満たし果たす作業に没頭していた。

関多田にはもう止める事は出来なかった。

流れ落ちる百合の股間を所構わず突き上げた。

血が迸った。

快感の頂点をきわめて二人は脱力していた。

 やがて朝が来て、関多田は目を覚ます。

疲れがあったが心は晴れやかであった。

ベッドで知らぬ間に寝ている。慌てて、手で当たりを触ってみた。

触って目で確認してみたが血は付いていない。

血も付いてはいないし、横に寝ていても可笑しく無い百合は居なかった。

あれは夢なのか? 自問自答してみる。

夏の朝の早さと、さわやかさの中で関多田は混沌とした。

暫くして、夢であったのか、と落ち着いて来た。

何とも信じがたいが、本当のような夢を見た。

慌てて朝早くから病院に駆け込んで、百合の病室を確認しに来てみた。

百合はいつものように美しい顔をして横たわっていた。

ただ何時になく美しい顔には少し微笑みがあった。

そして、股間には赤く染まる血の後がある。

関多田は、呆然と立ち尽くす、理解しがたい現実だけであった。

背後から看護婦が声をかけてきた、

「先生お早うございます」

茫然と立ち尽す閑多田を気にしてか声をかけてくる。

閑多田は慌てた。

「百合ちゃんね、生理ね」

「……」

閑多田は、看護婦に聞いてみる、

「百合は生理なのか?」

「そうです、この頃多いね、出血がね、段々女になりよるばい」

閑多田は、ホッとした。

自分の行為がそうさせたのか心配で仕方ない。

もう少し様子を見るしかない。

一概に看護婦の発言を信じてはいないが、時間を見るしかない。

それから幾年かが過ぎて、神多田と閑多田が出会ったのは、N死人病院の歓送迎会であった。

お互いに変わった名字を持つものとして直ぐに知り合いになった。

神と閑の違いは、院内でも話題になったのだ。

閑多田は、あれから色々な人生の苦悶を乗り越えてここに来た。百合はあれから、妊娠していることが分かったのだ。寝ながら意識を取り戻さないまま、お腹はどんどん大きくなっていく、誰の子か判らないままで過ぎてはきた、しかし、閑多田の心中は穏やかではない。

院内でも当時は新聞のネタにもなり、騒がれてしまう。そのままではどうにかなることが恐れられたので仕方なく、閑多田が夢の中の出来事とはしておけず、ありのままを語ったのだ。院内もとより、新聞各社に小さな町の醜聞として取り上げられた。

しかし、ある記事には、奇跡とか美談として取り上げだすものも多く、半年もすると書かなくなっていた。閑多田は地元の生活には疲れてしまい、大学の先輩を頼ってこのN死人病院に来たのだ。

百合はその後何年間は生き長らえたが、心不全と多臓器不全の合併症で亡くなってしまった。いろいろと医学的に説明のつかない事ばかりであったが、特異なケースとして未だ理由は解ってはいないままであった。極度の動脈硬化の所見が、運動不足の訴因なのか、遺伝的要素が大きいのか、はたまた水俣病の水銀中毒要因なのか、学界でも理解が得られていない。それよりも奇異な行動についての説明付けには学者、医者ともども意見が散在して纏まらなかった。水銀によるドーパミンの遮断が、神多田の使った薬の副作用で異常に繋がることが解剖所見から検知された。奇跡的に人間本来の機能を一時期取り戻してはいたのだが、何がどう反応したのか理解に達してはいなかったのだ。

誰も身寄りをなくし、失意のうちに閑多田は此処へ来た。良子は水俣で結婚し、一児の母となった、身寄りと言えば彼女だけ、そして孫だけである。

水俣によく似たロケーションを持つ、垂水に居を構えた。ジェームス山の一角である。


そんな幸せは五年の月日と共に終わった。

色々あったが、まともな人生が有ると思った矢先での配置換えで有る。H灘区役所に流転を余儀なくされた。

多禿課長の趣である事は容易に分かる。

でもこれはこれで良かった、一時期はとんでもない所に来たものだと思ったが、素晴らしく違う人生経験と世界を味わせてくれた。

もうこんな経験は二度と出来ない予感が神多田には有った。濃いい、五年であった。


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N死人病院譚 @kuratensuke

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