キリトリ線

沢崎善

キリトリ線

 憧れてしまったことが、今までの私の人生の中で一番の失敗だった。

 小学生の頃図書館で読んだ本には、どの本にも希望がいっぱい詰まっていた。甘酸っぱい初恋や、友達との固い絆。全力を注ぐことのできる部活。そこには青春の輝きがすべてあって、私も中学、高校と進んだ先にこんな未来が待ち受けているんだろうなと、勘違いしてしまった。

 もしも小学生の私がもう少し賢明で、現実と言うものが良く見えていれば。昼休みのほとんどを本に触れて一人で過ごしていた私と、校庭に複数人で集まって鬼ごっこをしていた彼ら彼女らが、それぞれの身の丈に合った未来を生きることに気づけていただろうに。成長とともに得る失望や痛みを、最小限に抑えられただろうに。

 私はあの頃の延長線上にいる。本質は何も変わってない。本を図書館だけでなく教室でも読むようになり、読む時間が急激に増え、身の程を弁えることができるようになったという、ただそれだけの変化を私は得た。

「ブッツー何読んでんのー?」

 急に声をかけられて、追っていた活字が目の前から消える。顔を上げると、いつもの女子三人組が私を取り囲み、リーダー格の女子生徒が取り上げた文庫本を片手で開いていた。

 こういうとき、私は上手く言葉を発することができない。刺激に反応し、脳内で言いたいことをまとめて、口にするまでの過程が異常に遅いのだ。きっと神経に先天性の欠陥でもあるのだろう。何か言わなきゃと思うあまり口がつっかえ、全身から汗が吹き出し、焦りは不良品の言葉しか生み出さない。

「あ、これ最近ドラマになったやつじゃーん」

 リーダー格の女子生徒、塚本さんがブックカバーを外して表紙を確認したらしい。本を限界まで広げてページをぱらぱらとめくる。最近買ったばかりの本だから雑に扱わないでほしいと思うものの、当然言葉にはならない。

「ブッツー恋愛に興味あんだね。意外だわー」

 塚本さんがそう言うと残り二人がクスクスと笑う。私は耐えられず俯く。こういうことがないように、恋愛小説は教室では読まないようにしてきた。彼女らにとって恋愛に無縁な私がそういったものを読んでいるのはひどく滑稽、あるいは惨めに映るだろうから、それをネタにいじられることがないようにという理由からだった。

「ま、リアルで恋愛できないから仕方ないか!」

 三人が爆笑する。喧しく、下卑た笑い声が教室中に響く。不愉快だと思った。思っただけで口にはできなかった。そんな自分に腹が立った。

 俯いたまま席を立ち、教室を出ていく私の後ろ姿を見て彼女らはさらに大声を上げて笑う。ほんの一滴でも涙がこぼれないように唇を噛みながら、トイレへと向かった。

 私がいつも使うトイレは一階の理科室横にある。理由は他に使う人がほとんどいないからだ。二階や三階のトイレは各学年の教室があるために利用者が多い。一方、一階の、それも北側の端にあるこの場所に人が来ることはほとんどない。利用者が少ないが故か手入れもあまり行き届いておらず、アンモニアの臭いが鼻をつく。理科室が近いからかもしれない。

 この場所の空気は夏場でも冷たい。体内に取り込んだ冷気が心を凍結してくれるような気がするから、私は逃げたいときはいつもここに来る。冷水で顔を洗い、排水口に流れ落ちる水の中に涙をとけこませることが心に安らぎを与える。

 ブッツー。

 鏡を見ているとき、いつもその言葉が塚本さんの声で再生される。当然だけど愛称ではなく蔑称だ。鏡に映っている自分の顔の、左の頬のあたりに指先で触れる。ひやりと冷たい。鏡の体温。

 左右の頬それぞれに、茶色の斑点が点在している。もともとの肌が白いせいもあって際立って見えた。いわゆる「そばかす」というやつだ。正式名称は雀卵斑というらしいがどうでも良い。私にとって憎むべき対象であることには変わりはない。

 「ブッツー」という渾名は、私の「布津」という名字と、そばかすの「ブツブツ」を掛け合わせてできたものらしかった。いつ頃からそう呼ばれ始めたのかはもう覚えていない。

 このそばかすが、生まれつき私に巣食っていた病魔が、消えてしまえばどんなに良いだろう。何度も思った。そうすれば、少なくとも「ブッツー」などという呼ばれ方はしないだろうし、外を歩くときに俯く必要もなくなるだろう。人と目を見て話せるようになれば心に余裕も生まれて、もっと明るい性格になれるはずだ。

 全部このブツブツが悪いんだ。

 無意識の内に、指先に力がこもる。人の性格はどうしたって容姿に左右される。顔が美しければ周囲からちやほやされて成長して、心も当然健康的に育つ。逆に、私のようにどうしようもないコンプレックスを抱えて生まれた人間は、嘲笑や侮蔑に取り巻かれながら生きていくしかない。そんな人間の心が正常に発達するわけはないのだ。

 無くなってしまえば良いのに。

 心の内で呪詛のように唱えながら、教室に戻る。次の授業が始まる寸前というタイミングを選ぶのはいつものことだ。私の開けたドアが音を立てた瞬間、例の三人がニヤニヤとした笑みを浮かべながらこちらを向くのが分かった。



 本日分の授業と三人のいじりを耐えて放課後を迎える。私は三階にある部室に向かっていた。「文芸部」という、陰を生きる人間がジメジメとした青春を過ごすための部活だ。

「やあ」

「うむ」

 部室に着いて、椎葉と挨拶をかわす。彼女はいつものようにノートに絵を描いていた。左手が忙しなく動いている。

 こんな私にも友人と呼べる人間が一人だけいた。それが同じ学年の、隣のクラスの、そして同じ部活の椎葉由佳里という女子生徒だ。

「何描いてるの?」

 問いながら、彼女の対面に座る。

「うむ」

 椎葉は簡素に答えつつも手を動かすのをやめない。勝手に見ろ、ということなのだろう。

 身を乗り出してノートをのぞき込む。裸の男が二人で、うん。

「破廉恥だ!」

 叫ぶ。彼女の手元にあるノートを強引に閉じさせた。顔に血が集まるのを感じて熱い。

 椎葉は「何するんだ」と言いたげな目で睨んでくる。もし塚本さんに同じ顔をされたら私は身を縮こませて押し黙るのだろうけど、椎葉にはそんな迫力はなくて、むしろ相手を挑発させるような何かがあった。

「こ、こういう絵は私の前では描かないで。いつも言ってるでしょ」

「そっちこそいい加減慣れろ。いつも言ってるだろう」

 しばらく睨み合うものの、お互いが譲らないことを悟ると「フンッ」と鼻を鳴らして休戦した。もっと離れた場所に座ろうにもこの部室には机と椅子がそれぞれ一脚ずつしかない。結局、喧嘩中の二人がすぐ傍にいるという奇妙な位置関係のままに状況は停滞した。

 私は文庫本を開いて読み始める。彼女が描いている卑猥な絵を視界に入れないようにするために、本の位置に気を遣いながら読まなければいけないから、どうにも集中できない。物語に没頭できないと雑念が浮かぶ。

 今日の休み時間に起こった出来事を思い出す。塚本さんは恋愛小説を読む私を馬鹿にした。あれは本当に失敗だった。「流行の小説を読んでいれば会話がはずんで仲良くなれるかも」なんて起こる可能性がほぼゼロに等しい奇跡のために、私の脆弱な心にいたずらに傷をつける必要なんてなかった。まだ私は憧れてしまっている。光に満ちた生き方をしたいと。この「ブツブツ」がある限りそんな未来はあり得ないのに。

 それにしても、この小説のストーリーはどうにも気に入らない。それも読書に集中できない理由の一つだった。

 平凡なはずのモテない主人公が何故か勤務先のイケメンな社長に気に入られ、それに焦ったこれまたイケメンな幼馴染が主人公に迫り、そこにまたまたイケメンの同僚が主人公争いに加わったりして、主人公がそのイケメン三人に振り回される、というストーリーだ。

 もしも小学生の頃の私がこの本を読んでいたら、主人公の揺れ動く感情に共感し、主人公が誰を選ぶのかにワクワクし、更にはもしも自分がイケメン三人に迫られたらどうしようか、などと妄想して小説を存分に楽しむことができたのだろう。だけど現実を知ってしまった私は、この物語をどうしても冷めた目線から眺めてしまう。こんなのあり得ない、と。

「イケメン三人に迫られたらどうする?」

「その三人がまぐわってるのを妄想してハァハァする」

「椎葉に訊いた私が愚かだったよ」

「また一つ賢くなれたな。おめでとう」

 彼女らしい返答に、私は喧嘩中なのも忘れて少しだけ笑みを漏らした。椎葉には見られたくないから本で顔を隠す。

 何というか、椎葉ほど第一印象と中身にずれのない人間はいないと思うのだ。自分というものを理解していて、貫いているように見える。だから接していて心地良い。

 彼女と初めて会ったのは、入学して間のない、まだ校庭に桜の残る春頃、体育の授業のときだった。私の学校では体育の授業は複数のクラスが合同で行うことになっている。

 授業の最初に行う準備体操で、柔軟運動の後の仕上げとして倒立をすることになっていたのだけど、そのときに教師が二人組になるよう指示をした。倒立する人の足を手で支えるためだ。

