結婚の限界?

 ここ一ヶ月半くらい、ふたなりの話と平行して結婚という制度についても考えていた。考えて考えて、最近は飽きてきた。


 考え始めたきっかけは、7月半ばに京都は三条木屋町で友人たちと飲んだとき、その中の一人が「俺、結婚って限界があると思うんよな」と言っていたことである。この言葉を聞いたとき、私は何を考える間もなく「それな」と答えていた。「それな」は全若者の口ぐせであり、私は若者であり、そのときは大分酒が入っていたこともあるが、決して口からでまかせではなく、しっかりと同意した上で「それな」と言ったのだ。


 しかし、その直後に別の友人から「じゃあ、結婚の限界って何?」と訊かれて、私は口ごもった。一生懸命説明しようとしたが、言いたいことが上手くまとまらず、訊いてきた友人はおろか始めに結婚の限界について言及した友人すら「???」という顔をしていた。歯がゆかった。


 あのとき私は一体何と言いたかったのか?それをこの一ヶ月半、ずっと考えているのだ。


 


 まず、その京都の飲み会でも言ったことであり、世間でも「それな」の次によく言われていることであるが、現代社会において結婚とは、もはやする意味があまりなくなっていると感じられる。というより、昔に比べて『結婚の目的』や『家族のシステム』がめちゃくちゃ変わっているのに、結婚という制度だけが形を変えずに取り残されているように思える。


 現代において結婚願望のある人に理由を訊くと大抵「子供が欲しいから」と返ってくる。そしてなぜ子供が欲しいのか?と訊くと大抵、「かわいいから」「子供がいた方が楽しそうだから」と返ってくる。これが、私が現代社会において結婚する意味があまりないと感じる理由の最たるところである。


 昭和初期くらいまで、子供を作るか否かは死活問題に近かったという。これは男女も士農工商も関係なく、跡継ぎという労働力を確保するために最も重要なことであった。子供ができなければ自分たちが老いたときに世話をしてくれる者もいないし、仕事を継ぐ者もいないので稼ぎが得られず、待つのは餓死あるのみだ。従って昔の人が子供を欲しがる動機は現代より桁外れに強く、結婚する本人のみならず、その親まで必死になるほどだったのだ。


 現代ではそもそも、子供を労働力として頼ることがだいぶ少なくなってきている。子供が欲しい理由を訊かれて「老後養ってもらいたいから」「介護してほしいから」などと答えようものなら、そのやり取りをSNSに晒されて炎上必至である。昨今の風潮によれば、子供の人生は子供のものであって、子供の助力を老後の当てにするのは良くないということらしい。文字通り、死ぬ時まで自分のケツは自分で拭け!ということである。


 つまり現代人は老後の当てにしようとも思わず、「かわいいから」の理由だけで、子育ての大変さを覚悟の上、子供を欲しがらなければならないのだ。これは結構ハードなことだと私は思うのだ。


 


 なんだか、ここまで話して、「違うな」って感じがしてきた。


 私の本意ともなんか違う気がするし、なんか、上手く言えないが、違う。これは私の思う『結婚の限界』とはまた違うルート上にある話だ。


 上の話は多分、「結婚って昔に比べて“するメリット”は(我が子はかわいい等精神的な充足を除けば)むしろマイナスだよね」みたいな話になると思うのだが、私があの飲み会で言いたかったのはそんなことではないのだ。


 


 結局、私は一体何が言いたいのだろうか?いつも「トッポ(チョコ抜き)」みたいなのが私の話の特長であるが、外側のカリカリすら最後までしっかりしていないのは流石に問題である。そんなのはもはや虚無だ。


 次の話はすぐに用意するので、また聞いてほしい。

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