インペグのメモ帳
ワラシ モカ
第1話 第1楽章
防音扉を開けると瞬く間に騒音が耳を支配する。
狭い部室には人と楽器がすし詰めになっていて、そのせいか気温もわずかに高い。僕が部屋に入ったことに気が付いたコンサートマスターは道を作るようにヴァイオリンの弓で大型楽器に指示する。のそりと大木が左右に開き、僕はその間をひょこひょこ通り抜ける。この時に気をつけなければならないのが譜面台だ。躓けばそれが倒れ楽譜が散り最悪の場合ほかの楽器に当たることもある。どれもお高そうな楽器様である。弁償なんてできる額なのだろうか。
指揮台に上がれば百個ほどの顔が一斉にこちらを見る。騒音はぴたりとやみ、コンサートマスターである
アウフタクトを主に金管楽器の方を見つつ振りだす。勇壮なトランペットのファンファーレが鳴り響き、それに呼応するようにオーケストラがついてくる。参加する楽器が増えていきリタルダンドで蛇行しつつも、船は何とか大海原を走りだす。
ショスタコーヴィチの祝典序曲。プロの卵がたくさんいるこのオケでも難しい曲だろう。この曲をやろうと言った前の指揮者、岩城は一切の連絡なく蒸発した。唯一残された置手紙に後任の指揮者を指名していた。それが僕、
そんなこんなで行われた全体練習。合奏はtutti《トゥッティ》と呼ばれ団員ほぼ全員がそろって行われる。僕も報酬をもらっているのだからそれなりに練習はした。そのおかげか、船は順調に航海をしている。
しているはずだった。乗組員が常に正常な動きをするとは限らない、どこかで綻びが生じたことに気づいた時には船は大きな渦に飲み込まれていた。テンポがどうしようもなく早くなってしまい、制御ができなくなり、音楽は吸い込まれてしまい、やがて止まった。
本当に飲みこまれてしまった方がましである。その後に流れる沈黙は、まるで僕のせいと言わんばかりの視線となって僕を突き刺す。原因はどこかにあったはずだが、僕にはそれがわからなかった。
「15分休憩」
コンマスの樫井がため息交じりに告げると、気まずい空気が弛緩して、もとの部室の空気に戻りつつあった。
僕は冷や汗が止まらなかった。休憩後も船が何度沈没したかは言うまでもなかった。
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