2.「ステータス」
「えっ…うーん‥?」
金色がかった茶髪を持つ彼女…紅葵(もみぎ) 蒼(あおい)は現在、初めて出会った男の意味不明な質問に対し、頭を悩ませながらも真剣に考えを巡らせていた。
「真剣に…」と述べる理由としては、自己紹介の際に自ら差し出した手の存在を忘れてしまうほど、彼女が考える事に没頭していたからであり、未だに彼女は男と握手を交わしたままの状態を維持していたのだ。
そんな彼女は少しだけ「天然」…とでもいうのか。
見た目はしっかりしているようでいて、少し抜けている面もあるようだった。
「‥あの…」
「もう手を放してもいいだろうか…」男はそう伝えようとしたが、なぜだか少し躊躇(ちゅうちょ)してしまう。
―――逆に…いつ彼女は手を放すのだろう…。
そんな小さな悪戯(いたずら)心が働いたため、男は彼女の動向を伺うていで、彼女の行動を観察する。
軽く握った手を顎(あご)に当てながら考えている彼女の姿は何とも様になっていた。おそらくだが、これは彼女が考え事をする時の所作…あるいは彼女の「癖」なのかもしれない…。
身長は男よりも僅(わず)かに低いぐらい。
金色がかった長い茶髪は頭頂から毛先にかけての色合いが実に見事であり、光の具合で金髪にも見える艶やかな髪色は「綺麗」という表現よりも「素敵」だと感じた。その「素敵」な髪色もさることながら、角身を帯びた髪を右サイドに流した前髪部分の造りも印象的だった。
その彼女が唐突に顔を上げると、何か思いついたような表情をしていた。
「ブレザーの内ポケットはどう? 多分〈生徒手帳〉が入っているから、名前ぐらいなら分かるんじゃないかな…?」
彼女の思わぬ指摘に男は驚いた。
それは彼女の指摘に対して…というよりも、彼女の指摘した箇所…つまりは、自分が身に着けている衣服であるのに全く調べていなかった事に驚いたのだ。
―――…そういえば、あまり自分の衣服は詳しく調べなかったな…。
そう思いながら彼女に指摘されたブレザーの内ポケットを左手で探ると…
「…んっ。」
…何か薄い長方形の物体が指先に触れる。
内ポケットから取り出すと、金字で〈生徒手帳〉と書かれているものだった。
表紙は黒革でページは紙媒体の〈生徒手帳〉は薄く、意外に丈夫で軽い。
まるで重さなど無いようにも感じることから、その軽さ故に〈生徒手帳〉の存在に気付けなかったのかもしれない…。
「…これの事だろうか?」
「うんうん! 良かった。ちゃんと持ってて…。」
安堵の声を上げると、彼女の表情は少し自慢気な笑みへと変わっていった。
「ふふーんっ」とでも言いたそうな…その自慢気な表情は、なぜだか好ましく感じられる妙な魅力めいたものを持ち合わせていた。
――――この表情は一体、どういう心境を表しているのだろうか…。
灰原が彼女の自慢気な表情について考察していると、
「まだ開けないのかな…?」と考えているのが察知できるほど、彼女がそわそわした様子を見せ始めていたので、男は〈生徒手帳〉の両端に指をかけ〈生徒手帳〉を開く。初めて開いた〈生徒手帳〉のページで最初に見たものは、意外にも…自分の名前だった。
「…〈灰原(はいばら) 熾凛(さかり)〉…か。」
口に出して自分の名前を脳に認識させる。
自身の固有名詞を把握した脳は名を身体に浸透させるために、その情報を精神にまで染み込ませていく…。
口に出した段階では、「これが本当に自分の名前なのか?」と不安に感じてはいたが、不思議なことにカッチリ…とパズルのピースが収まったような心地の良さがあった。
自身の名前を受け入れた後、男はゆっくりと視線を移動させる。
〈生徒手帳〉から始まり…未だに繋(つな)がったままの右手…彼女の髪…そして、彼女の目を見てから、男は〈生徒手帳〉に書かれていた自身の名前を伝えた。
「俺は〈 灰原(はいばら) 熾凛(さかり) 〉…というらしい。」
まだ言い慣れない言葉であったのだろう。
覚えたての台本を読んだ様な言い方の「灰原 熾凛」という名は、現時点では自分の名前になっていない気がした。
―――…これは練習が必要だな…。しばらく胸の内で練習するとしよう。
だが、そんな男の自信の無さが伝わったのか…彼女は笑いながら答える。
「あはははっ! 「らしい」って…あなたの名前じゃない。」