 その指示に私は焦った。時は四月の中旬。これから先の高校生活における人間関係の輪郭がうっすらと定まっていた頃だったから、このペア組みで仲良しグループとか派閥とか、そういったものが完結してしまうのだろうと直感的に思った。まわりにいる同級生達は、各々目星を付けていた人に声をかけているようだった。挨拶をかわす程度の仲のクラスメイトに自分から話しかける勇気など持ち合わせているはずもなく、次々とペアが誕生していくのを眺めながらクラスの人数が奇数であることをただただ恨んでいた。ペアと雑談をしている人達の姿が酷く眩しい。

 ふと、光から目を背けるように視線を横に向けると、同じように孤立している女子生徒がいた。ほぼ同じタイミングで、その生徒も私の方を向く。

 瞬間的に私達は理解し、納得し、そしてお互いの存在を承認し合った。そしてひたすら安堵した。お情けで教師とペアを組む、という恥をさらさなくて済んだこととか、自分に類似する存在を見つけることができたこととか、そういった自分を否定したくなるような緊張感から解放されたことに対する安心だった。

「私、椎葉由佳里」

「布津優里加」

 椎葉はお世辞にも快活そうな容姿はしていなかった。少し小太りの体型で、艶のないぼさぼさの髪に、洒落っ気のない眼鏡をかけた「いかにも」なオタク女子。声にも色気が無くて野太く、姿を見ずに声だけを聞いたら男だと勘違いしてしまうかもしれない。

「ねぇ」

 体育の授業が終わった後、教室に戻る途中で椎葉に声をかけられた。

「なに?」

「そばかす、すごいね」

「まぁね」

 不思議なことに、椎葉にそう言われても何故だか腹が立たなかった。それどころかこの人とは仲良くなれる気がした。嘲笑するわけでも、気を遣うわけでもない、ただ淡々と事実を指摘するような口調だったから、私のコンプレックスをただそこにある現実として、痛みを伴うことなく見つめることができたのだろう。そんな話し方をする人間と会うのは初めてだった。

「デブだね」

「殺すぞ」

 私は椎葉に首を絞められながら、何故かその瞬間に閃いたアイデアをうめき声とともに漏らした。

「部活、作ろう」

 その一言があって、私と椎葉が居心地良く過ごすためだけの部活である「文芸部」を創立した。部員は五人。内、名義だけの幽霊が三人。二年生に進級したときも勧誘活動はしなかった。そのために実際に活動しているのは私と椎葉だけという状況だったけど、それでも支障がないどころか好都合だった。

 蝉の声が遠くなっていた。右の頬に冷たい感触があって、それが机によるものだと気づくのに数秒を要した。どうやら眠ってしまっていたらしい。むくりと身を起こす。

「おはよう」

 椎葉は同じ姿勢でひたすらに絵を描いていた。何を描いているのかは見ない。ていうか見たくない。見たくないものが視界に入ってきても、私の眼が自動的にモザイクをかけて私を保護してくれるわけではないのだ。

「それ、つまんない?」

「まぁ。ちょっと私には合わないかな」

 読んでいる本がつまらないと、途中で寝てしまうのはいつものことだ。

 窓から夕日が差している。暖かな陽光が部屋の隅に置いてある観葉植物を照らしていた。ふと疑問に思ってリモコンを手に取ると、エアコンの温度が下げられていた。椎葉が、寝ている私が風邪を引かないように気を遣ってくれたのだろう。風向も私に直接当たらない向きになるよう調節されていた。

 礼を言うと、「うむ」といういつもの返事が返ってくる。

「今日はもう、帰ろうか」

「そうだな」

 ちょうど絵を描き終えたらしく、椎葉はノートを閉じて、息を吐き、肩に手を置いて揉みほぐす。

 部室の鍵を職員室に戻して校舎を出た。正門を抜けたところで椎葉と別れる。彼女の家は、私の住む家とは真逆の方向に位置していた。

「じゃあ」

「うん。また明日ね」

 自転車に乗って去っていく彼女の後ろ姿を見送って、私も帰路につく。空を青い闇が覆いつつあった。柔らかなオレンジ色が消えていくのは心もとない。

 椎葉と一緒にいると、他の人が当たり前にできることを私もできるんじゃないかと思えてしまう。昨日の面白かったテレビの話題で盛り上がったり、最近の流行のファッションについて情報交換したり、嫌いな先生の愚痴を言い合ったりして、部室で過ごすときのような自然な振る舞いを、明日の朝、教室でもできるんじゃないかと思ってしまう。そんな勘違いをしてしまうこの時間が、たまらなく嫌いだった。一人になると目を逸らさせてくれるものが何もないから、どうしたって現実が見えてくる。この感情を寂しさと呼ぶ人もいるのかもしれない。

 正門前の道路を自転車で直進し、途中で右折して大通りに出ると、左手に大きな病院が見える。以前インフルエンザに罹ったときにお世話になったところだ。通りの向かいにはマンションの予定地がある。今は基礎の部分を造っているらしい。結構な大きさのものが建てられるそうだ。この市にはそこそこ有名な大学があるために学生用のマンションが乱立しているし、土地さえ余ったら新しくマンションが建てられる。

 自宅を目指して大通りを進んでいると、前方に老婆の後ろ姿が見えた。両手に膨らんだ買い物袋を提げて、見ているこっちがハラハラするような不安定な足取りで歩道を歩いている。さっきスーパーの前を通り過ぎた。そこで買い物をしてきた帰りなのだろう。

 声をかけるかしばらく迷った。ペダルを漕ぐスピードをわざと遅くして、ゆっくりと歩くおばあさんの後ろ姿を眺める。腰が曲がっているせいか、背が低かった。足が細くて転んだだけでポッキリと折れてしまいそうなほど頼りない。おばあさんの横を何人かの人が通り過ぎるものの、声をかけようとする人はいなかった。

「おばあさん、大丈夫?」

 いくらか迷った後決断し、自転車を止めて声をかけると、頼りなさ気な瞳がこちらを向いた。

「いえ、その、はい」

 おばあさんは返答に迷っているようだった。白というより銀色の頭が困惑しているように揺れる。

「良かったら、荷物運んでいきますけど」

 私はかごに入れていた鞄を肩にかけ、その場所が空いたことをアピールする。だけどおばあさんはなかなか首を縦に振らない。遠慮とはまた少し違う、自分がこの場所に存在することに対して罪悪感を抱いているような態度だった。その姿が教室にいるときの自分の姿と重なる。私は半ば強引に、おばあさんの持っていた買い物袋を自転車のかごに押し込んだ。

 私は弱い人間だから、そんな自分より弱い人間を助けたいと思う。おばあさんの横を素通りしていく人達を薄情だとは思わない。彼らはきっと、道端に落ちている薄汚れた石ころをいちいち気に留めないだけなのだろう。いつも下ばかり見て歩いている私は、他の人よりも少しだけそれに気づきやすいだけだ。

 前のかごに買い物袋を入れた自転車を押すのには結構な力が必要だった。この重さを、ついさっきまで血管の浮き出た華奢な腕一本で支えていたと思うと絶望的な気持ちになる。

おばあさんの重荷を運びながら、私は彼女といくらか話をした。おばあさんは近くの一軒家で一人暮らしをしているらしい。普段は隣の県に住む娘が週末にやってきて一週間分の食料やら日用品やらを買ってきてくれるのだが、今週は仕事が忙しくて厳しいらしく、晴天の日である今日、暑さのやわらいだこの時間に買い出しに出たのだそうだ。そういえば、明日から三日間はぐずついた天気になるとテレビで言っていた。

「ほんとう、ごめんなさいねぇ」

 おばあさんは自分の家にたどり着くまで、何度も「ごめんなさい」と口にした。その度に私は「こちらこそごめんなさい」という思いになった。それほどの罪悪感を抱かせてしまうのならば、声をかけずに素通りした方が良かったのかもしれない。

 おばあさんの家は私の家からそう遠くないところにあった。木造家屋の一戸建て。玄関の引き戸にはめ込まれてるすりガラスが時代を感じさせる。

 おばあさんは家に上がってお茶でも飲むよう勧めてきたけど、あまり遅くなるのも母に悪いと思って遠慮した。

「助かったよう。ありがとうね」

 別れ際おばあさんは私の手をぎゅっと強く握り、顔にある皺をさらに深めて笑い、何度も何度もお礼を言った。とてもあたたかい手だ。夏の外気によるものとは質の異なる、神経に直接響くような熱は手と手を離した後もしばらく私の手に残る。

 自転車を駆って自宅への道を進む間、私はずっと自分の将来のことについて考えていた。私はあのおばあさんに自分の未来を見た。このまま孤独な人生を歩んでいったとき、私の終着点はそこなのではないか。いや、私の場合はもっと悲惨だ。夫も、友達も、親も息子も娘も孫もいない。誰にも看取られずに孤独な人生を終えるのだろうか。

