　しあわせにすごした。

　ゑみちゃんの御（お）蔭（かげ）だった。

　堯（ぎよう）風（ふう）舜（しゆん）雨（う）の盈（えい）虚（きよ）を閲（けみ）してひもすがら零細鉄工所で黽（びん）勉（べん）していた。爾（じ）時（じ）である。大企業からの大量ロット生産のために残業して汎用旋盤に勖（きよく）勉（べん）している男性にくだんのAVの先輩が遽（そそ）走（ばし）ってきた。いわく〈社長がおまえをさがしてるんだ事務所に聯（れん）絡（らく）がきたっておまえ携帯気付かなかったろうおまえの自宅が火事らしいんだ〉と。汎用旋盤を停止させ第一棟の二階に鎮座する事務所へと驀（ばく）進（しん）する。電話越しに啖（たん）呵（か）をきっていた社長が男性に勘付く。〈きみの家族からだ〉といわれて受話器を譲渡される。母親の聲（こえ）だ。〈ごめんわたしの不始末で火事になっちゃってもうひとつ製紙工場が火事らしくて消防もおくれてるの〉と。〈ゑみちゃんは〉と獅（し）子（し）吼（く）すると〈家のなかで〉という。社長の諒（りよう）承（しよう）もなく電話をきると顛（てん）躓（ち）しながら階段を降下して驀（まつ）地（しぐら）にマンションへと邁（まい）進（しん）した。華（きや）奢（しや）なる九（きゆう）竅（きよう）百（ひやく）骸（がい）で全身全霊をこめて疾駆する。信号無視もしたが逢（おう）魔（ま）時（どき）の僻（へき）陬（すう）では交通量も寡少だ。ふくらはぎに疼（とう）痛（つう）をおぼえて彳（てき）亍（ちよく）する。いそがないと。ゑみちゃんが〈死んで〉しまう。火災の煙霧を仰視せんと穹（きゆう）窿（りゆう）をみあげる。天の河が綺（き）麗（れい）だった。

　マンションに逢（ほう）着（ちやく）した。

　猥（わい）雑（ざつ）なる隘（あい）路（ろ）が縦（じゆう）横（おう）無（む）碍（げ）に交錯する四（し）衢（く）八（はち）街（がい）には巨億の黔（けん）黎（れい）が攢（さん）叢（そう）して火（か）焔（えん）の熾（し）盛（せい）をみあげていた。邪魔だ。野（や）次（じ）馬（うま）を擯（ひん）斥（せき）しながらマンションの入口へと驀（ばく）進（しん）する。消防が地団駄をふんでいるため咫（し）尺（せき）の警（けい）邏（ら）が鉄壁となって百（ひやく）黎（れい）を壅（よう）塞（そく）阻止している。警（けい）邏（ら）のひとりと母親が喧（けん）喧（けん）囂（ごう）囂（ごう）侃（かん）侃（かん）諤（がく）諤（がく）の議論をしていた。母親が〈人形がいるんです〉というと警（けい）邏（ら）は〈人間じゃないんでしょう〉という。父親が〈人間とおなじなんです〉というので警（けい）邏（ら）は〈わかりましたわかりました〉と微苦笑する。男性が逢（ほう）着（ちやく）すると母親は〈ごめんねごめんね〉と百（ひやく）万（まん）陀（だ）羅（ら）いうだけだ。だれもたすけてくれない。おれがたすけるしかない。男性は瘦（そう）軀（く）の警察に〈ひとごろし〉といい一（ひと）悶（もん）着（ちやく）おこしてからバリケードを瓦解せしめてマンションに闖（ちん）入（にゆう）していった。背後から警（けい）邏（ら）が〈莫（ば）迦（か）野郎〉と咆（ほう）吼（こう）している。煤（ばい）煙（えん）は空気よりも軽量なので一階は無事だ。階段を登（とう）攀（はん）して五階まで逢（ほう）着（ちやく）すると流（さ）石（すが）に異臭芬（ふん）芬（ぷん）として嘔（おう）吐（と）感がする。作業服に包（ほう）裹（か）していたウエスで口（こう）腔（こう）を防（ぼう）禦（ぎよ）すると自宅のとびらを開放した。刹那氤（いん）氳（うん）たる熱気とともに煙燄天に漲（みなぎ）った。両手を火傷（やけど）したが最（も）早（はや）疼（とう）痛（つう）もかんじない。

