　なにもかんじなかった。

　なにもおもわなかった。

　癈（はい）人（じん）となった男性は医師に籠（ろう）絡（らく）され同意書に〈花輪光一〉と揮（き）毫（ごう）して造次顛（てん）沛（ぱい）もなく退院した。かなしくもない。うれしくもない。抑（そも）ゝ（そも）の瞋（しん）恚（い）之（の）焔（ほのお）も熄（そく）滅（めつ）せしめられ茫（ぼう）然（ぜん）自（じ）失（しつ）して自宅へとあるいていった。真昼にアパートに逢（ほう）着（ちやく）したが食（しよく）慾（よく）もない。頭（とう）顱（ろ）をかしげて室内を見（み）霽（はる）かすと本棚に勘付いた。おれは彼処（あそこ）になにかをわすれている氣（き）氛（ぶん）がする。浩（こう）瀚（かん）の哲学書が網羅された本棚を睥（へい）睨（げい）しているとそこはかとなく脳髄が恢（かい）復（ふく）する感覚があった。感情は喪失したが論理は剥（はく）奪（だつ）されていないようだ。百（ひやつ）花（か）繚（りよう）乱（らん）の本棚を凝視すると様様な記憶が髣（ほう）髴（ふつ）された。プラトンの愛について。デカルトの方法的懐疑について。ヘーゲルの弁証法的止揚について。キルケゴールの有神論的実存主義とサルトルの無神論的実存主義について。キルケゴールとサルトルの書籍の狭（はざ）間（ま）に浩（こう）瀚（かん）の原稿が包（ほう）裹（か）されている。躬（み）自（みずか）ら揮（き）毫（ごう）した哲学書『人間とはなにか』である。『人間とはなにか』に翰（かん）墨（ぼく）した片言隻語が狂言綺（き）語（ご）におもわれる。啻（ただ）最後の一行を瀏（りゆう）覧（らん）した爾（じ）時（じ）に捲（けん）土（ど）重（ちよう）来（らい）の氣（き）氛（ぶん）になった。何（なに）某（がし）か大切なものをわすれている。大切な約束をわすれているとおもう。

　窓外は黄昏（たそがれ）だった。

　癈（はい）人（じん）は髣（ほう）髴（ふつ）した。何（ど）処（こ）かでだれか大切なひとと逢（あ）わなければならなかった彇（はず）だ。何処（どこ）だっただろう。だれだっただろう。なにゆゑに逢（あ）わなければならなかったのだろう。無感情のまま自室を俯（ふ）瞰（かん）すると一葉の年賀状に勘付いた。〈花輪光一さまへ　大地幸子より〉と揮（き）毫（ごう）されている。大地さんになにか尋問しなければならない彇（はず）だ。そうしなければ自分は本（ほん）當（とう）に癈（はい）人（じん）になってしまう。部屋から遯（とん）竄（ざん）すると無（む）何（か）有（う）の精神で悠久山へとあるいていった。悠久山の公園に長椅子を発見すると踟（ち）蹰（ちゆう）しながら鎮座する。逢（おう）魔（ま）時（どき）の四（し）衢（く）八（はち）街（がい）が鳥（ちよう）瞰（かん）できる。なんで此（こ）処（こ）へきたんだろう。大地さんになにを尋問しなければならないんだろう。おれたちにはもうそんな権利はないんじゃないか。時間の感覚を玩（がん）物（ぶつ）喪（そう）志（し）して数十分も躬（み）自（みずか）らを猜（さい）疑（ぎ）していると矢（や）張（は）り女性も逢（ほう）着（ちやく）した。癈（はい）人（じん）たる戀（こい）人（びと）はひとしなみに長椅子に着席する。蹔（しばらく）ふたりで沈黙していると戀（こい）人（びと）は囁（しよう）嚅（じゆ）した。〈なんにも感動しないの〉と。〈わたしは人間なのかな〉と。亦（また）蹔（しばらく）沈黙したのちに男性はこたえた。〈感動する必要はないよ〉と。〈でもねぼくたちはもう人間じゃないんだ〉と。

