第42話 He pretends ignorance

無知を装っている。

化粧みたいに簡単に剥がれ落ちるのに、滑稽な程人はそれで変わる。

もし仮にそんな者がいたとしたら。

無知を装うという行為はつまり、何かに対する免罪符なのだと。

そう、結論づけた者がいた。

姿を偽るための装いではなく、前を向くための鎧だと。







彼は無知を装っている。

いや、と言うべきか。

気づいたことに片端っから蓋をして何とか自分の理想郷を維持しようとしていた。

その無意識な企みも結衣と呼ばれている少女ともう一人の塚原遊に阻止された。

結局、理想にすら絶望した遊は現実を直視しようと努力をした。

その結果今ここにいる。


「ようこそ、とでも言っておくか。過去との邂逅お疲れさん。どうだ?厭になってきたか?自分自身の性根の腐り具合に」

「あぁ。反吐が出そうだ」

「あぁ、そう。それは良かった…それでもし『俺はそれでもできた人間だ!』なんてほざきやがるなら、いよいよ安すぎる陶酔に溺れて目が覚めなかった所だったぜ。少しは見直したよ弱虫」

「…ここは?」

「ここは表層意識…そうだな、不屈とお弱虫の決闘場みたいなもんだ。ここで運命が変わると言っても過言じゃねぇ」


順々に指さし確認する遊の写し身。

以前よりも格段に成長しているらしい。

あんなに差があった背もいつの間にか近くまで目線が来ている。

そう言って近かった距離を直すため、遠ざかる遊の写し絵。



「俺は…ここでおを倒して、目覚めればいいのか?」

「多少物分りがいいな。でもよぉ――」


瞬間視界からもう一人の遊が消える。


「――お弱虫不屈より強いっつうのは傲慢過ぎねぇか?」


綺麗なフォームで繰り出された認識可能回避不可能の右フックが左頬に喰い込む。

そのまま鳩尾に掌底。

体がくの字に曲がり、気道が詰まる。

そのまま避ける余裕などあるはずもなく、回し蹴りをクリーンヒットさせられる。

ゴリゴリゴリ!っとありえない音を立ててありえない距離を飛ばされる遊。

高々数キロ程の脚に出来る芸当では無いが、ここは――


(――ここは夢の中だったよな…何でもなアリかよ)


風圧で姿勢もまともに取れない。

辛うじて見えたのはもう一人の遊がひとっ飛びで自分の吹っ飛んだ先に来て、ニヤリと笑ってこう言う所だった。


「まぁとりあえずまた来い。今は深層にでも沈んでな!」


そう言い放つと遊の背中を上から両手をハンマーの様にして地面――というか水面――にたたき落とす。


(下は…水面か…助かったかも)


刹那で地面に到達した遊は当然衝突したのだが、想像と違って水に落ちたわけではなかった。

水面だと思っていたのはどうやら間違いのようで衝突した途端に六角形のパネルの様になり、吹き飛ばされて行った。

ホログラムでできた仮想空間のような所だったらしい。

何故立って居られたのか、とかそもそもなんでこんな所に、とか思考が追いつかない。

考えるのが少し馬鹿らしくなってきた。

それでもなお遊の落下は止まらない。

落下の勢いが指数関数的に増えていくのだけは分かった。

やがて意識も遠のいていく。









いつの間に目覚めたのか体に地面を感じる。

上を向けば空には満天の星。

いつも危機転換や一大事の時は気を失っているな、と遊は思う。

思いっきり叩き込まれたにしては体に異常は見られない。

あんな速度で地面に落下していては全身のありとあらゆる骨が複雑骨折していても全くおかしくはないほどの衝撃であったのだが。

ともあれ痛みもないし大丈夫だろうと割り切って立ち上がる。


「痛っ…たくねぇな。…どこだここ?気を失っているってことはまた記憶の世界か?」


周りは薄暗く、星が出ているお陰で何とか周りの様子がわかる程度。

そして周りには特に目立つ建物などは一切ない。

足元は見覚えのある――というか吹っ飛ばされた表層意識と言う場所と変わらなかった。

この空間を毒々しいほどの紅い月が夜空を支配している。

まるで聖書にある終末の暗示みたいな光景で。

けれど、その破滅的な美しさに心を奪われる。


(…嘘だろ)


ピタリ、ピタリと水面に波紋をつくってやってくるその人影は。

とても懐かしい気配がした。


「父さん…なのか……?」

「遊…久しぶり、だな。…いやぁなんと言うか感慨深いなぁー…あの寂しがり屋がこんなにも大きくなってまぁ」

「父さん!」

「…おいおい。もう高校生になったんだろ?高校生ともあろうものが泣きつくなんてダサいぞー」


そう軽口を叩いて茶化してくる父親は記憶にある姿と全く違わない出で立ちだった。

黒い縁のメガネを掛けて、涼しそうな黒いシャツの格好そのまま。

優男という印象も変わらないまま、そこに存在している。

その雰囲気に反さず、幼子に声を掛けるような声音で優しく愛おしさを感じる言葉を投げかけてくる。

言葉が奥底まで染み渡る。


「俺…俺…すげぇ心配で、でも約束は守ろうとして、それで、でも約束を覚えてなくて、それで、それで!大切な子が…!もう俺どうしたらいいかわかんなくて」


思わぬ再開にしどろもどろになり、上手く言葉が喉から出てこない。

伝えたいことは沢山あるのに。

涙は視界を邪魔する程に溢れてくるのに。

けれど涙を拭う余裕も、思考も持ち合わせていなくて。

ただただ本能が、涙を拭いたくないと訴えかけてくる。

――涙を拭ってしまったら幻のように消えてしまいそうだから。

夢なのに、覚めないで、と。

今だけはこいねがう。


「落ち着きなさい。大丈夫、全部見ていたよ。よく頑張った…。だからこそ、遊。お前の言葉で。お前の心で今一度父さんに教えてくれ。今までのことにどう思っていたのか。急がなくていい……ゆっくりでいいから聞かせてくれ」