　わたしは奇（き）蹟（せき）をおこした。

　自宅に這（は）入（い）ってゆく。玄関界（かい）隈（わい）の台所が火元らしく入口からして澎（ほう）湃（はい）と火（か）焔（えん）が捲（ま）興（きお）っている。床面や壁面から琥（こ）珀（はく）色（いろ）の燄（えん）燄（えん）とともに煙霧が鬱（うつ）勃（ぼつ）として蹲（そん）踞（きよ）しても直立しても前進できない。満（まん）身（しん）創（そう）痍（い）になるかけむりで窒息するか。匍（ほ）匐（ふく）するかたちで全身を火傷（やけど）させながら自室へと闖（ちん）入（にゆう）する。自室はまだ無事だ。ゑみちゃんがベッドに鎮座している。ゑみちゃんを抱擁して居間に驀（ばく）進（しん）する。ゑみちゃんの四肢が火（か）焔（えん）でとろける。ラブドールといってもダッチワイフとは相違し関節が包（ほう）裹（か）されているので体重は二十五瓩（きろぐらむ）ある。単純明快に居間のまどから抛（ほう）擲（てき）したら地面で羅（ら）利（り）粉（こつ）灰（ぱい）になる。と雖（いえど）も入口にきびすをかえしたら自分はとまれかくまれゑみちゃんは融解してしまう。居間を睥（へい）睨（げい）すると古新聞を纏（てん）繞（じよう）するためのビニールテープが一巻きあった。ビニールテープでゑみちゃんの肉（にく）軆（たい）を雁（がん）字（じ）搦（がら）めにして十メートル已（い）上（じよう）のロープをつくる。男性は最後に囁（しよう）嚅（じゆ）する。〈ゑみちゃん愛してるよ〉と。ゑみちゃんは微笑していった。〈ありがとう純一さんに逢（あ）えてよかったわたしも愛してるわ〉と。男性はなみだをぬぐってまどへとむかった。

　ふたりは訣（けつ）別（べつ）した。

　ゑみちゃんをまどのそとにつるして〈さよなら〉というとすでにゑみちゃんはしゃべらなかった。男性は完（かん）爾（じ）としてロープをたらしてゆく。ゑみちゃんは無事に地上へ降下して欣（きん）喜（き）雀（じやく）躍（やく）たる両親に抱擁された。地上から父親が絶叫する。〈おまえはどうする〉と。男性は微笑しててのひらをふった。居間の卓子のかたわらへもどると煙霧で窒息しないために絨（じゆう）毯（たん）に仰（ぎよう）臥（が）した。終（しゆう）焉（えん）をまつだけだ。爾（じ）時（じ）iPhoneに電話がかかってきた。愛妻家連盟の統合失調症であるリーダーだ。男性は電話にでる。〈すまないけれどひまじゃないんだいま死ぬところなんだよ〉と。リーダーはいう。〈たすけられなくてもうしわけないところでゑみちゃんは〉と。〈ぼくのいのちにかけてまもったよ〉というと〈ゑみちゃんを愛しているんだね〉という。男性は〈ぼくの人生は一体のラブドールがすべてだったなんて無意味なんだろう〉といった。リーダーは〈だれかを愛せたらその人生は無意味じゃないよ〉とこたえる。男性は最期の言葉をのこした。〈わるいけれど意識が朦（もう）朧（ろう）としてきたじゃあね〉と。