随分大きな声で笑われてしまった。
ある程度は自覚していたために不思議と悪い気はしないが、やはり少々の気恥ずかしさは否めないものがあった。
「…とにかくありがとう。助かった。」
「どういたしまして。」
そう返事をした後、急に彼女は小さめの声で独り言を始めた。
「…呼び方は…灰原…いや、さか…り…?」
…どうやら、自分の名前の呼び方に迷っている様子であった。
それを本人の目の前で繰り広げる彼女も彼女だが、そうさせてしまっている自分にも責任がある気がした。
「…どんな呼び方でも構わない。苗字でも…下の名でも、呼びやすい方で呼んでくれれば気にはしない。」
「…そう? じゃあ…熾凛(さかり)で…!」
なぜか嬉しそうな表情を見せながら、明るく灰原の名を呼ぶ彼女の方が「灰原 熾凛」という人物の名…、人の名を呼ぶことを熟知しているような気がした。
「じゃあ、私も蒼(あおい)で良いよ。よろしくね。熾凛。」
そう言って彼女、蒼は左手を差し出そうとする。
‥‥ここまで来るのに少しだけ遠回りをした気もしたが、かくして二人はお互いの名を知る事となった‥‥のだが、無事に自己紹介を終えて安心した彼女は少しだけ冷静になったのだろう。
ようやく、彼女は今まで忘れていた事実に気が付く。
「あっ。私…ずっと…。」
赤面しながら差し出そうとした左手をひっそり…と戻し、それを隠すように繋がったままの右手を彼女は元気よく上下に揺らしていた。
「あぁ。こちらこそ宜しく頼む。蒼(あおい)。」
…手の事はずっと知っていた…ということは、胸の内に秘めておくとしよう…。
「…しかし、この〈ステータス〉というのは何だろうか?」
ある程度〈生徒手帳〉を見てから、灰原は疑問に思ったことを蒼に尋ねる。
〈生徒手帳〉には、灰原の名前とは別に〈ステータス〉と書かれている項目があり、様々な数値や文字書かれていたが、灰原には全く分からなかった。
「〈ステータス〉だから自分の情報…とかじゃないのかな。何か「RPG」みたいね。」
「R‥PG‥?」
「RPG」とは何なのか…という小さな疑問が灰原の頭に浮かんだが、今は後回しにすることにした。
それよりも、このような「数値」等で人の情報というものを表示できるのか…という大きな疑問に灰原は頭を悩ませていた。身長や体重など肉体情報であれば、まだ理解のしようもある。だが、〈生徒手帳〉に大きく表記されていた情報は全く分からなかった。
その中でも特に意味不明な項目が…
〈 【Rk】「1」 【MⅬ】:生徒手帳(仮) 【Rs】:無 〉
…という項目。
【Rk】、【ML】、【Rs】…この項目の正体は一体何だというのか…。
「…この英語表記のものは?」
「うーん…ちょっと私も分からないかな。でも、後で説明があると思うから…。」
「そうか…。」
さすがの彼女も全てを理解しているわけではないようだ。
しかし、彼女の口から出た一つの言葉が灰原の興味を引いた。
「その「説明」…とは?」
「ええっと…ここから出て、ある場所に向かうと説明が受けられるらしいの。
あ…でも、熾凛(さかり)は「通知」された事も分からないのか…。」
「…すまない。」
実際、何も覚えておらず、何も分からないのだから灰原は謝るしかない。
「あ…。いや、ごめんごめん。そういうつもりじゃなかったんだけど…。」
「いや、間違った事は言っていないんだ。蒼が気にすることはない。」
―――実際、本当に自分は何も知らないのだな…。
その事実を自覚すると、彼女に対して申し訳ない気持ちが芽生え始めていた。
罪悪感にも似たそれは灰原にある事に気付かせる発端となった。
―――今でさえ、こんな状況なのだ。
今後、彼女に助けを求める機会が何度もあるだろう。
その度に彼女に頼んで…というのは面倒に感じるかもしれない…。
「彼女の負担を少しでも減らすにはどうすれば良いのか」…と、考え始めた灰原は彼女に一つお願いをすることにした。
「‥‥蒼、俺と一緒にいてくれないか?」
そう言い終わった途端に、灰原は何か良くない「誤解」を生み出してしまった気がした。
―――それでも、これは自分の勘違いなのかもしれない…むしろ、そうであってくれ…。
灰原が懇願するように、ゆっくり蒼を見つめると…
「へ‥‥。」
…彼女は赤面しながら固まっていた。
