結婚の限界 ~アンサー~

 突然だが諸君、褒められるのはお好きだろうか?


 「ありがとう」と言われることは?


 「あなたじゃなきゃダメ」なんて高望みはしなくても、「キミがいてくれて良かった」と目と目を合わせて言われてしまったら、その後10年は忘れられない思い出になってしまうのではないだろうか。


 


 進化論で有名なダーウィンが唱えた説に、自然選択説というのがある。


 よく使われるキリンの例で言うと、キリンの首は木の上の葉っぱを食べるために伸びたのではなく、突然変異で生まれた首の長いキリンが偶然木の上の葉っぱを食べることが出来たので、首が短かった他のキリンよりもたくさん生き残ることができた、という説である。つまり『生き残るために長くした』のではなく『長い奴が生き残った』ということだ。


 


 キリンなら首が長い、チーターなら足が速い、ワニなら顎が強いというように、たまたま有利な特徴を持って生まれたものたちが今日までを生き残ってきたと言うのなら、我々人間における『有利な特徴』とは一体何だろうか。


 まぁ、真っ先に思い浮かぶのは『立って歩ける』や『道具を使う』だと思うのだが、他にも『グループを作りたがる』と『承認欲求が強い』というのが、生き残った人間に多く見られる特徴だったのではないかと私は妄想している。


 


 牙もウロコも持たない我々が生き残るには、村などの集団を作って協力し合うことが不可欠だったはずだ。そして集団の中で集団のためになるアクションを積極的に行うのは、褒められたがり、感謝されたがりのやつである。つまり人間では、寂しがり屋で承認欲求の強い奴らがより多くの子孫を残してきて、現代を生きる我々の大半は、そんな彼らの遺伝子を受け継いでいるのではないだろうか。


 


 


 


 で、だ。


 今からおよそ2年前に書いた、結婚の限界という記事がある。友人の誰かが言った、「結婚って限界があるよね」という言葉に対し、じゃあその「限界」っていうのは、具体的には何なのだろうか?ということを延々と考えている記事である。


 2年間かけて考え続けた結果、結婚の限界というのは、手段としての限界ではないか。という結論に落ち着いた。『幸せになるための手段』としての限界である。


 


 現代における結婚は、少なくとも私からすると、 “幸せへの第一歩” みたいなイメージがある。結婚しただけで幸せになれると言うわけではないが、『本当の幸せ』は家庭がないと手に入らない……みたいなイメージである。


 


 じゃあその結婚で手に入る『本当の幸せ』っつーのは何よ?……というところを私はずーっとずーっと考えてきたのだが、これはメチャクチャにざっくり言うと、『誰かと仲良く暮らすこと』なのではないだろうか?


 


 誰かと仲が良い、というのは素晴らしい状態である。認め合い、受け入れ合い、必要とし合っている状態だ。


 大好きな人に「今度○○に遊びに行くんだけど、爽ちゃん(私)も行こうよ!」と言われたら、嬉しい。一緒に遊ぶのも楽しみだし、私が好きなその人に、私と一緒にいると楽しいと思ってもらえているということだからだ。


 大好きな人に必要としてもらえたら、たとえ世界中の人から賞賛されても届かない、心の奥底の部分がギュッと満たされるような、そんな幸せを味わうことができる。……と、私はそう感じている。


 


 我々の多くは生来『寄り集まりたい』『必要とされたい』と、いう欲求を抱えていて、その欲求を満たすために『誰かと仲良く暮らしたい』のだ。そしてその願望を叶えるための手段として、昨今、結婚が人気を博しているのではないだろうかと思うのである。


 


 


 


 しかし本来、結婚とはそのためにある手段ではないのだ。


 結婚とは幸せになるための手段でなく、不幸にならないために用いられてきた手段なのである。


 


 前にも話したが、昔は自分の老後を支えてくれる子どもを作ることが死活問題だったし、嫁か婿が来てくれればそれだけ仕事が楽になった。結婚は生活の基礎を整えるために必要かつ有効な手段だったのだ。


 


 現代においても、経済的な不幸を避けるための手段としてなら、結婚は有効な手段と言えるだろう。共働きならダブルインカムになるし、同じ家に住めば生活費も抑えられる。よくは知らないが税金でも負担が減ったりするらしい。


 


 しかし幸せになるための、『誰かと仲良く暮らす』ための手段としては、結婚は有効であるとは言い切れない。確実性に欠けすぎるのだ。


 


 人間というのは、振れ幅のある生き物である。本を読みネットに浸かり社会に揉まれているうちに、少しずつ前とは違った人になっていく。趣味も好物も笑いのツボも、全ては花のように移ろいゆくのだ。


 だから、今現在の「大切な人」が、数年後に「つまんねぇヤツ」に転身してても全く不思議ではないし、逆に自分が大切な人の「つまんねぇヤツ」になっている可能性だって多いに有り得る。


 


 承認欲求には、親愛によって満たされる部分と脚光によって満たされる部分の二種類があると考えていて、結婚によって満たされるのは当然親愛の方なのだが、この親愛というのは、好きな人、親しい人、尊敬している人からもらわないと意味がないのである。「好きな人に好かれないと意味がない」というやつだ。


 


 このお互いの「つまんねぇヤツ」化は、止めようと思って止められるものではないだろう。他人はおろか自分のことさえ、制御することは不可能に近いからだ。


 結婚して末永く幸せに暮らしていくためには、お互いを気遣い合う努力だけではなく、二人して同じ方向に変わっていけるような運の良さも必要となるのである。


 


 


 あぁ!まとめよう!


 要するに、結婚の限界とは、「結婚ってどう足掻いても運要素を省けないから、『幸せになるための手段』として用いるのはイマイチ」ということだ!!!


 


 


 ……たったこれだけの結論を導くのに、2年もかかってしまった。私はもしかすると人生があまり上手くないのだろうか?


 


 まぁ、良いだろう。本当はとっととこのブログを新フェーズに進める予定だったのだが、もうすぐ27歳になる私のために、そしていずれ30歳、35歳になっても恐らく一人でいるのであろう遠い未来の私のために、この問題だけ片付けておきたかったのだ。


 


 見ているか?この私の、若き日の懊悩を。的外れだろうが妄想だろうが何だって良いのだ。どうせ私だって同じところに留まってはいられない。ただ、今の私のがむしゃらなフルスイングが、いつかあなたの役に立つことを願っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る