第3話 ピアノの旋律とビニール傘①
朝のホームルームが終わり、一限の数学、二限の政治・経済の授業を若干の眠気と戦いながらノートにペンを走らせていた遊は三限の音楽の授業の準備をしていた。
乱雑に机の下に突っ込まれた教科書の群れを見れば遊のある程度の人なりが判別出来てしまうほど彼の机は彼を雄弁に語っていたが、無駄に十六年乱雑に物を片付けてきた訳では無い。
無駄に大事なプリントを無くしたりしてあたふたしてきた訳では無い。
こんな時の対処法も心得ている。
その悪癖に悩まされた時間を無駄にはしなかった。
彼は探し物が得意である。
特に自分の関わったものについては。
手がかりがあれば昨日何々の傍になんちゃらを置いたなくらいの事は思い出せる。
何故それを勉強に生かせないのか不思議でならないほどに。
手がかりさえあればものの数分で目的のものを見つけてしまえるほどには有能な能力だった。
そうして目当ての音楽の教材を掘り当てた遊はリコーダーを持って、一階にある音楽室に向かおうとする。
遊たちの高校一学年の教室は地上四階にある。
三階が二学年、二階が三学年、一階が職員兼特別教室が複数だ。
用途の都合上一階に置けなかった特別教室もあるが、残念なことに音楽室は一階の隅だ。
授業中は職員がほぼほぼいなくなるから防音措置をしてるとはいえ煩わしく授業の邪魔をする音楽室は一階の隅に置くと言うのは分かるのだが、一年生はなまじ距離が遠い。
それを見越して他の生徒はもうとっくに移動を開始していて教室には人っ子一人いない。
元樹や叶依達は先に行って鍵を開けているはずだ。
だから一人で音楽室へ行くのだが…。
授業開始まであと五分しかない。
「やべぇ!急がねぇと」
なんで休み時間なのに休まらねぇんだと悪態をつきながら慌てて廊下に出ると、階段の側の壁に千佳が寄りかかっていた。
手には可愛らしい筆箱と音楽の教材が乗っかっている。
「ん?あれ、千佳?どうしたんだこんな所で」
「べ、別に!偶然よ偶然。遊、どうせ音楽室まで一人でしょ仕方ないから一緒に行ってあげるわ。感謝しなさい!?」
遊が階段の前にいた理由を訊ねると千佳は早口で偶然と言い張り、そこで何故か得意気にふふん、と胸を張り遊に音楽室へ一緒に行こうと誘いかけた。
どこぞのツンデレお嬢様かというツッコミを遊はしなかった。
自分の想いに素直になれていないのか、はたまた柄にもなく緊張しているのか所々会話の繋げ方が強引である。
更には似合うような似合わないような尊大な口調。
こういう所が不器用なのが早乙女 千佳という、うら若い乙女である。
このような抜けてる部分も引っ括めて周囲から尊敬と信頼と応援を貰えているのだろう。
「まぁ私は別に遊なら全然構わないし?二人で音楽室に行ってあげてもいいわよ?…って遊?」
「何やってんだ?授業に遅れちまうぞ」
「あっ、ちょっと私を置いていかないでよぉ」
勇気を出して千佳的には恥ずかしい部類に入る行動したのにも関わらず、遊が気に留める所かそれが自然だと認識している事態に嬉しいやら悲しいやら複雑な心境の千佳。
(ま、まぁ遊と二人っきりで一緒に音楽室に行けるから合格ね!)