やはり、何か良くない誤解を生み出してしまったらしく、赤面した彼女の眼はオロオロ…と右往左往していた。
そんな彼女の様子を見た灰原は誤解を解くため、即座に手を打つことにした。
「…情けないが、俺はこんな状態だ。
自分の事も、「ここ」について知っていることも無い。
だから…蒼さえ良ければ、地に足が着くまで俺と一緒にいてくれないか?」
「引き算」ではなく「足し算」。
この場は言葉に言葉を重ねることが正解ではないのか…と、灰原は瞬時に判断して言葉を継ぎ足した後、再び灰原は蒼の反応を伺うことにした。
「…あぁ、そういう…。うん、そういう事…よね! うん、大丈夫…!」
―――良かった。無事に誤解は解けたようだ…。
彼女が少し気疲れしたような表情を見せたことに灰原は疑問を感じながらも、無事に誤解が解けたこともあり、あまり深く考えないようにすることにした。
「…それじゃあ、一緒に行きましょうか。」
「迷惑をかけるだろうが…宜しく頼む。」
こうして、灰原は紅葵 蒼と行動を共にすることになったのである。
蒼について行くと、通路の突き当たりにはガラス張りの半透明なエレベーターがあり、その左右に上階・下階へと通じる階段が灰原の視界に入る。
蒼が階段の方へ向かったため、灰原も彼女の後に続いて階段へ向かう。
「せっかくだから階段で行きましょ。」
「…ああ、構わない。」
彼女の口から出た「せっかくだから…」という言葉。
それは今の状況に合っているのか分からなかったが、なぜだか灰原は自然と飲み込むことが出来ていた。
「…~♪」
階段を下りながら鼻歌を歌う彼女は上機嫌そうだった。
そして、時折楽しそうに外の景色を見ながら、その薄水色の瞳を輝かせる。
青い空。
薄桃色の木々と風に流れ舞う花びら。
‥‥そして、金色がかった茶髪の彼女。
確かに、この風景(シーン)は灰原も好ましく感じていた。
ぐるりぐるり…と階段を下っていくと、二人は「マンション」の一階である〈エントランス〉へと到着する。広々とした〈エントランス〉には、ソファとテーブルが数セット配置されており、適度にくつろげる空間となっていた。
出入り口であるガラス扉は通過する際、〈生徒手帳〉を付属の機械に触れさせる必要があるらしく、その仕組みを見た蒼は「まるで電車の改札みたいね…」と言っていたが、灰原には彼女の言っている事がよく分からなかった…。
慣れた手つきで〈生徒手帳〉を機械に読み込ませ、先に外へ出て行った蒼に倣(なら)い、灰原も〈生徒手帳〉を機械に当てると、ピッ…と電子音が鳴る。
しばらく耳に残りそうな短くも、軽やかな電子音に不思議と灰原は心地良さを覚えていた。
「マンション」の外へ出ると、左側には大きな「グラウンド」が広がっている。そして、「グラウンド」に沿って一列に並び立つ木々を挟み、二人の前方には「マンション」とは違った別の建築物がそびえ立っていた。
「わぁ… 立派な「校舎」…!
そういえば、「マンション」も綺麗だったなぁ…。」
「確かに…立派な建物だ。」
それは本心から出た言葉だった。
目の前にそびえ立つ四階建ての「校舎」を「グラウンド」方面から見ると、「凹」型になっており、三階・四階に当たる部分が突き抜けていた。
黒レンガで造形された外壁はレンガの一欠片に至るまで新品同様の精度を保っており、劣化などの綻(ほころ)びは全く見られない。
―――これだけでも奇妙だが、何と言い表したものか。どうもこの建物は…。
「…レンガ造りで…まるで、お城みたい。それにこれって…。」
「「‥何かから守っているみたい…。」」
灰原と蒼の声が重なる。
彼女も自分と同じことを感じたのかと思うと、灰原の心臓はドクンッ…と歓声にも似た音を上げ、少しだけ高揚していた。
「蒼もそう思うか?」
灰原が尋ねると、彼女は「うんうん!」と実際に言葉にはしていないが、元気に頷き返してくれた。
…しかし、この建物が「何を」「何から」守るために頑丈そうな造りをしているのか。灰原には予想を立てることすら出来ず、考える途中で放棄せざるを得なかった。
その後、二人は「校舎」の入口へと向かうために「校舎」の周囲を巡ることになった。
黒レンガに覆われた四階建ての「校舎」。そして、外壁の造りは同一であるものの二階建てで小さな「校舎」は渡り廊下を通して繋がっている。