溢れる心の洪水は体感で後十分ほど枯れることはなかった。









「それで遊、父さんとの約束は覚えていないのか?」

「うん。何かを約束したって事と守ろうとしたってことは分かるけど、内容は分からない」


二人懐かしく星空の下を並んで歩く。

普段であれば小っ恥ずかしくてできないことも、夢の中と言う特別なムードはそんな障害をものともしない。

言葉を交わす。

数年ぶりの親子のスキンシップを邪魔する輩も今は居ない。

夢逢が行く道を先導するような形で話し始める。


「じゃあもう一度、いや何度でも言ってあげよう。まず一にすぐに泣かないこと。男の子が泣くのはかっこ悪いからな!」

「…泣くな、かぁ。そういえば母さんに心配かけたくなくて我慢しようとしてたから泣いた記憶はあんまりないな。あぁでも、最近泣いたかも」

「…もちろんその一からして辛い事だってことは父さんもわかってる。だから本当に辛いなら泣いてもいい。でも、泣いてばかりじゃなくて涙を勇気に変えなさい。泣いてばかりじゃ辛いだけだぞ」

「うん。母さんにも心配掛けたくないから泣かないよ」

「よろしい!…その二!決めたことは最後まで貫き通すこと。守れたか?」

「…多分。元々、自分でも時々思うほど頑固な性格だし。それに、友達がいなくなった時も、辛い現実と向き合おうとする時も…ほら、こうやって今ここにいる。逃げずにここに居るから。膝を屈することはあったけどそれでも意地や夢を貫き通してるよ。言うなればまだ挑戦中、かな」

「そうかそうか。ならばその三!誇れる友人を持つこと」

「これは絶対の自信を持って言える――最高の友人たちがいる。俺が辛い時や逃げたい時に俺の事を支えてくれる友人たちが。俺の事を待っててくれているんだだから、俺は諦めないでここまで来たんだ。一秒だって立ち止まっていられない」

「そうか…。その人達は

を一緒に夢見る仲間」

「…じゃあ最後にその四。以上の約束を決して破らないこと」

「――」

「これまでの事は知ってる。何があったのか一番に理解している。そのうえで聞くよ。?」

「…いや。忘れてしまってはいたけれど破ろうと思っていたわけじゃない。…ごめんなさい」

「…そうか。別に怒ってるわけじゃないそれが聞きたかったんだ。破った際の言い訳でもなく、開き直りでもなく、しらを切る事でもなくて。。…そうだね、ある意味諦めたかどうかって言い替えてもいいかも」

「諦めたくはない。譲歩することはあっても諦めたくはない。そうやって。まだまだ俺たちは夢を見足りないし、夢に目覚めたばかりだから大人になりたくない」

「ハッハッハ!…確かに歳は取りたくないものだな。そうか…諦めを知るのは年の功か。なるほどな、確かに遊は高校生になって大きく成長したなと思ったが……どうやらまだ少年の如き童心の輝きを消し去っていないらしい。流石だと褒めたたえたいな。それでこそ夢を追いかける子供我が子だ」

「…絶対に…絶対に!千佳や父さんを救うから…」

「あぁ。しかし今やるべきことはそれでは無いだろう?」


そう言って夢逢は歩いてきた道の方を振り向いて、後続の遊と向き合う。

肩を掴まれて二人の距離はこれまでにないほど縮まる。


「お前はまず、お前自身と向き合って、辛い過去と向き合って、そして自分を救わなきゃダメだ。幸せを齎す者はそもそも幸せじゃないと幸せのお裾分けができないじゃないか」

「……。みんな、そう言うけど一体…?確かに俺も何かしなきゃいけない気はするけど…向き合う過去にはもう…」

「まだ、あるんだよ。確かに遊は最初に記憶を忘れたこと自体に、次に千佳ちゃんのことに向き合った。でもまだ向き合わなきゃダメなんだよ。自慢の息子の遊が辛いことの一つや二つでヘタれるか?」

「父さん…」

「…あぁ。もう時間らしい。さぁもう行きなさい。残りは、母さんと三人で、な」


夢逢が振り向いた先には影が三体ほど直立していた。

それは恐ろしさの抽象なのか元々そんな姿なのか分からないが、どれだけ目を凝らしてもユラユラと揺れる陽炎の如く詳細を見ることは叶わない。


「最後に遊。…必ず友達を救い出せ」

「…わかった」


未練と涙を置き去りにして思いっきり走る。

走る、走る、走る、走る。

いつしかペースは落ちて、脚は縺れそうになるが、お構い無しに心を無心にし、走る。

フォームも何も気にせずに走る。

ただ、ひたすらに。

いつからか手を引かれて走っていた。

遊の右手を取って懸命に先導するのは、白魚のような手をした少女。

紛れもなく、その人は。


「…結衣っ!」

「いいから走って!」


ピシャリと彼女が言いつけると二人はいつまでもいつまでも地平線に沿って走り続けた。

何から逃げているのかも知らずに。

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