 それは嫌だ。

 無意識の内に私の手は頬に伸びていた。不意にそれを毟り取りたい衝動に駆られて、黒い感情を払拭するようにペダルを漕いだ。



 次の日、目を覚ますと頬にキリトリ線ができていた。

 自分でも意味不明なことを言っていると思う。だけど現実に起こった現象を説明するのに、これ以上の言葉はない。

「なに、これ」

 両頬のそばかす地帯をぐるりと囲むように、黒いインクのようなもので書かれたごく小さな長方形が等間隔で並んでいる。そして、その長方形の間に一箇所だけはさみのマークがあった。未開封のふりかけなんかによく印刷されている、日常生活でよく目にするものだ。この黒い点線が何を使って引かれているのかは分からないが、何度顔を洗っても全く落ちないところを見ると水性ではないらしい。

 そもそもこれは人の手によって引かれたものなのだろうか。鏡を見ながら確かめると、まるで印刷によって引かれたかのようにブレなく真っ直ぐ引かれている。他人の顔にいたずら書きをした際に滲み出る、人の手が加えられた感じが全くない。

 ネットで調べてみても有効な解決策は見当たらなかった。油性マジックの落とし方を試してみても効果はない。キリトリ線の模様をしたタトゥーシールなるものがあるらしいがそんなものを買った覚えはないし、この商品は直線のものしかない。もし私の頬にそのシールで円を描こうとするならば、こんな滑らかな曲線にはならないだろう。

 仮に何らかの方法で私の顔に線を引けたとしても、一体誰がそれをなすというのだろう。私の家は父母と私の三人暮らし。父は市役所職員、母は小学校教師と、エンターテイメントとは程遠い職業に就いていて、性格も至って真面目。あの二人が私の顔にイタズラ書きをする姿はちょっと想像できない。

 もう一度顔を洗ってみるものの黒い線はかすれもしない。

 結論。これは落ちない。

 朝起きて最初に鏡を見たとき、頬のキリトリ線を見て焦りを覚えた。だけど同時に、「何とかなるだろう」という根拠のない願望混じりの漠然とした感情もあった。だけど今、「どうにもならない」という現実が突然目の前に現れた。

「ど、どうしよう」

 部屋の中を右往左往。動悸がする。呼吸が早くなる。冷や汗をかく。塚本さんの声を思い出した。あの三人はこの顔を見て腹を抱えて笑うだろう。クラス中に言いふらして、私は全員の注目の的になるのだろう。全員が私をチラチラと見ながら、口に笑いを含ませて馬鹿にするのだろう。そんな場面を想像しただけで気を失いそうになる。私は注目されるのが嫌いなのだ。

 学校を休んでしまおうか。

 ふと思い浮かんだその考えは酷く魅力的に思えた。問題を先延ばしにしているだけだとは分かっている。だけど、両親が留守の間にあれこれ手を尽くしたらキリトリ線を消せるかもしれないし、ひょっとすると明日の朝起きてみたら、何事もなかったかのように消失してしまった、なんて事態も起こり得る気がした。突然現れた現象は、消え去るのも突然だと思いたかった。

 私は腹を決め、マスクを装着して一階へと降りた。マスクは頬までを覆う大きめのサイズだ。風邪を引いたとき、それにかこつけてそばかすを隠せるようにと予め買っておいて良かったと思う。

 リビングにいる両親と挨拶をかわし、どうやら風邪を引いたらしいと告げる。無論嘘だ。足取りを意識してもたつかせ、気だるげな声を漏らし、いかにも辛そうな表情を見せる。仮病の演技をすることに苦労はない。普段から憂鬱そうな表情をすることが多いからなのか、苦悩の表情を浮かべるとき限定で、自分の思った通りに顔の筋肉を動かすことができる。あまり自慢できる特技ではない。

「ほらぁ。夜更かしばっかりしてるからそうなるのよ」

 母は「それ見たことか」という顔で、これを好機とばかりに説教を始めた。私は小説を一度読み始めると一気に読んでしまわないと気が済まない性格らしく、気がつくと深夜三時、四時ということが多々あって、そのことを日頃から母に注意されていた。

「熱はないみたいね」

 母が体温計を見ながら言う。当たり前と言えば当たり前のことなのだけど、私は少なからずがっかりした。具合の悪い演技をしたせいで本当に具合が悪くなってくれていればそれが一番良かったのに。

「どう? 学校行けそう?」

 私はその質問にあえて答えないでおいた。素直に「ちょっと厳しい」と言うよりも、「行けない」というメッセージが強く伝わるだろうという判断だった。

「念のために休ませた方が良いかしら」

 その一言に胸の内でひそかに喜ぶものの、

「熱がないんなら行かせろ」

 今まで沈黙を保っていた父が新聞に目を通しながらそう言うと、私の気持ちはズンと沈んだ。母もそれに同調し、結局私の目論見は「熱がなければ大丈夫理論」の前に砕け散ることになった。二人とも超がつくほどの真面目人間なのだ。

 結局私は大きなマスクで顔の大半を覆いながら家を出た。風邪が酷くなったらすぐに先生に言いなさいと指示されたけど、きっとそんなことにはならないだろう。

 学校までの道のりではいつも以上に人目を気にしなければならなかった。キリトリ線の黒いラインが外から見えてしまわないように、何度もマスクの位置を確認してかけなおし、できるだけ俯きながら自転車を漕いだ。誰かの笑い声が聞こえる度に自分の方を指差していないかを確認し、自分とは無関係に生み出された笑いであることを把握して安堵した。

 頬にキリトリ線を引っつけたまま教室で過ごす精神的負荷は想像を遥かに超える。マスクでしっかりと隠しているのだから頬が露見するはずはない。頭では理解している。だけど、「実は皆反応していないだけで、心の中では私を馬鹿にしている」という妄想は理性を超えて私を萎縮させた。高鳴る心臓を静めようといつも通りを装うものの、それは不可能だと悟る。努めていつも通りにしようとしている時点でいつも通りではない。

 状況が変わったのは三時限後の休み時間からであった。

「ブッツー風邪引いたの? 大丈夫?」

 授業が終わってすぐ、塚本さん達が話しかけてきた。彼女らの放った言葉の表面は滑らかで舌触りは良い。だけど声のトーンや表情が、心をジワリとジワリと締め付けてくる。

「うん。大したことないよ」

 言葉を放った後、意外そうな顔をしている三人組以上に、私自身が一番驚いた。たとえ悪意に満ちていたセリフであっても、彼女らの質問に対してあの私が普通に、極めて普通に受け答えすることができたのだ。声が上擦ることも顔が強張ることもなく、塚本さんの目を視界の中央に捉えながら喉を震わせた。初めての経験だった。そして、こんなものなのかとも思った。初めて自転車に乗れたときの感覚と似ている。

「そ、それなら良いんだけどさ」

 彼女達は毒気を抜かれたようで、それ以上私に言葉を浴びせることなく去っていった。私は自分の席に座ったまま考える。そして、自分が何故変化したのか原因を突き止めた。

 私は無意識の内に気づいたのだろう。自分が思っているほど、他者は他者のことを気にしない。マスクに包まれている、つまりは自分の弱さを隠せているという状況の安心感ももちろん原因の一つだろう。だけどそれ以上に、始業から今までの時間を頬に特異なものを引っつけて過ごしても誰にも気づかれず、平穏に過ごすことができたという事実が私の背中を押した。そもそも、私を表立っていじるのはあの三人だけだ。もともと存在感のある方ではない。その他大多数のクラスメイトにとって、私がマスクをしているかどうかなんて微塵も興味の湧かない事実なのだろう。そう思うと、心が軽くなるのを感じた。

 とはいえ三人組が私からマスクを剥がすような遊びを始めたら困るから、咳をするフリを何度かやった。さすがの塚本さんでも、風邪の菌を移されたくはないだろう。

 そんなわけで教室での日常を平穏に過ごした私は、今日は部活に行かず真っ直ぐに家に帰ることにした。窓の外で雲が物々しい音を立てる。今日は夕方から雷雨だと言っていたのに、傘を忘れてしまったのだ。頬にできたキリトリ線をどうするか考えるのに脳の容量全てを費やしていたから、玄関に立てかけていた傘に手を触れずに家を出てしまった。

 今にも雨が降り出しそうな気配の中、正門から校舎外へ。文芸部に決まった活動日はなく、気が向いたら部室に行くというスタイルを採用しているために連絡なく休んでも問題はない。椎葉はほぼ毎日あの部室でペンを動かしているらしいけど、私が部室に行くのは週に三回ほどだ。

「お前は良いよな。小説、どこでも読めるから」

 椎葉がそう言ったのは、部室で休み時間の過ごし方について話していたときだった。私がほとんど文庫本を読んで過ごしていると言ったときに、彼女はそう返した。

 椎葉も好きなことやれば良いじゃん。

 私はそう言ったのだけど、椎葉はため息をつきながら「そうはいかない」とこぼした。

「クラスのやつらが周りにいるところで、絵は描けないんだよ。さすがに恥ずかしいし、見られたくない」

 その気持ちは理解できた。だけど意外だった。椎葉だったら、周囲の視線なんか気にせずに絵描きに没頭するんじゃないかと勝手に思っていたし、事実彼女にはそう思わせる強さがあった。

「とにかく、自由に絵を描ける環境ってのは貴重なのさ」

 そう呟く椎葉の瞳に迷いはなかった。漫画家かイラストレーターか。何でも良いけど、とにかく絵を描く仕事に携わりたいんだと彼女は口癖のように言う。たとえ今は日陰の青春を送っていたとしても、見据える将来に光があるのならば、それでも良いんじゃないか。椎葉がノートにペンを走らせる姿を見ていると強く思う。

