2.少年と世界

1.「マイルーム」

…まぶたがピリピリする。


痛みはないが、目を開けなくてはいけないような気がして男は覚醒する。


予想よりもまぶたは軽く、初めて男の視界に映ったのは…自分の手の平だった。


「…俺の手か。」


…もちろん見れば分かることなのだが、それでも男は口に出してそう言った。


手を握り…再び開く。

そうして、手の動きを見ている内に男は手の先にある風景も認識し始める。


整った木目が美しい上質なフローリング。

そして、自分の履いている靴。

革製の靴は茶色と黒を織り交ぜたような色合いと光沢のある新品のものであった。


――――…この光沢の具合は…悪くない。


コツコツ…と小さく足を踏み鳴らしながら、男は少しだけ息を吐く…。




 玄関からリビングに入ると、右手にバー形式のオープンキッチンがあり、キッチンからは洋風の部屋に相反しているが、決してミスマッチではない畳の空間が広がっている。


畳の空間は足先から膝程の高さがある段差を土台とし、リビングの床からは一段上の空間に配置されていた。


さらには、リビングの左側にあるソファとテーブル…と応接間のような空間があり、壁には大型モニターが設置されている…。


「…良い部屋だ。」


ーーーー初めて見る自分がそう感じるのだから、きっと他の誰が見てもそうなのだろう。


それから一通り部屋を調べ終えた後、男は部屋の感想を一言述べた後、一つの疑問を思い浮かべる。


…この部屋は誰かに用意された部屋であり、どれも自分の用意したものではない。自分用の部屋ではあっても、決して「自分の部屋」ではないのだ。





「…あとは部屋の外だけか。」


 玄関へ戻ると、先程脱いだ革靴が置かれていた。


土足で部屋の中にいることに何か悪い気がしたため、先程玄関に並べておいたのだ。もちろん、その際に入り口の扉に手をかけることもできたのだが、なぜかそうしなかった。本音を言えば、外へ出る勇気がなかっただけなのかもしれない。


しかし、他に調べるところは、ここと「ベランダ」ぐらいしかないのだが…。


「…よし。」


―――先に「ベランダ」だ。そのあとで玄関を調べればよいだろう…。


 


 初めは開け方が分からなかっため放置していたが、何とかロールスクリーンを上げる。ロールスクリーンの隙間から「ベランダ」のようなものがあることは先程確認していたが、ロールスクリーンを上げたことで明らかになった外界の景色は、何とも「美しいもの」だった。


薄桃色の木々、風に舞う花びら、それを際立たせるように空に浮かぶ太陽。


「…きれいだ。」


つい溜め息交じりに感想の言葉が出てしまったが、「美しいもの」を美しいと感じられる感性を自身が持っていたことに気づく…。


花びらを纏(まと)った風の香り、そして心地よい太陽の薫り。


髪が少し揺さぶられる程度のそよ風、かすかに聞こえる風と木々が奏でる音色…。


視覚、鼻覚、聴覚、触覚で伝わってくる目の前の景色の美しさは本来の目的を忘れさせるほどの衝撃を男に与えた。


…もちろん完全に忘れてしまったわけではないが…。


「しかし‥‥きれいだ。」


男はもうしばらく、その美しい景色に心を奪われることにした。


 ベランダはかなり広く、屋根の開閉が自由にできることから「バルコニー」のようなものだった。そして、ご丁寧に寝転がれるような「ラタンビーチチェア」とテーブルのセットもある。


――――…ここに背中を預けたら、きっと寝てしまうだろう。


…少し惜しみながらも男は、「バルコニー」を後にした。


再びリビングに足を踏み入れた男は外の景色、部屋の外観…と、今までに得た様々な情報から推察する。


どうやら、ここは「マンション」のようだった。


部屋自体が広いため隣の部屋まで距離があったが、先程の「バルコニー」で自室の上下左右にも同じような部屋を確認した。


―――人の姿は見えなかったが自分以外の「誰か」がいる…。


「…のかもしれない。」


上の階に誰かがいるのなら足音ぐらい聞こえそうなものだが、この「マンション」は防音などの設備がしっかりしているのだろう。


…人の気配を全く感じない。


―――本当に、ここには自分だけしかいないのだろうか。


「誰か」の存在を認知したからこそ…なのか男は少し孤独を感じ始めていた。その孤独感を忘れるように「バルコニー」に来た本来の目的を思い出す。


「外に出よう…。」


玄関に向かい、並べ置いた革靴に足を滑り込ませる。右足を靴に通そうとすると、壁に掛けられた鏡が視界に入った。


「(俺は…こんな姿だったのか…)」


鏡に映った自分の姿を、まじまじ…と眺めたあとに男は服装を少し整える。


焔(ほむら)のような前髪と尖った耳のように逆立った頭頂の髪、総じて見ると燃え熾った髪型は自身を表す生命の燈火にも見える…。


衣服はきっちりと首元までボタンを留めた白いワイシャツを着ており、首元には紅いリボンが結ばれている。

ワイシャツの上にはワインレッドで襟が大きめなブレザーを着込んでおり、パンツはブレザーの裏地と似た暗めの紺色、丈(たけ)は踝(くるぶし)よりやや高い位置で止まっているため足首がスッキリしている。