前者が「第一校舎」、後者が「第二校舎」…といったところなのだろう。
上空から見た二つの「校舎」を簡易的に表現するならば、「二」の字型のイメージに近い。
「マンション」から右手に向かい「校舎」の入り口を探索していると、「マンション」の右側に長方体の建造物を発見した。
蒼に尋ねると、「プール棟」と呼ばれる建造物であるらしく建物の中には「プール」と呼ばれる長さ50m、深さ2m弱ほどの凹みに大量の水が入った空間があり、主に遊泳をする場所…とのことらしい。
「二」の字型の校舎の谷を潜(くぐ)ろうとすると、谷の入り口付近に灰色の巨大な柱で組み上げられた二段階構造の建築物が目に入った。
下部には「武道場」と書かれた分厚い木片が祀られた部屋があり、上部には…何があるのかは分からない。蒼に尋ねると、建物全体を「体育棟」と呼び、上部は「アリーナ」と呼ぶらしく、主に運動することを目的とした場所だと教えてくれた。
多くの建物を短時間に見てきたため、灰原は今までに見た建物の配置を脳内で反復することにした。
「マンション」を時計の中心と例えるならば…、
四時~八時の方向に薄紅色の木々がある森。
七時~十一時の方向に「グラウンド」。
十二時の方向に「第一校舎」、一時の方向に「第二校舎」。
二時の方向には「体育棟」。そして、三時の方向には「プール棟」。
…といった具合だろう。
「グラウンド」の奥にも何かしらの建造物が二つほど見えた気がしたが、それは数時間後に分かる事となる…。
「『目が覚めたら〈生徒手帳〉を使って、この「校舎」に入る』。
…これが私の受けた「通知」なの。あとの事は「校舎」に入ってから説明されるんだと思う。」
「そうか…。」
「第一校舎」の入り口に到達すると、灰原の胸の辺りが少し引き締まり鼓動が高まる。
―――これから一体、何が自分たちを待ち受けているのか…。
〈マイルーム〉で感じた「孤独感」とはまた違う感情が灰原の心を刺激する。
その感情の刺激は玄関から出る時の感覚に通ずるものがあった。
――――‥‥きっとこの感覚を「緊張」と呼ぶのだろう。
そう自覚した途端に「緊張」は灰原の表情に大きく出ていた。
先程の好奇心に満ち溢れていた柔らかい表情は理性が認識した「緊張」によって徐々に固くなっていく。
…だが、そんな灰原の強張った表情を見たためか…隣にいた蒼が声を掛ける。
「大丈夫よ。 私もいるんだから…!」
そう言って、腕を組むながら再び自慢気に表情を浮かべる紅葵蒼の姿は灰原の緊張を適度に解(ほぐ)してくれた。
「あぁ。それもそうだな…!」
その声に少しだけ張りが出ていたのは、彼女から元気を分けてもらったおかげだろう。
――――…今はもう一人ではない。
〈マイルーム〉で感じた「一人」でいる事の恐怖、不安、焦燥…それらの「孤独感」が引き起こす心の不安定さを、今では全く感じない。
――――…初めて出会った人が彼女で良かった。
灰原 熾凛(さかり)は心の底から安堵していた。
校舎の入り口に二人は並び、扉の前で〈生徒手帳〉をかざす。
これが初めて校舎へ入るための所作なのだそうだ。マンションと同じく、ピッ…という電子音が鳴ると同時に入り口が開く。
「(あ、この音は‥‥。)」
―――…「マンション」を出た時の音とは少し違う感じがする…。
…けれども、その原因が何なのか…明確には分からない。おそらく、灰原は「マンション」の外に出た時から緊張していたのだろう。
見たこともない物や建造物で溢れた「未知の世界」は灰原には刺激が強く、不安を助長させるものであった。
「未知」なるものは、「未知」という不透明で、謎めいた魅力を秘めている。その魅力は人の好奇心に深く突き刺さったかと思えば、穿(ほじく)り回すように刺激して好奇心を破裂させる。
だが、それは存在するだけでも圧力(プレッシャー)を放つ…恐ろしい力を有した代物と相違ないのだ。
「未知」に溢れた世界の圧力を集中砲火で浴びせられる中、灰原が好奇心だけを動かすことに没頭できたのは、きっと隣にいる彼女のおかげなのだろう…。
扉が完全に開くと同時に二人の意識はそこで途切れる。
そして、二人の身体は一瞬にして「第一校舎」の中へと消えていった…。
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