 思い出に浸っていた脳を、鼻先に当たった冷たい感覚が覚醒させた。私がヤバイと思うよりも早く、鈍色の重苦しい空から雫がしたたり落ちてくる。雨足はどんどん強まり、私の身体を急激に冷やしていった。

 ペダルをいつもの倍速で漕ぎながら、雨宿りできそうな場所を探す。私はちょうど、正門に続く直線の道路の、下校時に右折する地点にいた。運が良い。病院の建物の大きな影が見える。あそこで一旦雨宿りさせてもらおう。私がそう決めたときだった。

 今私がいる道路の先。一戸建て住宅が建ち並ぶ住宅街の奥まった場所に、鮮やかなオレンジ色の屋根をした建物が一棟見える。周囲の建物の屋根には黒い瓦が敷いてあったためにひときわ目立って見えた。連想する。夕方と夜の境目。夜に呑まれない夕日。

 私は誘われるように、その建物を目指していた。右折して病院の入り口を目指すよりも、直進してその建物に飛び込んだ方が早そうだった。ペダルを踏む足に力をこめる。

 木製のドアに、落ち着いた色の外壁。その上にオレンジ色の三角屋根が乗っかっている。外壁には数カ所窓があるけど、カーテンが閉められていて中の様子は見えない。ドアの左上に、「crepus」と書かれたプレートが掲げてある。喫茶店、なのだろうか。

 不思議な店だと思った。私は下校の度にあの道を通り、あの角を右に曲がる。何度も何度も。そしてあの人目を引く派手な色の屋根。それなのに、私はこの店の存在をあまり意識していなかった。だけど確かに記憶にはあった。こんな店があると、ぼんやりと認識していた。そして今。理由は分からないけど、かかっていた靄が取り払われたかのようにこの店の存在を急激に意識している。何度もこの店に来たことがあるかのような親近感を覚える。当然、ここに来るのは初めてだ。

 ドアを開けると、カランと軽い音が鳴った。

 まず目についたのは、折り畳み式の看板だった。入店した直後に客の目の前に突然現れるような場所に置かれていて、白いチョークで「不要なものお切り致します」と綺麗な字で書かれている。

「いらっしゃいませ」

 急に声をかけられて心臓が跳ねる。看板の向こう側にカウンターがあって、若い女性が座っていた。目が合うとにっこりと微笑みかけてくる。

「あの、すいません。私喫茶店だと思って入って来ちゃったんですけど」

 言葉をそこで切って、店内を見渡す。受付に向かって左側の端にソファをそのまま縮小させたような形の椅子が一脚あって、椅子の前の壁には大きな鏡が一枚取り付けられていた。椅子の後ろにはシャンプーチェアが配置されている。受付に向かって右側はカーテンによって仕切られていて、その先の光景は見えなかった。

「ここって、美容室なんですか?」

 美容室には、もっと開放的なイメージがあった。ガラス張りで、外界の光が店舗の中に入り込んで、外から中の様子が見える。スタイリストが数人いて、店内も広い。そういった店が多いはずだし、私が定期的に通っているところもそうだ。

 しかしここは、そんな一般的なイメージとは真逆の装いをしていた。締め切ったカーテンに薄暗い照明。スタッフも現状カウンターに座っている女性しか確認できないし、店内はお世辞にも広いとは言えず、圧迫感さえ覚える。空気も少し澱んでいるようだった。

 不可解そうな表情から私の意図を読み取ったのか、女性は微笑みを湛えたまま「そのようなものです」となんとも微妙な返答をする。

 スタッフがそう言うのならば、そうなのだろう。深く考える必要のないことだ。

「すみません。少し雨宿りをさせていただきたいんですけど」

 窓を閉めているために微かではあるけど、外から雨音が聞こえる。美容室で雨宿りというのも奇妙な気がするが、雨が弱くなるまで、あるいは親が家に帰ってくる時間になるまで、室内にいさせてほしかった。雨が弱くなったら自転車で帰れば良いし、雨が止みそうになかったら親に迎えに来てもらえば良い。

 私の頼みを、女性は相変わらずの微笑のまま快諾した。左端に一脚だけある椅子を勧められ、彼女はタオルケットを差し出してきたので、それにくるまりながらソファの形をした椅子に腰を落ち着かせる。鏡にマスクとタオルケットに包まれた私が映り、その背後に彼女が立つ。濃紺のエプロンの、前の紐に名札があり、彼女の名前が加藤であると判明した。

「ごめんなさいね。他に座る場所がなくて」

 加藤さんは謝るときでさえも微笑みを崩さない。薄暗い店内には似つかわしくない、華やかで綺麗な女性だった。

「今コーヒー入れてきますから。少し待っててくださいね」

 おかまいなくと言う暇もなく、加藤さんは仕切り用のカーテンの向こう側へ消えてしまった。喫茶店と間違えて入った挙句、さらにはコーヒーまで頂くのはさすがに忍びない。

 しばらくして、加藤さんはカーテンの奥から出てきた。両手に持つカップを鏡の前にある円形のテーブルに置く。

「砂糖とミルクはどうします?」

「あ、結構です。あの、すみません」

「いいんですよ。お客さんが来なくて暇してましたから」

 受付の椅子を持ってきて、彼女は長い脚を綺麗に折りたたみながらそこに座った。コーヒーカップから湯気が立ち上っている。私は自分の前に置かれたそれを両手で包み込むように持ち、雨で冷えた指先に熱を与えた。夏場とはいえ、全身に水を浴びることは体を冷やす。

 加藤さんはカップを傾けながら、何事かを思索するように瞳を閉じていた。睫毛が長い。鼻が高い。艶のある黒い髪は重力に従って肩までストンと落ちていて、揺れる度にサラサラという音が聞こえてきそうだった。

 モテるんだろうなと思った。整った容姿ももちろんそうなのだけど、加藤さんにはそれ以上に彼女のことをもっと知りたいと思わせる何かがあって、そのミステリアスな雰囲気が彼女の一番の魅力だと思った。

「あの」

 少し躊躇って声をかけた。加藤さんはゆっくりと瞳を開く。彼女の目に、私という人間はどう映っているのだろう。

「入口にある看板のことなんですけど。あれって、どういう意味なんですか?」

 少し気になっていた。不要なものお切り致します。普通に考えれば長くなり過ぎた髪の毛のことだろう。だけど、あの一文を常識に則って解釈することは何故か躊躇われた。加藤さんは「そのままの意味ですよ」と答える。

「不要なものっていうのは、髪の毛のことですよね?」

 そう問うと、加藤さんは小さく微笑んで、首を横にゆっくりと振った。

「厳密に言えば、髪の毛に限りません」

 カップを一度テーブルに置いて、私を、いや、私の顔を見つめながら、語りかけるように続ける。その微笑に私は不気味なものを感じた。

「お客様が不要と申されるものでしたら、何でも。毛髪、脳、神経、顔、首、肩、腕、手、胸、胴、太腿、脚。あるいは心、なんてのも可能かもしれませんね」

 加藤さんはクスクスと笑う。何故そんな台詞を吐きながら笑えるのだろう。ついさっきまで彼女に感じていた美しさを、途端に畏怖の対象として捉えなおす。体温が急激に下がった。そういえば、まだコーヒーに口をつけていない。でも、もう一滴たりとも飲む気にはなれなかった。

「優里加さんにも、あるのでしょう?」

 加藤さんの細くて白い手がマスクの上から私の頬を撫でる。身体が硬直して、動かすことができない。どうして私の、それも下の名前を知っているのだろう。彼女が相変わらずゆっくりとした動きでマスクを外す。自分の見られたくないものを見られようとしているのに、何故か抵抗することができなかった。

「ほら。やっぱり」

 鏡に映る、頬にプリントされたキリトリ線。私は自分の頬にどうしてこんなものができたのかを理解し始めていた。

「これが兆候です。条件は二つ。強く望むことと、その後の人生を具体的に想像すること」

 私は思い出していた。トイレに逃げこんで涙をこらえた日々。あの三人に嘲笑され、教室の隅で小さくなっていた自分の姿。こんなもの、何度もなくなってしまえば良いと思った。これさえなければ、私はもっと光の照る道を歩めるはずだと信じていた。それが跡形もなく消え去ってくれるのであれば、それほど嬉しいことはない。

 でも。踏ん切りがつかない。私の葛藤を見透かしたかのようなタイミングで、加藤さんは言葉を紡ぐ。

「痛みや出血の心配は無用です。麻酔を使う必要さえありませんし、血は一滴も流れません。キリトリ線は、そこで切るためのものです。その線に沿ってハサミを入れれば、おそらく切られたことにも気づかないでしょうね」

 彼女の言葉は魔法のようだった。さっきまで抱いていた私の不安を、最初からなかったかのように一つずつ打ち消していく。

「また、切られた後の皮膚についても心配ありませんよ。この店には多くの人が切り落としていった身体の部位がストックされています。あなたの頬を切った後、年齢、性別、肌の色を考慮して最も自然なものを貼りつけましょう」