クラスの女子が聞いたら全員が全員「そんなんでいいのかよ!」とツッコミを入れそうな事で頬が緩んでしまう。
この調子で彼女の望みが叶う日は果たして来るのだろうか。
音楽の授業は酷く退屈だ、と遊は愚痴を零す。
楽譜が読めなければ、楽器も不器用で満足に吹くことも出来ずに、果てには歌まで上手く歌えない始末。
だと言うのに彼の友人たちと言えば…
「元樹くんすごーい!なんでそんなにスラスラと音階を言い当てられるの?絶対音感ってやつ?」
「長年の努力の賜物だな」
「えー!委員長すげー!なんでそんな綺麗にスラスラと指動くんだよ!すげー!」
「うふふふ、格ゲーとかをやっていると自然と細かい指の動きに対応できるようになってきましてね。一度慣れてしまえば簡単ですよ」
「ほんとに格ゲーだけでなるのか…格ゲーすげぇぇぇ!委員長もっとすげぇぇぇー!」
「千佳ってさーめっちゃ高音綺麗だよね。ビブラートも上手いしソプラノ歌手も狙えるんじゃない?」
「そう…?私、音楽は苦手なんだけど。特に楽器とか」
とそれぞれ称賛される凄いことを平然とやってのけている。千佳がチラチラと遊に視線を送る。
遊は「バカにしてるのか!」と叫びたい衝動を押さえつけながら、一人椅子に座ってリコーダーを吹いていた。
指使いは序盤で既に怪しく、時々息を強く吹きすぎたのかピーッ!と耳を劈くような音が鳴る。
次第にリズムが崩れて、原曲すら分からなくなる。
「やってられるか!何が悲しくて一人でリコーダーピーピー鳴らしてなきゃいけねぇんだよ!」
リコーダーを右手で床に叩きつけようとして、寸前で「壊したら面倒だな」と踏みとどまって袋に仕舞う。
そうしてからクラスメイトの前でそんな恥ずかしいことしなくてよかった、とも。
チキンハートの男、遊。
今日は教師が休みなので、音楽室で自主練ということになっているのだが、大体において高校生にもなってリコーダーとは何事だ!という意見が多数寄せられた為、音楽教科員のその場の判決で練習が完璧な人は自由にしてよろしいという事になった。
一体どこの完璧男なのだろうか。
皆目検討もつかない。
ほんとに全く分からないがその男は絶対ピアノの音階を絶対音感レベルで言い当てられる。
(だいたい、今日はリコーダーの練習だってのに…!…いやそもそもいい歳した高校生ともあろう者がリコーダーってのがおかしいのか。まぁそりゃとっくに音楽に興味あるやつなんかはベースだのドラムだのギターだのを練習してるか)
椅子にもたれかかっているとふと閑古鳥が鳴くピアノに目がいった。
クラスメイトが集まっている方向とは逆だ。
ピアノは古い方と新しい方の二種類があり、こちらは古い方。
あのもはや憎たらしい友人たちが人を惹き付けているので人が居ないのだろう。
ちょうどリコーダーにも飽きが差していた事だし、気合を入れ直す為にも軽く弾くぐらいならば許されるだろう。
楽器が下手な遊はこれ幸いとピアノに近寄る。
普段丁寧に使われているのか、年季が入っているというのにピアノには埃ひとつ塵一つとして付着していなかった。
鍵盤の蓋に遊の顔が映るほどにピカピカだ。
普段の使い手のピアノに対する愛着が窺える。
遊はそんなピアノを指紋で汚さないように、制服で鍵盤の蓋を開ける。
そしてピアノの前の椅子に座ると、呼吸を整えて静かに指で旋律を奏でる。
最初は仰々しいほど勿体ぶって鍵盤に触る。
奏でる旋律は徐々に徐々にテンポを上げていき、やがてひとつの大きな流れへと昇華していく。
世界の音がそのピアノの音以外無くなったかのようにその音はどこまでも澄んで響く。
実は遊には一曲だけ弾ける曲があった。
それだけは何処までも洗練されていて、まるで別人が引いているかのように厳かで華やかな音色である。
この完成度は悪鬼羅刹さえも万歳三唱に拍手喝采を惜しまないだろう。
逆立ちで町内一周してでも聴きたいという人もいるかもしれない。
それはショパンの練習曲作品十第三番。
一般的に「別れの曲」という名前がついた曲である。
遊は静かに音色に耳を傾ける。
何故楽器はダメダメなのにピアノができるのか。
何故この曲だけ弾くことができるのか。
何故指はつまらない事を考えていても清流のように淀みなく動くのか。
(なんでこのだけ曲はまるで沢山練習をしたかのようにスラスラと弾けるんだ?)
疑問が湧き上がる瞬間に――
――パチパチパチパチ!
万雷の喝采が遊を飲み込んだ。
それは産まれて初めての大きな注目だろう。
そして一生に一度の出来事であろう。
まるで世界がその音色を褒めたたえ、地を鳴らし、海をうねらせているかのような大音量であった。
それは一種の地殻変動だった。
立場という地盤が歪む程の。
「ん?…あっ!」
無意識のうちに別れの曲を弾ききってしまったがそういえば音楽の時間だったと今更のように気付く遊。
顔は羞恥心により普段よりも赤味が増している。
普段の彼からは考えられないほど動揺を露わにして狼狽える遊に元樹が声をかける。
「おいおい、んなテンパるこたぁねぇだろ。お前は素晴らしい演奏をしたんだ。プロも顔負けの指使いにテンポの取り方だったぜ?胸をしゃんと張れ、胸を」
「お、おまっ!最初の方から聞いていやがったな!?」
「当然。てかいきなり弾き始めたのは遊だろ」
「うぐっ…その通り、でございます」
「遊、今のはマジですげぇよ」
急に真面目顔の真面目トーンで元樹に褒められた遊はその後に続く称賛の嵐に更に頬を赤くした。
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