第23話 飼い犬に手を噛まれて
夕陽が煌々と差す車内を静寂が支配する。
聞こえるのはガタンゴトンと電車が揺れる音のみ。
珍しく寂れた雰囲気を纏う車内はやはり人影は少ない。
というか全くないと言って良いだろう。世界に二人しかいなくなったかのようだ。
こんなに静かなのはいつぶりだろうか。
(最近はめっきり周りがうるさかったな。今ではそれも悪いとは思わないが、時にはこうして静かになりたいな。昔の俺みたいに)
少し高い所を走る路線から見下ろした街は車内の雰囲気に当てられてかどこか寂れた印象を与え、終末世界になったかのよう。
身を寄せあって恐れから来る震えをを紛らわせるかのように座る千佳と遊。
されど温め合うはずの二人の視線は互いに交差することはなく窓から外へ照射しているだけだった。
その視線は何を捉えることも無く、その瞳は何も意味のあることを写すことも無く、無機質に無感動に虚空に向けられている。
胸中に渦巻くのはこれからのこと。二人の焦点は
千佳は過去を反芻して。
遊は未来を懸念して。
それでも電車は
過去と現在と未来が交差し、交わり、絡み合って擦れ違う。
在りし過去と有り得べからざる
彼らを彼らたらしめる要因。
未来過去現在どの地点で選択はなされるのか。
小さな悪魔は、いつ食い破ったのだろうか。
遊は大人しい人間だ。
そして同時に静かに情熱的だった。
自身のすること、自身の正義、考え方。
そういったものをおいそれと曲げないような頑固な人だった。
めったことでは手の平を返さない。
楔で大地に固定でもされているのか、梃子でも動かないほどの不動っぷりだった。
いや小学校まではそうだったと言うべきか。
千佳の遊に対する第一印象は正にそれだ。
根暗と言うよりは物静かというか、小学生特有の無駄に騒ぎ立てたり、くだらない事で盛り上がらない周りより数歩先に大人びた態度でいた。
幸い友達のおかげで浮くことはなかったがいつの日からかを境に卒業までその態度は一貫していた。
別に孤高を気取っているとか、栄光ある孤立だとか、誰に対しても攻撃的とかは一切なくて。
ただ周りが取っ付き難いだけだった。
実際初めの方は自分もそうだった。
そんな堅苦しい態度を軟化させたのは自分も含めると主に三人の女子と一人の男子であったと思う。
そのまま普通の人間に戻るかと思いきや好調に滑り出していたそれも、─────のせいで彼はおかしくなった。
日に日に窶れて、塞ぎ込んで、彼らしく無くなった。
──何故、私はこれを知っているの?
まるで、なにかに彼という存在が喰われていくかのようにゆっくり、ゆっくりと彼という人間がどんな人なのかわからなくなって言った。
それが中学の最初の方。
そうして中学に上がって暫くすると彼は小学生時代の硬派な態度が嘘かのように積極的に他人と関わるようになった。
まるで別人だ。
一見柔和に見える笑顔の裏に唾棄すべき悪を隠しているように見え、人じゃないような存在が人の皮を被って野心を燃やしているような不快感が募る。
時折かつての彼では考えられないほど盲目的なナニカに対する信仰もあった。
それは時に吐き気を催す程の邪悪であることもあった。
純粋無垢な笑顔で殺意を振りまく悪魔とでも良ばいいのか。
しかしその盲目的な信仰も周りが難色を示すと、あっさりと撤回する。
気味が悪い程の手のひら返し。
およそ彼らしくもない前言撤回の速度。
周囲の人間はそれを不気味がりもしたが、人間の心という物が強そうで意外と脆いということも知っていた。
特に彼の友人たちはそれを深く理解していた。
彼はきっと喪われた心の支えを別のものから作り、無理やり当てはめたのだ。
だから他人から見るとチグハグだらけのおかしなカリカチュアができ上がるのだ。
或いは死体で作り上げた継ぎ接ぎのオブジェだろう。
だから中学時代でもいじめはなかった。
当然関わりを持とうとしない者もいた。
そのような人の彼に対応する態度はまるで人を相手にしているような態度ではなかった。
それでも遊はらしくもなく健気に愛想を振りまき続けた。