「そんなこともできるんですか?」

「ええ。キリトリ線とはそういうものです。切り取った後の線と線を再度繋ぐことができます。ただストックしている部位の数は無数というわけではないので、多少の違和感が残る可能性もありますけれど」

 加藤さんが私の肌を一瞥する。

「優里さんの肌に合った部位はストックされていたはずです。問題ないでしょう」

 彼女は余裕の笑みを浮かべている。こちらが困惑することを見越しての対応だろう。

 現実感のない話だった。新手の詐欺なのではないかと疑う。そんな魔法のようなことが、果たして本当に可能だろうか。普通に考えれば不可能だ。でもこの店において通常の思考は役に立たない気がした。現実から一歩踏み出した現象ならもう既に起こっているじゃないか。今朝、考え得る全ての手段を尽くしても、頬のキリトリ線は消えなかった。

 今日一日は何とかなった。だけど、これから毎日マスクをつけて学校に行くわけにはいかない。どのみち、この頬のキリトリ線はどうにかしなければならない。

「私が切りたいと言ったら、頬のそばかすを切ってくれるんですか?」

 加藤さんは笑う。ついさっきまで薄気味悪く感じていた彼女の笑顔に、今は安心感を覚えた。

「お客様が、そう望むのであれば」

 私は、あのカーテンの先にある部屋に通された。白いシーツの敷いてあるベッドに寝かされ、睡眠薬を飲むよう指示される。

「痛みも出血もないのでそのままやっても良いんですけど、自分の肉片が切り離されている様子を見たくはないでしょう?」

 加藤さんはそう説明した。

「あの、本当に同意書とか要らないんですか?」

 今の私に不安があるとすればそれだけだ。高額な料金を請求されるのではないかという懸念は、聞かされた金額が決して安くはないが、高校生のお小遣いで何とか賄える額だったことで既に解決している。

 うろ覚えの知識だけど、確か外科手術をする際には本人の同意書が必要だったはず。私は未成年なのだから、両親の同意書なんかも必要になるのかもしれない。血や痛みがないといっても、身体にメスを入れるのだ。これは外科手術に準ずるものではないのだろうか。

「大丈夫ですよ。これは長くなった髪を切ることと、何ら変わりませんから」

 それを聞いて、私は心を決める。

 薬を飲んで数十分後、眠気が襲ってきた。瞼が重くなり、意識が遠のく。現実から浮遊する感覚が全身を包む。

「睡眠薬の効き目はおそらく二時間ほどです。目が覚めたら、あなたの不要な部分は綺麗に消えているでしょう」

 その言葉を聞いたのを最後に、私の意識は暗闇へとのまれていく。

 眠っている間に、夢を見た。私は夢の中では別の人格を持った人間で「布津優里加」ではない名前を持っていた。夢の中の私は現実のインドアな私とは打って変わって社交的で、友達も多く、体を動かすことが何よりも好きな女の子だった。具体的にどんな部活かは分からないけれど、とにかく運動部に入っていた。

 多くの友達に囲まれて、大好きなことに打ち込める。現実の私が欲しかったものをすべて持っている、幸せな人生。それなのに、夢の中の私も悩みを抱えていた。

 それは、肌が白くて極端に日光に弱いこと。友人の女の子達は皆、肌が綺麗で羨ましいと口をそろえて言う。それはクリーム等でどれだけケアをしても紫外線を防ぎきれず、太陽の下で運動をした後の肌の痛みを知らないから言える言葉だった。肌が火で炙ったかのように赤く焼け、その状態でお風呂に入るのは本当に苦痛だった。

 もっと肌が黒ければ良かったのに。何度も思った。もしそうだったならば、何の憂慮もなく、炎天下の中何時間だって走り回れるのに。叶わないとしても、強く願った。自分のこの弱い肌を、守るのではなく切り捨てたいと。

 その願いに思いを馳せた所で夢が終わった。現実と夢の狭間でまどろむ。自分の記憶を順に辿り、ここがどこで、自分が誰なのかを確認する。

「おはようございます、優里加さん。気分はいかがですか?」

 加藤さんが私の顔を覗き込む。ベッドの上に寝かされた状態。顔に痛みはない。身体に違和感もない。体感的には眠りに落ちる前の状態と何ら変わりない。

「平気です。成功したんですか?」

「ええ。問題なく終了しました」

 加藤さんは、私に鏡の前に行くよう促す。カーテンを抜けてその前に立つと、自分の顔が映った。

「これが、私」

 大げさではなく、生まれ変わったような気分だった。塚本さんの馬鹿にするような声が脳内で響くこともない。

 今までそばかすがあった場所に色がない。白紙のようになった肌がそこにあった。キリトリ線は消えている。当然だろう。私はこの肌を捨てたいとは微塵も思っていない。肌の色も特に違和感がなく、まるでキリトリ線とブツブツだけを魔法で消し去ったように見えた。

「ありがとうございます!」

 これで、他の人と同種の人間になれたような気がした。これからは、誰かと会話するときに自分のコンプレックスを意識する必要もなく、自らを卑下せずに済む。今日塚本さんと当たり前のように接することができたような奇跡がこれから毎日続くのだ。そう思うと、これからの人生に光があるように思えてくる。日向の道を堂々と歩くことができる。憧れを捨てなくても良い。

 加藤さんに何度も礼を言って店を出た。スマホを取り出して確認すると時刻は十九時を回っていた。雨は小降りだ。親を呼んで迎えに来てもらっても良い。だけど、私は無性に外の世界を眺めたくなって自転車で帰ることにした。

「ここ、病院の裏手にあるんだ」

 つい、ひとりごとを呟いてしまう。身体を動かしていないと気分が落ち着かない。興奮でペダルを漕ぐスピードが上がり、汗をかくのが心地良い。熱くなる身体は雨が冷やしてくれる。初めての感覚だった。

 毎日見ているはずの景色なのに、光景を形作る要素一つ一つが新鮮で輝いて見える。自転車に乗るときはいつも俯いて運転していたからだろうか。夜に染まる雨雲も、大通りを照らす灯も、住宅から漏れる光も、全てが何かを讃えているように感じた。

 自宅に着いて自転車を止めながら、そういえばと思う。睡眠薬の効用で寝ていたとき、私は夢を見ていた。その事実はしっかりと覚えているのに、夢の内容が思い出せない。もどかしいけれど、仕方ない。夢とはそういうものだ。

 納得して、私は自宅の玄関のドアを開けた。



 学校に行くのが楽しみだと思ったのは、高校生活が始まって以来、今日が初めてだった。私が教室に着くのは、いつも朝のホームルームが始まる直前だった。教室で過ごす時間が少なければ、あの三人に絡まれる可能性も下がるだろうという配慮。それももはや必要ない。始業時刻より三十分ほど早めに学校に着く。

「おはよう!」

 教室を開けて入ってきたのが私だと認めると、既に教室にいた数人のクラスメイトは困惑した様子で挨拶を返した。不審なものを見るような表情だ。それをさらりと受け流して自分の席へ行き、栞を挟んでいたところから文庫本を開く。ストーリーが盛り上がってきたところで読むのを中断していたから、一刻も早く続きを読みたかった。

 今読んでいるのは、変人だけど凄腕の天才医師がろくに設備のない飛行機や船の上、あるいは地震や台風等自然災害の渦中といった極限的な状況の中で、天才的な技術と発想で人々の命を救っていくという物語だ。どんな逆境においても決して諦めず、命を救う手段を模索する主人公の姿に胸が熱くなり、人の命を救うことの尊さを知る。ハラハラしながら次のページを捲ろうとしたときだった。

「ブッツーおっはよ」

 聞き慣れた声がした。私は読書を邪魔されたことに少しだけ腹を立てるが、そんなことは微塵も感じさせないような余裕の微笑を浮かべて、自分の頬を見せつけるようにしながら、しっかりと彼女の顔を見つめた。

「おはよう。塚本さん」

 イメージしたのは加藤さんだった。自分が彼女のような大人の女性になった心持ちで、ありったけの包容力を塚本さんに向けてみる。

 彼女は私と目が合うと、戸惑いで瞳の中を揺らした。意外なことに塚本さんは一重だった。そのことに初めて気づく。アイプチ等を駆使して、何が何でも二重瞼を作るような人間性だと勝手に思っていたから、その事実は小さな衝撃だった。

「おはよう……」

 力なく口から挨拶をこぼすと、それ以上追求せずに彼女はすごすごと去っていった。取り巻き二人もその背中を追う。彼女の髪は黒い。それも意外だった。金色か、あるいは明るめの茶色に染めているのだろうという偏見があった。私はどうやら、塚本香奈枝という人物を直視していなかったらしい。脳内で構築された彼女の人間性には、私の偏見に満ちた解釈がノイズのように入り込んでいる。

 それから数日間、三人組はどうにかして私を馬鹿にしようと尽力したけれど、私はそれに対して加藤流微笑術を活用することでことごとく受け流した。私の頬に、もはやブツブツはない。それどころか、もともとの肌の白さも相まって私の身体のパーツで唯一誇れるものとなっていた。彼女らは以前通り「ブッツー」と呼ぼうとするも、頬を見せつけると口ごもる。整形人間だと罵られるも、化粧みたいなものだと余裕の笑みを見せたらそれ以上の言葉はなかった。本当は否定したかったけど、反論したら彼女らを喜ばせるだけだと判断して我慢した。そういったやり取りが数回。三人組はとうとう諦めたらしく、私に近づいてくることもなくなった。

