うたかたに焔(5)
もう、ここに来てからどれほどの時が流れたのかもわからない。ラッカがその身のうちに培ってきた時間感覚はすっかり狂い、無用のものと成り果てていた。
意味のあることを為したいという意思とは裏腹に、呆けている時間が長くなってきたように思う。はじめはラッカの方に見向きもしなかったバマやトッタ(栗鼠)が、すぐそばまで近寄ってくるようになってもいた。同類だと思われているのかもしれない。腹は立ったが、もうあの赤い木の実を食べようという気にもなれなかった。
いまだ、外に出られる気配はない。このまま、皆の仇をとることもできないままに、ここで一生を終えるのだろうか。あるいは、あの青年と同じような化生に成り果てるのだろうか――そんな考えさえ、湖の凪と同調するように、すぐ形を失ってしまった。
そうして、いつの間にか訪れていた輪郭のないまどろみが、ラッカに薄らと夢を見せた。
身を横たえたラッカの傍らに、誰ぞ、立つ姿がある。黄色い肌をしていることから、あの青年でないことは分かったが、それだけである。ラッカは相手の顔を見ようとしたが、身体がこわばり、寝返りをうつことも叶わない。唯一見える両の足先は、白い草を踏み、甘い香りを漂わせながら、湖へと向かっていく。それは、かの化生とのそれと違い、水面を貫いて湖底へと沈んだ。
人影は、ゆっくりと湖畔を離れていく。遠くなる後ろ姿の腰が、次いで肩が、水面を境に切り取られてしまった。ラッカは、「それ以上はいけない」とは思いながらも、声を出すこともできないままに、その背中を見つめていた。やがて、人影はすっかり湖の中に消え去ってしまった。
しばらくして身体の自由を取り戻したラッカには、本当にあれが夢だったのか、それとも現実だったのか、判別することができなかった。変わらずあたりは静かであったし、湖には波紋ひとつ浮かんでいなかったから。けれども、手慰みに潰して放っていた果実の真っ赤な汁が、点々と湖まで続いているのを見るや、すぐに「あれは夢でなかった」と悟った。湖に消えていったあの人影が、果汁を足裏にはりつけて、湖の縁まで歩いたのだ。
ラッカはかの人影の足跡を辿り、水ぎわで立ち止まった。痕跡は、湖面を境に途切れている。人影が湖のどこを目指したかも分からなかったが、ラッカはためらいなく湖に足先を浸した。ひやりとした水が、少年の足首から先を包み込む。
少なくとも、あの人影は【ひと】であったように見えた。だとすれば、この場所で唯一出会った、元の世界に帰るための手がかりということになる。ラッカは腰まで水に浸かってなおも歩き続けた。この先、水深は彼をすっぽり飲み込んでも余りあるに違いない。目の前には、少年の「帰りたい」という意思を阻むには十分すぎるほど広大な湖が広がっている。
水面はとうとう、首のあたりにまで至った。うなじのあたりが粟立つのを感じたラッカは、足を止めて振り返る。ほんの一瞬、かの化生に見られているような気になったのだ。どこにも青年の姿は見えなかったが、神出鬼没のあれのことだ、今もどこかかしらからこちらを覗いていることだろう。ラッカは重い水を蹴り、また歩みを進める。
ついに、頭の先まで水面を潜(くぐ)った。川での狩りの経験から息は長いが、いつまでももつわけではない。だからといって、諦めて岸に戻るという選択肢もなかった。化生に降(くだ)り、皆の生きたあの地に帰ることを諦めるくらいならば、溺れ死んででも、やっと見つけた可能性を追いかけたかった。
頭上、光揺らめく水面が、だんだんと遠くなっていく。進むごとに差し込む明かりも薄れ、足元は暗くなる。水面がすぐには上がれない高さになったころ、少年の肺は限界を告げた。わずかに残っていた空気を吐き出したラッカの胸に、水が勢いよく流れこむ。
「死にたくない」――必死で喉を掻きむしっていたラッカは、肺が水いっぱいになったにも関わらず呼吸が絶えていない事に気づき、目を瞬いた。水を飲んだことで、かえって、空気に縋っていたときよりも楽に息ができるようになっていたのだ。空気とひとがひとつであるように、今や、湖と少年はひとつだった。
湖はさらに水深を増す。外光の届かない深き湖底は、湖畔に生えていたあの白い草で覆われていた。草は弱々しくも光を放ち、ラッカの足元を照らし出している。この草、光を蓄えていたのかと、ラッカは暗闇に置かれてはじめて気がついた。
そんな草らの輝きを割って、黒い線が浮かんでいる。地の割れ目のようにも見えたが、近づいてみると、そうでないことが分かった。ラッカの片手でなんとか握れるほどの直径の、枝のような【何か】が、草の隙間を這っている。もしかすると、天に聳えていたあの大樹の根かもしれない。見渡す限り、青白い絨毯に覆われた湖底において、唯一道を指し示すものが、その黒い根だった。ラッカは無音の水底で、黒い根を辿りはじめる。狩人たるもの直感を磨けと言われ続けてきた少年は、根拠のない自分の判断を疑わなかった。湖に消えていったあの人影もきっと大樹を目指したろうと、そう伝える自身の勘を信じ、ひたすらに根を遡る。
あれほど高く、遠くにあった大樹を目指すことが、どんなに無謀であるか――そんなことは、少年の頭にはなかった。たどり着くまで、あるいは力尽きるまで歩き続けるのみだ。村の戦士たちなら誰もが選んだであろう道を、彼もまた選んだのである。