　わたしは奇（き）蹟（せき）をおこした。

　幾（いく）許（ばく）か沈黙していると儵（しゆつ）忽（こつ）として戀（こい）人（びと）が落涙しはじめた。欷（き）歔（きよ）し慟（どう）哭（こく）し号泣する。ひとしなみに癈（はい）人（じん）であった男性も戀（こい）人（びと）の豹（ひよう）変（へん）に怪顛して落涙し欷（き）歔（きよ）し慟（どう）哭（こく）する。ふたりとも躬（み）自（みずか）らが鵼（ぬえ）的（てき）であることに勘付いていた。亦（また）人間とは本質的に異常であることを髣（ほう）髴（ふつ）した。女性はうるんだ世界を見（み）霽（はる）かしながら哄（こう）笑（しよう）する。いわく〈あれなみだがでてきた〉と。〈世界が綺（き）麗（れい）にみえるよ〉と。〈あのときもそうだったの〉と。長椅子から聳（しよう）立（りつ）して絢（けん）爛（らん）豪（ごう）華（か）にみえる世界を睥（へい）睨（げい）しながら咆（ほう）吼（こう）する。〈わたし人間にもどったみたい〉と。恁（いん）麼（も）の戀（こい）人（びと）の舒（じよ）懐（かい）に男性もおもいだす。あのときだ。おれが求婚したときおれたちは慥（たしか）に人間だった。男性も長椅子から屹（きつ）立（りつ）していう。〈ぼくも世界が綺（き）麗（れい）にみえる〉と。〈ぼくも人間にもどったみたいだ〉と。蹔（しばらく）ふたりで人間であることに欣（きん）喜（き）雀（じやく）躍（やく）したのちに男性はいった。〈あらためていうよ〉と。〈ぼくと結婚してくれませんか〉と。女性は頭（とう）顱（ろ）を撓（しな）垂（だ）れた。女性の双（そう）眸（ぼう）から二筋の水滴がこぼれおちる。頭（とう）顱（ろ）をもたげた女性は美（あな）哉（にやし）の世界にむかってこたえる。〈もちろん〉と。

　しあわせはながくなかった。

　数分間ふたりで涕（てい）泣（きゆう）していると亦（また）ふたりは喫（きつ）驚（きよう）することになった。女性は痙（けい）攣（れん）する片手で男性の震（しん）盪（とう）する片手を掌握しながらいう。〈またなんにもわからなくなりそう〉と。口唇をふるわせながら男性はこたえる。〈奇（き）蹟（せき）はあっというまだったね〉と。ふたりの意識は亦（また）朦（もう）朧（ろう）としてゆく。と雖（いえど）も時間はのこされている。女性は悲（ひ）歎（たん）する。〈また世界がよどんでゆく〉と。男性が沈黙していると女性は蹶（けつ）起（き）していった。〈おねがい人間であるうちにわたしをころして〉と。喫（きつ）驚（きよう）する男性につづける。〈花輪さんならかまわないよ〉と。男性は踟（ち）蹰（ちゆう）しながらおもう。人間だったらころせない。否人間じゃなかったらころせないじゃないか。男性は隔（かつ）靴（か）掻（そう）痒（よう）しながらいった。〈ぼくたちは人間だよね〉と。女性が首肯すると男性は戀（こい）人（びと）の首許（もと）に両手をふれた。両手で首許（もと）を掌握し十指を首許（もと）に纏（てん）繞（じよう）させる。女性は男性の背中に両腕をからめて抱擁する。女性はいう。〈人間てなんだろうね〉と。男性はこたえられない。男性が女性を扼（やく）殺（さつ）すると男性を抱擁する女性の両腕は萎（い）靡（び）沈滞して撓（しな）垂（だ）れた。