 平穏な日々が過ぎた。教室や図書館で本を読み、部室で椎葉と過ごした。彼女は私の頬からそばかすが消えたことに対して、特に目立ったリアクションはなかった。どう思っているのか聞いてみても、「別に」としか言わない。両親も「綺麗になって良かったね」程度の反応だったから、そんなものなんだろうと思う。頬にそばかすがあるかどうかなんて、本人以外の人間にとってはどうでも良いことだ。

「布津さん。ちょっと訊きたいことがあるんだけど、良いかな?」

 挨拶を交わす程度の仲だったクラスの女子生徒から声をかけられたのは、一学期の期末テストが近づいてきた頃だった。その頃には、私にも教室で会話する生徒が数人できていたために、声をかけられること自体はそう珍しいことでもなかった。

「なに?」

「えっとね」

 女子生徒は周囲に聞こえないように声のボリュームを下げる。

「魔法が使える美容整形の医師を知ってるって本当?」

 その質問に少し困惑する。私がたった一日で頬のそばかすを消したことが、塚本さん達が騒ぎ立てたこともあって、同学年の女子達の間でちょっとした話題となっていた。女性ならば誰だってコンプレックスの一つや二つあるものだ。あれを美容整形と呼ぶことには違和感がある。だけど、あの行為を美容整形以外の言葉で表現することは困難だった。

「本当と言えば本当なのかな?」

 他の人が私に気を遣ってくれていたのかどうか定かではないが、私がそばかすを切除してそれなりの時間が経っていたというのに、こうやって美容整形の話を直接尋ねてきたのはこの生徒が初めてだった。

「じゃあさじゃあさ! その美容外科紹介してくれない?」

 噂には尾ひれがつくものだと実感した。手軽に、傷痕なく、短時間で整形できると聞けば、その情報に興味を持つのは当然だろう。

 私は彼女に店の場所を教えた。最初は店名でネットを調べるよう促したのだけど、あの店の情報はどこにも載っていなかった。加藤さんに口止めされていたわけではないので構わないだろう。そう思ったけど、あの店にはどこか人目をはばかりたいという意志のようなものがある気がして少しだけ後悔した。

 このことがきっかけで、私のところに「魔法のような美容整形」の話を訊くために人が訪れるようになったけど、その中で実際に施術を受けられた人はごくわずかだった。どうやら加藤さんはかなり客を選別しているらしい。

「いつ行っても店が閉まってるの」

 施術を受けられなかった人は皆口を揃えてそう言う。

推測する。彼女に部位を切ってもらうためには、その部位にキリトリ線ができていることが絶対条件だ。もしかするとそれは鍵のようなもので、身体にキリトリ線ができて初めて、あの店のドアが開くのかもしれない。条件は二つ。強く望むことと、その後の人生を具体的に想像すること。加藤さんの言葉を思い出す。

「布津……さん」

 驚いたのは、店の情報を訊きに来た人の中に、塚本さんがいたことだった。彼女に蔑称ではなく名前で呼ばれたのは初めてのことだ。

「何?」

「えと、その。美容整形の話を詳しく聞きたくて」

 逡巡しながらも、彼女は自分の感情を私に伝えた。都合の良い人間だなと思わないでもない。だけど、塚本さんも私と同じように弱さを抱えている。自分の身体を切り捨てたくなるほどの激情と痛みを私は知っている。許すわけでもない。だけど、過去の痛みはキリトリ線と一緒に頬から削ぎ落ちている。

「ありがとう……それと、ごめんなさい」

 そのごめんなさいが何に向けられているのかは瞬時にわかった。

 店の場所を教えた数日後に、塚本さんは私に再度お礼を言った。その目は切って貼ったものとは思えないほど自然で、綺麗な二重瞼になっていた。

 店の情報のためとはいえ人と多く触れ合うと、当然その中で親交が生まれたりもする。ずっと憧れていた、男二人女二人の仲良しグループを結成し、私もその一員になることができた。一緒に昼ごはんを食べ、学校の帰りにはファストフード店に寄って何時間もお喋りし、テストが近づいたらテスト勉強の名目で誰かの家に集まっては結局遊んでばかりで一日が終わる。小学生の頃夢見た光景を、私は今現実として謳歌していた。

 一方で、椎葉との仲はだんだん希薄になっていった。以前は週に三回は部活に行っていったけど、二回、一回と減っていき、期末テストが終わった頃にはもうほとんど行かなくなっていた。あの部室の空気は私に馴染まなくなっている。友達が体験した恋の話とか、今人気の俳優とか、そういった話題で盛り上がる方が一人で読書することなんかよりも何十倍も楽しいと気づいた。結局、私にとって小説を読むということは、現実から逃避するためのツールに過ぎなかったのだ。現実を楽しむことができるようになった私にはもう必要ない。

 以前は、椎葉と廊下なんかですれ違ったとき、どちらからともなく話しかけて雑談をした。だけど今はそうなったとしても、私は気まずくなって目を逸らし、それに対して椎葉は何のリアクションも示さない。無言で、赤の他人のように、すれ違うだけ。椎葉と一緒にいるところを仲良しグループの友人に見られるのは恥ずかしかった。

 夏休みに入り、私は生まれて初めて男の子に告白された。仲良しグループの男二人。その内の一人で、眼鏡が似合う、知的な雰囲気を持つ男子生徒だ。名前を有崎雄介といった。

 いつもの四人で花火大会に行った後の帰り道で、有崎くんに私のことが好きだと伝えられた。私は彼に好印象こそ持っていたものの、そういう目で見たことはなかったから、それを正直に伝えた。

「じゃあ、まだチャンスはあるってことだね」

 それを聞いて、私は彼のことが好きなんじゃないかと思った。今まで恋愛というものを経験してこなかったから、恋というものが分からない。有崎くんが私を好きだと言ってくれたから、私も彼が好きなのではないかと疑ってみた。そうであるような気もしたし、そうじゃないような気もした。

 それから二回彼と二人で出かけ、最終的には付き合うことにした。グループ内の女友達に相談したところ、とりあえず付き合ってみればと言われたため、そのアドバイスに従うことにする。小説の中に描かれていた、燃え上がるような恋に憧れていた。現実の恋もそういうものだと思っていたけど、それは違うのではないか。現実の恋はきっとぬるま湯のような心地よさで、何となく進んでいくものなのだろう。

 交際は順調だったけど、一つだけ問題があった。有崎くんは付き合い始めてからというものの、事あるごとに身体を求めてきた。

「おーけーしてくれたってことは、そういうことでしょ?」

 彼は言う。私は少しだけがっかりした。他の男子とは違って理知的で、その場の空気に流されないところを気に入っていたのに。そういう部分は他の男子と変わらないんだなぁという確認と落胆。私はそういう経験もなく、また今度ねとかわし続けた。そういう行為はもっと神聖なものだと思っていた。高校二年生の子供がすべきことではないと思っていた。

 夏休みの中盤。抱える悩みを相談するために、久しぶりに部室へ行こうと思い立つ。グループの女の子に相談しても、「深く考えずにヤッちゃえばイイじゃん」と答えるのは目に見えていたので、椎葉に話を聞いてもらおうと思ったのだ。彼女ならばきっと違う答えをくれる。私が抱えるモヤモヤを晴らしてくれる。

 部室には、いつものように手を動かす椎葉の姿があった。夏休みだというのに他に行くところはないのだろうか。もっと友達と遊んだり、彼氏を作ったりすれば良いのに。

「久しぶり」

「うむ」

 対面の席に座って、文庫本を開く。最初から十数ページのところに栞がはさんであった。今話題のドラマの原作本で、皆との話題作りのためにいつも持ち歩いてはいたのだけど、はっきり言ってストーリーはありきたりだし文章も三流だしで、到底続きを読もうという気になれなかった。いつも鞄のスペースだけを無駄に消費している。

「あのさー、椎葉」

「ん?」

「私彼氏できたんだけどさ」

「ほう」

「とにかくヤろうとする男なんだよね」

「ふーん」

「どうしたらいいかな?」

「どうしたもこうしたも、ヤれば良いだろ」

「……ちょっと。私真面目に話してるんだけど」

 返事はない。会話をしていても、手ごたえがない。椎葉がまともに取り合おうとしていないのが分かる。もう少し親身になって聞いてくれても良いじゃないか。私は椎葉に腹を立てた。もう口をきいてやるものか。

 無言の時間が流れる。私は小説を読むフリをしながらページだけをめくっていた。紙が擦れる音と、ノートに筆を走らせる音に、エアコンの機動音。あと蝉の声。それだけが部屋にこだまする。一年の頃からそうだった。部室に一緒にいても、二人とも無言でいることの方が多い。それでも、空気は肌に馴染み、気まずいと思うことはなかった。今は違う。部屋全体が、異物を体内から吐き出すように、私を圧迫していた。悪い物を食べたときのように、身体の消化器系が不具合を起こしている。

「なぁ」

 椎葉が呼ぶ。この部屋にいるのは彼女の他に私だけだから、必然的にその対象は私ということになる。聞こえないフリをしたら、椎葉がもう一度私に声をかけることはなく、誰に向かってでもなく話し始めた。