少なくとも友人たちが感知する範囲ではなかったはずだ。
だが、日に日に遊は窶れていき、笑顔もぎこちなくなって…それで…。
(遊は小学校の頃あんな事言っていたけど辛いのは分かるわ。でも、それでも立ち向かうその姿が勇ましかった。そして何より、同じような悩みを持っているってことが何よりも私の支えになった。こんな事を思うのも烏滸がましいのかもしれないけどあなたの言っていたこと今痛感してるの)
電車が徐々に減速し始める。
閉じていた瞼を開けて、俯き気味だった顔を上げる。
どうやら目的の駅に着いたらしい。
「着いたわね、行きましょ」
「あぁ…忘れ物はないか?」
「大丈夫、ないわ」
「そうか、行くぞ」
「…」
「どうした?」
「遊、今日というか今、すごく変よ?口調は普段通りだけど、雰囲気が…まるで小学校の頃に戻ったみたい」
「…は?何で知ってんだ?」
「当たり前でしょ、からかわないで…っていうか!あの時のあなたはからかうことなんてしなかったわ。やっぱり変だったのは元々ね」
「は?いやおかし……」
そう言ってずんずんと進み出す千佳。
その後ろで考え事をする遊は少し遅れて後を追った。
駅から歩くこと5分。
先程から相変わらず人気のない通りを横断し、巨大な敷地を誇る公園の丘の中腹をずんずんと踏破すると、頂上の動物専用墓地についた。
お盆シーズンでは無いため墓地にも人っ子一人いない。
周りは鬱蒼とした木々が立ち並んで周りの景色は見えないがそこらのビル並に高いだろうことは踏破してきた道のりが示していた。
僅かに曇天の兆しを見せてきた鈍色に染まりつつある空を見上げながら遊は呟く。
「泣きそうな空だな…」
いつもなら誰かさんのツッコミが入りそうなこのキザったらしい言葉も隣を歩いている少女は反応しない。
ただ悩ましげな瞳を時折閉じて、潤ませるだけであった。
居心地が悪くなった遊はそそくさと歩き出す。
今更ながら気の利いた一言すら出ない己の不出来さを実感していた。
物言わぬ石碑に刻まれた簡潔な単語を反芻しながら奥へ奥へと誘われる。
何だかさっきから胸が締め付けられるような感覚がしてくる遊。
歩きながら胸に手を当てて、鼓動を感じ取る。
(なんか、悲しい筈なのに…よくわかんねぇな…悲しい…?よく知らないのに?)
自分もついにおかしくなったか。
最近そう心配になる事が多い。
ふとした
そんな錯覚に襲われる。
いやもはや錯覚ではすまないだろう。
あのような体験をしておいて信じられない、などとどの口が言えようか。
(結衣…お前、やっぱり死んじまったのか?あの日会った時にはもう…棺に入っちまったのか?)
答えは出ない。確信も持てない。
あらゆる可能性だけが揺蕩うが、これだ!と決定づける証拠も根拠もない。
(そう言えば、最近、と言えなくもない日の朝に誰か大切な人が車で轢かれるような内容の夢を見たような…気がする。あれは結衣だったのか?)
トラックに轢かれたのだろうか。
あれは単なる夢ではなく深層にアクセスした過去夢だったのだろうか。
彼女は道端で干からびたカエルのように真っ平らになってしまったのだろうか。
(何が…一体何が?…分からねぇッ!)
そう言えば、凛華は今、何をしているのだろう。
また自分は何か忘れているんじゃないか。
忘れては行けない宝物をまた手のひらの隙間から零してしまったのだろうか。
不安、不安、不安、忌まわしい…憎悪、不満、心配、不安、不安、不安、不安、不安、不安、不安、不安、不安…。
ただただ胸の蟠りが増えていく。
だんだん、だんだんと胸が何かでつっかえてとても苦しい。
息がしづらい。
目眩がする。
徐々に視界が暗転して行き、周りが見えなくなっていく。
「はぁ…はぁ…」
膝が言うことを聞かずに崩れ落ちて、全身から力が抜ける。
体が言うことを聞かない。
思考が続かない。
ぼんやりと彼の目の前に広がるのは――
――霧の奥で泣きながら此方をとても悲しそうな瞳で見下ろす千佳の姿だった。
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