　長岡地方裁判所は静（せい）謐（ひつ）としていた。

　法廷に関係者が這（は）入（い）ってくる。

　被告人弁護人検察官が入廷すると被告人は傍聴席まえの椅子に鎮座して弁護人検察官雙（そう）方（ほう）が左翼右翼に聳（しよう）立（りつ）する。蹔（しばらく）して裁判官が入廷し被告人も傍聴人も全員屹（きつ）立（りつ）して一（いち）揖（ゆう）した。黔（けん）黎（れい）が着席すると人定質問となり被告人が証言台に豎（じゆ）立（りゆう）する。老（ろう）軀（く）の裁判官がいう。〈あなたは花輪光一ですか〉と。被告人が沈黙していると弁護士がこたえた。〈被告人は精神外科手術によって人格を虧（き）損（そん）されています返答できない場合わたしが代理となります被告人は花輪光一にまちがいありません〉と。罪状認否となって検察官が起訴状を朗読する。〈被告人は悠久山の公園にて戀（こい）人（びと）大地幸子を扼（やく）殺（さつ）したものである〉と。裁判官から黙秘権の説明がありつづけて尋問される。〈起訴状の内容に誤（ご）謬（びゆう）はありませんか〉と。弁護士が代理で〈そのようです〉とこたえる。冒頭陳述となり検察官側が事件の一（いち）伍（ご）一（いち）什（じゆう）を註（ちゆう）疏（そ）する。〈被告人は戀（こい）人（びと）が精神外科手術を甘受して癈（はい）人（じん）となったために被告人および被害者が人間であることを証明するためと譎（けつ）詐（さ）して被害者を扼（やく）殺（さつ）し被害者と盟約していた結婚に関（かん）聯（れん）する費用を削減せんとしたうたがいがあります〉云（うん）云（ぬん）と。

　法廷は幽（ゆう）邃（すい）となる。

　検察側の立証となり検察官が証拠品を陳列し註（ちゆう）釈（しやく）してゆく。〈被害者大地幸子が窃盗により警察署に連行された爾（じ）時（じ）の記録です〉と。〈こちらは長岡保養所にて被害者の精神外科手術を遂行した菊池医師によるカルテです〉と。〈同様に菊池医師による被告人のカルテです〉と。弁護側の立証となる。弁護士は啖（たん）呵（か）をきる。〈元来被告人に責任能力はありましたが検察側の資料にもあるとおり菊池医師によるロボトミー手術によって心神喪失状態にあったとかんがえられます〉と。〈亦（また）戀（こい）人（びと）であった被害者殺害に関（かん）聯（れん）してはけっして結婚費用の隴（ろう）断（だん）が中枢の目的ではなく神（しん）魂（こん）より被告人および被害者が人間であることを証明するために被害者の同意のうえであやめたものと証言しております〉と。雙（そう）方（ほう）が対（たい）峙（じ）するなか論告弁論となり検察側弁護士側から最終的な意（い）嚮（こう）が披（ひ）瀝（れき）される。検察側いわく〈被告人の自白と事件現場の状況の一致から被告人を有罪にして無期懲役を科すべきである〉と。つづいて弁護士側いわく〈被告人は精神外科手術という不可避的なる外的要因による心神喪失によって無罪とかんがえられます〉と。

　法廷は露（つゆ）聊（いささ）か殷（いん）賑（しん）とする。

　傍聴席から〈無期懲役か〉〈死刑じゃないのか〉と聲（こえ）が谺（こだま）する。周（しゆう）章（しよう）狼（ろう）狽（ばい）した裁判官はいう。〈静粛におねがいします〉と。被告人の意見陳述となる。裁判官は獅（し）子（し）吼（く）する。〈被告人最後にいいのこしたことはありますか〉と。弁護士が〈裁判長此（こ）処（こ）はわたしが代理として――〉というと被告人は頭（とう）顱（ろ）をふって擯（ひん）斥（せき）した。被告人はかろうじて裁判官にきこえる小聲（ごえ）で囁（しよう）嚅（じゆ）する。いわく〈わたしを有罪にしてください〉と。〈わたしは人間です玩具（おもちや）じゃありません責任能力もあります〉と。〈ひとのこころを玩具（おもちや）にするあなたたちこそ本（ほん）當（とう）に人間なんですか〉と。法廷は沈黙する。軈（やが）て判決いいわたしとなる。裁判官は厲（れい）声（せい）疾（しつ）呼（こ）する。いわく〈これは啻（ただ）の裁判ではありません人間の尊厳をかけた哲学的なる問題です弁護側検察側の主張を斟（しん）酌（しやく）するに被告人は本（ほん）當（とう）に人間の尊厳をかけて殺人をおこないました殺人は犯罪として罰せられますが人間の尊厳の問題とは乖（かい）離（り）しますわたしは人間の尊厳は尊厳としてだからこそ此（こ）処（こ）に法律的解釈をするにすぎません〉と。つづけて〈被告は人間であるがゆゑに刑法一九九条殺人の罪により無期懲役とする〉と。

　十年の盈（えい）虚（きよ）を閲（けみ）した。

　爾（じ）時（じ）の法律において無期懲役刑は最短十年で仮釈放になるとされていたがゆゑに模範囚の男性は恙（つつが）無（な）く仮釈放となった。刑務所の入口で挨拶をすると刑務官が尋問した。〈これから何処（どこ）へゆくんだね〉と。男性は囁（しよう）嚅（じゆ）する。〈僻（へき）陬（すう）の出版社へ〉と。新潟県内の文（ぶん）藝（げい）同人誌の印刷までを隴（ろう）断（だん）している零細出版社へ浩（こう）瀚（かん）の原稿を掲（てい）撕（せい）してゆくと結婚費用のための資金を蕩（とう）尽（じん）して原稿を自費出版することになった。精神科医を中枢として自費出版としては夥（か）多（た）なる四九八冊が購入される。二冊のうち一冊は躬（み）自（みずか）らの記念として片方の一冊を掌握しながら被害者の墓参へいった。墓前にて幸子の母親と邂（かい）逅（こう）する。母親いわく〈まっていました〉と。〈あれから菊池医師と裁判して勝訴したんですよ〉と。〈法改正でロボトミー手術は禁止されましたけれど嘗（かつ）て精神外科の被害に遭ったひとたちで被害者団体をつくったんです〉と。〈あなたも参加しませんか〉と。男性は頭（とう）顱（ろ）をふった。墓碑にむかっていう。〈人間てなんだろうねっていったね〉と。〈此（こ）処（こ）に書いたんだよ〉と。