「有崎雄介だろう? 彼氏の名前」

 私は答えない。

「あいつはやめとけ。良い噂を聞かない」

 その言葉に、ついカッとなって立ち上がる。椅子が勢いよく倒れ、派手な音を立てた。

 有崎くんの顔を思い出す。確かに性欲が強くて、強引なところはある。でも、彼は優しいのだ。一緒にいて楽しい。しっかりとした考えを持っていて、かといってノリが悪いわけでもなく、くだらない冗談にだって付き合ってくれる。そんな彼を、噂などという根拠の薄いもので否定することは許せなくて、さっきまでの椎葉の態度への不満もあり、私は自分の感情をコントロールできなくなっていた。

「椎葉に有崎くんの何が分かんの」

「知らないよそんなやつ。私はただ有崎雄介という人物には良い噂を聞かないという、それだけの事実を言っているだけだよ」

「やめとけって言ったのは? あれは事実なんかじゃなくて椎葉の意見でしょ」

「言い方が悪かったな。事実を基に客観的に言って、有崎とは付き合わない方が良い」

 椎葉はこちらを見ようともせず、ノートに目を向けながら淡々と答える。その態度が私をさらに昂らせた。

 人は後悔ばかりする。言わなくても良いことを、相手への反発心に任せて口にしてしまう。だから感情というものは怖い。いつか加藤さんが言っていた。心を切り捨てることも可能だと。今この瞬間だけは、そうして欲しかった。

「分かった。椎葉悔しいんでしょ。同類だと思ってた私に友達ができて、彼氏ができたんだもんね。一人だけ取り残された気がして焦ってるんじゃない? 寂しいんじゃない? だから私に別れろなんて言ったんでしょ? 私に不幸になって欲しいんじゃない? そうしたら」

 そこから先の言葉は言えなかった。部屋中に響く、人と人とがぶつかる音。椎葉が立ち上がって、私の頬を平手打ちしていた。拳で殴らなかったところを見て、椎葉が女の子であったことを思い出す。おかしな話だ。

 頬を叩かれた本人以上に、彼女が傷ついた顔をしていた。何に対してだろう。私の言葉か、それとも私に手を上げたことに対する後悔か、その両方か。分からない。私は椎葉の感情を理解することができない。

 椎葉は荷物をまとめて部室を出ていった。どこへ行くのだろう。どこに行けるのだろう。残された私はその場に立ち尽くす。動きたくなかった。一歩でも動けば何かが崩れてしまいそうな気がした。

 頬が熱い。神経に直接響くような痛みは、彼女がこの場を去ってもしばらく残る。そばかすの消えた白い肌は、椎葉の掌の形に赤くなっているのだろう。鏡を見なくても分かった。

 エアコンを消し、戸締りをして部室を出た。職員室の鍵置き場に鍵を返すとき、私は自分の居場所を一つ失ったことを痛感した。



 それからの日々は、生きている実感が乏しいものだった。地に足のつく感覚がない。友人と話していても、有崎くんと一緒に過ごしていても、心の底から笑うことができない。有崎くんは何かあったのかと心配そうに聞いてくれたけど、言ったところでどうにかなるとも思えなかった。

 無気力になり、仲良しグループで遊びに行くことも少なくなった。椎葉をあれだけ傷つけておいて、自分だけが友達と楽しく遊ぶことなんてできない。そう思っていたものの、仲良しグループの内の女の子が誕生日を迎えるので、それを祝うパーティーをしよう、とLINEでメッセージが来ていた。

 それならば、と思った。椎葉との不仲を理由に、他の友人との関係もないがしろにすることも、それはそれで愚かな選択だ。私は「行く」と返事をしてその日を待つ。

 誕生日当日、私はプレゼントを持ってその友達の家を目指していた。自転車を駆って大通りを歩く。彼女の家は、病院の近くにあった。このあたりに来ると、いつもあの店と加藤さんを思い出す。相変わらずの微笑を浮かべて、また誰かの身体の一部を切り取っているのだろうか。

 友達の家に着き、インターホンを押す。私以外はもう全員集まっているらしい。夏休みだから意識しないけど、今日は平日の昼間だ。彼女の両親は仕事で不在らしく、リビングを好きに使えると皆は喜んでいた。

 インターホンに向かって自分の名前を告げると、玄関のドアが開いて有崎くんが出てきた。久しぶりと彼は言う。

「さ。もう皆来てるよ」

 有崎くんに促されて家の中に入り、彼の背中を追いながら廊下を進む。直進した先にリビングがある。彼が先に部屋の中に入り、私は努めて笑顔を作ってから、中に入った。

 おめでとう!

 その言葉を言おうと思って作った笑顔のまま、私はケーキを顔面に受ける。口の中に甘い感触があった。甘いものを口にすれば普段なら幸せになれるのに、今はただただ苦しいだけだ。空気を求めてケーキを吐き出す。

 そんな私の姿を見て、リビングにいた他の四人は爆笑していた。その中には有崎くんの姿もある。記念撮影と称してクリームまみれになった私の姿を撮影していた。

「えっと、なに、これ」

 訳が分からない。イタズラにしては度が過ぎている。イチゴの乗ったホール型ケーキは、皆で仲良く切り分けて食べるためのものだったはず。断じて、私の顔にぶつけて、爆笑するためのものではない。

「まだ気づかないの? アンタ」

 私は、急に理解した。そして膝から崩れ落ちる。誕生日パーティーは仲良しグループ四人で開催すると言っていた。リビングには、私を除いて四人の姿がある。有崎くんに、他男一人女一人。それに私を加えて四人。いつものメンバー。そう、私にとってのいつものメンバーはその四人だった。

「アンタ、今良い顔してるよ」

 私のことをアンタと呼ぶ。その声には聞き覚えがあった。

 仲良しグループ四人組に、最初から私は入っていなかったのだ。私はこのために、この誕生日の催し物として誕生日の主役を喜ばせるためだけに、弄ばれ続けてきたのだ。クリームにまみれた視界のまま、声の主を見る。塚本香奈枝の取り巻きの内の一人。髪の長い少女が心底馬鹿にしたような笑顔で私を見下ろしていた。

「なんで、こんなことを」

 涙をこらえて声を絞り出す。

「なんで、か。そりゃあアンタには分からないでしょうねぇ」

 もったいぶったような言い方でクスクスと笑う。その姿を醜悪だと思った。クリームを全身に浴びた私なんかよりも、よっぽど。

「アンタが余計なことをしなければ良かったのさ」

 憎しみを込めた瞳で、私を睨む。

「塚本香奈枝。当然覚えてるだろう? アンタがあいつに何をしたか、考えてみると良い」

 塚本さんの顔と声。思い出す。されたことならいくらでも思い出せるけど、彼女に何か害を与えた記憶なんてない。

「分からない」

 その返答に、取り巻きの少女は激昂する。

「アンタはあいつに教えただろう! 一時期噂になっていた美容整形外科! おかげであいつは二重瞼になりやがった!」

「そ、そんなことで」

「そんなことだと⁉ お前が余計なことをしなけりゃ、聡志くんは私のものになってたんだ!」

 何を言っているのか理解ができない。聡志くん? 誰だそれは。

「あいつは二重瞼になった程度で良い気になりやがった! 聡志くんは顔の綺麗な娘が好きだと言っていた! 一重瞼のあいつになら私は容姿で勝っていたんだ!」

 少女は昂る感情を抑えきれず、ついには泣き始めてしまった。「仲良しグループ」の三人がなんとかなだめようとするも、おさまる気配はない。

 私は腕に力を込めてよろよろと立ち上がり、四人のもとから立ち去ろうと歩を進める。

 全てが嘘だった。四人で笑いあった時間も、旅先で撮った写真も、有崎くんと育んだ感情も。吐きそうになる。いっそのこと、ここで全部ぶちまけて迷惑をかけてやろうかと思ったけど、僅かに残った自尊心のために踏みとどまった。

 最後に有崎くんを見た。彼は必死に少女を宥めていてこちらを見向きもしない。彼が肉体関係を迫ったのも、今日種明かしをする前に、せっかくだから一度くらいヤッとこうと考えたためだろう。彼のような男に抱かれなくて、心の底から良かったと思う。

 家を出て、大通りに向かって歩く。クリームはまだ身体についたままだったけど、それを拭こうとは思わなかった。道行く人からの奇異なものを見るような視線。自転車を置いてきてしまったという後悔。全てがどうでも良かった。このまま世界が終わってしまっても構わない。

 取り巻きの少女と自分はどこか似ているような気がした。彼女は想い人を誰かに取られたことを、自分の容姿のせいだと言っていた。自分の容姿が塚本さんに届かなかったからフラれたのだと。その他の原因に目を遣らずに。

 私だって同じじゃないか。自分が明るい性格になれないことを、人付き合いが苦手なことを、全てそばかすのせいにして、そばかす以外の自分の弱さから目を逸らし続けていた。

 大通りを自宅に向かって歩く。建築中のマンションの方から喧騒が聞こえてきた。いつ頃完成するのだろう。鉄骨が剥き出しになった建造物を見ていると、それが永遠に完成しないように思えてくる。