ブレザーの襟の裏にはホックが付いているため、ホックを外して襟の開閉具合を変えることもできるほか、襟の中に形状を記憶する金属が入っているため、着用者のデザイン性によっては大きく見た目が変わることが特徴的であった。


――――今は…まぁ、これで大丈夫だ。


結局、ホックを外すこともリボンを緩めることもせずに男は玄関の前に立つ。


ゴクリ‥と唾を飲み、少し緊張しながらも、ついに男はドアノブに手をかけ扉を開く。


―――さて、どこに向かおうか。とりあえず、このマンションを出て…。


不安を紛らわせるため、今後の方針を考えながら男が扉を開け切ると…


「‥わっ!」


ガンッ…という痛々しい衝撃音と同時に悲鳴が響く。


さらには「何か」が扉にぶつかった反動で男は再び玄関に戻されてしまった。


「…なんだ…?」


気付けば玄関に尻もちをついていた。何が起きたのか一瞬わからなかったが、どうやら誰かにぶつかってしまったようだ。


男は立ち上がり、パンツを払ってから今度はゆっくり…と扉を開ける。


そして、扉の空いた隙間から顔を出すと自分と同じような服装をした女の子がいた。


違い…と言えば首元のリボンは蒼色で、スカートは青めの紺色。茶色基質で少し金色がかった長髪が綺麗な女の子だった。


扉に頭をぶつけてしまったのか頭部を抑えながら痛みに耐えるように床にしゃがみ込んでいた。


「…大丈夫か?」


「…~~~!」


男は声を掛けるが、彼女は言葉にもならない声を上げている。


―――どうやら相当痛かったようだ。


「すまない、何か冷やすものは必要か? 確か冷蔵庫に氷があったはずだが…。」


「いいの! だいじょうぶ…大丈夫。」


そう言って彼女は片手で頭部を押さえ、スカートを軽く払いながら立ち上がる。


立ち上がった彼女の身長は男よりもやや低く、近くで見ると余計に彼女の長髪へと視線が向いてしまう。


彼女が立ち上がったその時、心地良い匂いがしたのは男の気のせいだろうか…。


「ごめんね、手間取らせちゃって。」


「気にするな…大きなケガでなくてよかった。」


男が自身の頭を指しながら答えると、彼女は少し恥ずかしそうにしながら笑顔を返す。


彼女を真似て男も笑みを浮かべると、彼女は男に手を差し伸べてきた。


「私、紅葵(もみぎ) 蒼(あおい)…っていうの。あなたは?」


唐突に自己紹介をされて男は少し驚いたが、差し出された手を握り自分も自己紹介をする。


「あぁ、俺は‥‥」


しかし、そこで男の言葉が一時停止すると、同時に思考回路に電流が奔る。


「…?」


なかなか自己紹介をしない男を彼女はじっと見つめていた。時間の経過とともに彼女の表情が困惑さを帯び始めていく…。


――――…待てよ。


ここに来て男は重要なことに気づく。


おそらく彼女がいなければ、この問題には気づけなかっただろう‥。


自室では、自らの好奇心が赴くままに行動し、調査をしていたが、その過程で必ずモノにはそれぞれの固有名詞があることは理解していたはずだ。


それでも、男が問題に気が付かなかったのは、きっと他への好奇心が自身への興味よりも勝っていたからであろう…。


目の前の彼女に名前がある様に、男にも固有名詞が存在する。しかし、男は自分の名前が分からなかったのだ。


「俺は…一体、誰なんだろう?」


モノには「名」と共に役割があり、現在までの存在に当たる「過程」が必ずしも内在する。


それは人にも言える事であり、どのように生まれ、どのように生き、どうしてここにいるのか‥‥という「過程」。


しかしながら、男は自分は誰なのか、自分はなぜこんな所にいるのか、自分はどんな人物であったか…その全てが不明であり、何一つ思い出せない。


男には自身に関する「記憶」と呼べるものがなかったのである…。

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