「あぶねぇ!」

 頭上から、叫び声が聞こえてきた。上を向くと巨大な鉄骨が私の方に落ちてきているのが見えた。全てがスローモーションの世界。音が消える。巨大な鉄の塊が私の命を潰そうと迫ってきている。

 死んでも良いかなと思った。このまま生きていくことに何の意味があるのかと思った。もう私に居場所はない。椎葉は私とはもう話してくれないだろう。仲の良いと思っていた三人は全てハリボテだった。人生における後悔を探そうとした。だけど見つからない。その瞬間から、死は甘美なものに思えてくる。さっき食べたケーキなんかよりもよっぽど。

 私はこの世の全てを受け入れる気分で、ゆっくりと目を閉じた。

 背中に強い衝撃。前のめりになり、こらえきれずに前方に倒される、結構な距離を飛行して、硬いアスファルトに全身を打ちつけた。

 生きている。心臓の鼓動を感じる。汗が噴き出して、急激な恐怖を感じた。生きていて良かったと、私は思ってしまった。

 でも、一体何が。

 痛みに耐えながら身を起こすと、目を覆いたくなるような現実がそこにあった。

「椎葉!」

 さっきまで私が立っていた位置に、椎葉がうつ伏せの状態で倒れていた。周囲から悲鳴が次々と聞こえる。「救急車!」という怒号が聞こえた。

「椎葉!」

 叫ぶ。椎葉のもとに駆け寄り、意識を確かめると、微かな呻き声とともにわずかに身をよじる。命があることにほっとするも、その全体像を見て息を呑んだ。椎葉の左手が鉄骨の下敷きになっている。鉄の臭い。血が鉄骨と地面の隙間から流れ出ている。いつもノートに絵を描くために忙しなく動いていたあの左手が、命を絶たれた生物のように静止していた。

 工事現場の人が鉄骨をどかす。椎葉の左手を見て絶望的な気分になった。素人目にも分かる。完全に潰れていて、これはもう使い物にならない。切断した身体の一部を接合する技術があるのは知っている。だけど、接合するパーツである左手が使い物にならない以上どうしようもない。

 それでも。

 どんな極限的な状況でも諦めない医者がいた。その小説を読んだのはいつ頃だっただろう。

 小説に書いてあった知識を頼りに、椎葉の左手から流れる血液を止めようとした。直接圧迫止血法。誕生日プレゼントに渡すはずだったハンカチを使って、傷口を押さえる。

 救急車の音がする。病院が近くて良かった。命は助かるだろう。

 だけど。

 椎葉の手はどうなる。彼女は左利きだ。もう絵が描けないのだろうか。描けるにしても、利き手じゃない方の手で今と同じレベルの絵を描けるようになるのにはどのくらいの時間がかかるのだろう。

 いつも言っていた。絵に携わる仕事がしたいと。それを諦めるしかないのだろうか。私のせいで。私なんかの命を救うために。その望みを捨てなければならないのだろうか。

 部室で絵を描いている彼女の姿を思い起こす。他にももっと楽しいことがあるのに、飽きもせずに毎日毎日。暑い日も、寒い日も、彼女は自分の夢を追いかけて努力することを厭わなかった。

 駄目だ。

 それは駄目だ。

たとえ他人には理解されなくとも。たとえ日向を歩く者に馬鹿にされようとも。彼女の費やしてきた全てがこんな形で終わって良いはずがない。

 椎葉の左手首を見る。そこにはくっきりと、キリトリ線があった。 条件は二つ。強く望むことと、その後の人生を具体的に想像すること。彼女はまだ自分の人生を諦めていない。

 救急車には私も同乗した。私も軽く怪我をしていたから、その治療と脳に損傷がないかの診察のためだ。

 病院の前は慌ただしく、医師や看護師が口にする専門用語が飛び交っていた。

「あの、これ!」

 私は椎葉を診ている医者に向けて、左腕を見せた。

 私はどうなっても良い。最悪ここで死んだってかまわない。だけど、椎葉の命だけじゃなくてこれからの人生を救うために、必要なものは全て差し出す覚悟がある。

 医者は何かを了解したように頷く。椎葉は病院の奥へと運ばれていった。

 病院で簡単な治療を受け、脳に異常がないことを確認すると、私は病院の裏口を通って「crepus」へと向かった。

「いらっしゃいませ」

 加藤さんは相変わらずの微笑で私を出迎える。

「あの!」

 椎葉の左手をどうにかしたいと思う気持ちだけが先走る。そんな焦りを静めようと、加藤さんは自分の人差し指を立てて、私の口を封じるようにそこにぴったりとつける。

 落ち着いてください。

 彼女は目で訴えかける。私は静かに呼吸を繰り返し、気分を落ち着かせた。

「病院のほうから話は聞いています」

 その言葉にホッとする。医者にこの左手を見せたのは賭けだった。

 私の手首にも、椎葉と同じ箇所にキリトリ線ができている。もしも加藤さんと病院側に何らかのコネクションがあるのならば、私が手首にあるキリトリ線を見せることで椎葉の手の治療に私の手を使うことを検討してもらえるんじゃないかと考えたのだ。

「布津さんの想像通り、この店が病院の裏手にあるのはただの偶然ではありません」

 加藤さんは続ける。

「病院に運ばれてくる患者さんの中には、身体の一部を破損してこられる方もいます。そのとき、その一部を強く取り戻したいと願う方にはよくキリトリ線があるのだそうです。キリトリ線は、捨てたいと思うときだけでなく、手に入れたいと思うときにも出現するものなんです」

 出血もなく、痛みもない。そんな魔法のような技術を医療に用いないことは考えにくかった。

「そういうときに私がその患者さんに、切り捨てられたストックからできる限り適合したものを選び、接合させるんです」

 それだけ多くの人が、彼女の手によって救われたのだろう。再生しないはずだった身体の一部を与えられたとき、その人には加藤さんが女神に見えたのではないだろうか。

「ですから、ストックには限りがあります。申し上げにくいのですが、もう左手のストックは」

「大丈夫です。ここにあります」

 加藤さんに左手首を見せる。彼女は私がそうすることを最初から分かっていたらしい。彼女の悩む姿。困ったような表情。すべて初めて見る。

「ですが、その場合優里加さんの左手は」

「かまいません。使ってください」

 椎葉に適合するような手が見つからなかった場合に備えて、同年代で同じ性別の私がストックを一つ用意しておく。最初の意図はそうだったが、ストックがもうないというのならば丁度良い。椎葉のために捨てる覚悟なんて、もうとっくにできている。

 私の意志が揺らがないことを認めると、加藤さんは準備を始めた。私はベッドに仰向けに寝てその時を待つ。彼女が差し出した睡眠薬を何の躊躇いもなく飲み込んだ。



 数時間後目が覚めたとき、私はあるはずのない感覚を左腕に感じて困惑した。手首から先。そこから小さな手の甲と、それから五本の指が生えている。

「あ、目が覚めましたか?」

 左手を動かしてみる。しわだらけの手だった。肌の色も、手首から先だけがくっきりと茶褐色になっていて、肉や皮が薄く、骨の質感が浮き出たゴツゴツとした指が、もともと私の指であったかのように滑らかに動く。

「これは?」

 その問いに彼女は嬉しそうな、悲しそうな微妙な表情を浮かべ、最終的には優しさを確かめるような表情で固定すると、ゆっくりと語り始めた。

「それは、つい先ほど亡くなられた方の手です。死後、自分の身体を必要とする人に与えて欲しい。そう言って、全身をキリトリ線だらけにして他界されました」

 この世には絶対的な愛がある。見ず知らずの誰かのために全てを擲てるような、崇高な自己犠牲がある。大きな右手で、一回り小さな左手を包むように握った。あたたかい。この熱を私は知っていた。この感触を私は知っていた。この左手は、重い買い物袋を持つために存在しちゃいけない。こうやって誰かに熱を与えるために、誰かの手を握るために、呼吸をし続けなければならない。

 これから先、人に出会う度に私の左手は観察されるような視線にさらされるだろう。奇妙だと顔をしかめられるかもしれない。あるいは心無い言葉で傷を負うかもしれない。

 だけど、私はこの左手を美しいと思う。それで人に避けられるようになったとしても、私は自分を好きでいようと思う。過去に切り捨てたそばかすを、今なら憎むことなく撫でることができる気がした。もう一度それを手に入れたいと思うのは、身勝手すぎるだろうか。

「そういえば、由佳里さん。事故が起きる前ここに来てたんですよ」

「そうなんですか?」

 予想外の言葉に驚く。

「はい。親友を叩いてしまったことを後悔している。そんな左手で絵を書く気になれないから手を切ってしまおうかと悩んでいる。と言ってました。結局は切らずに帰られたんですけどね」

 いつもの微笑みを浮かべた加藤さんは、椎葉の様子を見てくると言って病院の方に行ってしまった。

 人を叩いた程度で、自分の利き手を切り落としてしまおうかなどと考えるアホは世界を探しても椎葉だけだろう。そう思って小さく笑う。

 椎葉が早く目を覚ますと良い。そして言ってやるのだ。あなたが本当に切るべきなのは、その思い詰め過ぎる心なのだと。

 優しさに包まれた空間に身を委ねながら、私はそっと涙を流した。



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キリトリ線 沢崎善 @shoseki_zen

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