白い草を踏み、歩き続けた。もはや、外からの光はまったく絶え、草の明かりだけが、足元を薄く照らし出している。その薄明かりの中で、黒い根は少しずつ太さを増していた。遠くとも、確かにあの大樹に近づいているのだとラッカは思った。意識は半ば水に溶け出し、どうかすると、すぐ身体が軽くなってしまう。ラッカはその度手の甲を噛み、身体から離れかけた思考をつなぎとめた。
地を這う根はだいぶ太くなり、ラッカが両手でどうにか抱えられるほどになった。見れば、ひび割れた表皮の隙間から、金色の光が漏れている。その様子は、一度だけ近くから見たことのある神木コクマーの木膚と、よく似て見えた。ラッカは、あの化生が、この世界を【彼】と称した理由をようやく理解した。あれが【彼】と呼んでいたのは、この空間というよりも、それを司る神木である大樹のことだったのだ。
この閉じられた世界を支える、ひとりぼっちの大樹――神木ダアト。ラッカは、ほんの少し歩みを速めた。
神木へと近づくほどに、黒い根は太く絡み合い、ラッカの行く手を遮るようになった。荒い木膚を登っては降りるうち、ラッカの手のひらはすりむけてぼろぼろになっていた。根が壁となり、先の景色も見えない中、ラッカは進み続けた。
一つ一つの根を越えることに必死だったラッカには、どれほどの時間そうしていたのかも分からなかった。ただ言えることは、この空間でなければ、とっくに力尽きてしまっていたであろうことだけだ。それだけの道のりを経てようやく、神木ダアトは少年の前に姿を現した。
樹は、湖を貫き、遠き水面に向かって突き立っていた。暗い湖底にいっそう濃い影となって浮き上がったそれの巨大さに圧倒される。太い幹は、木膚の割れ目を縫う金の光のために、あたかも金の網をまとっているかのようだった。
その根元にも、湖に消えていったあの人影の姿はなかった。かわりにラッカを待っていたのは、蔓にびっしりと覆われた、浅いうろだった。蔓の合間に何かが埋もれているのを見て取ったラッカは、絡みあった蔓を掻き分け、うろの中を覗き見る。
暗いためによくは見えなかったが、ラッカの指先の感覚が、うろの内側を覆う蔓と、その上に横たわる別の【何か】の感触を告げる。知ったようなその感触に、少年の心臓がどくりと跳ねた。ラッカはあたりに茂っていた白い草をむしり、それらをうろの中にかざす。草の光に照らされ、うろの中に浮かび上がったものの姿を捉えたラッカの唇から、浅いため息がこぼれる。
そこに【在った】のは、とうに冷たくなった人間の体だった。
瑞々しさを残した精悍な面立ちと体つきから、まだ年若い男であることが分かる。かつては黄色に近かったであろう肌は血の気を失い、黒々としていた。力なく投げ出した四肢は蔓に捕らわれ、ほとんど埋もれてしまっている。伸びるままにされた黒い髪を辿った先、胸のあたりを、湖に洗われてむき出しになった大きな傷が貫いていた。
ラッカが死体の顔をよく見ようと、うろ内部の蔓の束に体重をかけたとき、彼の手の裏で、ぐちゃりと何かが潰れた。途端、指の間を抜けて、真っ赤な汁があたりに広がる。蔓の裏に、例の赤い実が転がっていたらしい。果汁の霧が死体の傷にまとわりつくさまは、そこから血が噴き出しているようにも見えた。
ラッカは死体の四肢にまとわりつく蔓を引きちぎり、死体をうろから出してやった。死体を調べ、そこから情報を得ようとすることは有効な手段ではあるだろう。だが、ジャナムの村の男ならば、そんな卑劣なことは決してしない。相手が外部の人間であっても、その死体は美しい織布で包み、神木の、世界の礎となるよう、敬意を持って土に葬る。世界にとって何者でもあれず、ただ放られた死体ほど哀れで悲しいものはない。
草と神木の光が、湖底に横たえられた死体を照らし出す。光の下で見る死体の体つきは、湖に消えていったあの人影とよく似ていた。取り残された死体が生者を呼ぶという話を聞くように、この青年もあのとき、ラッカをここに呼ぶために現れたのかもしれない。
次いで不思議なことに、目の前の死体の顔は、湖畔にいた化生の顔とまるで同じだった。見間違いではないかと、死体の前髪を分けようとしたラッカの背後で何かが動く気配がした。
「――ラッカ」
背後に現れた影――かの化生の声は、水の中にもはっきりと聞こえた。ラッカは、振り返ることができずに死体を抱き寄せる。目を合わせてはならない獰猛な獣がそこにいるような恐怖が、少年の背を舐め上げた。
気配と声は、少しずつ近づいてくる。
「どうしてここに来た」
ラッカは答えなかった。否、答えられなかったのだ。
「そのひとを、どこに連れて行く」
相手はラッカの背を前に足を止め、もうひとつ問いかける。心臓が内側からラッカの胸を叩き、耳の奥で血流がうなった。
この場所において、背後の彼以外に意思を持つ存在は見られない。それなら、この死体の胸の傷は――。ラッカは唾をのみ、水の中にいるというのに乾いた喉から、必死に声をひり出した。
「……土に埋めて、神木のもとに、還す」
「それはいけない。土の中では、人間は苦しいだろう。呼吸ができないもの」
ひとの姿を取りながらもひとでない青年は、平然と言った。その声色からは、怒りも悲しみも読み取れない。ただ当たり前の事実として、そう言ったのだ。
ラッカは、彼が火傷をすぐに治してみせたのを思い出した。あんな風に簡単に傷を治せるのなら、死ぬこともあるまい。この世界にいるバマやトッタの形をしたものたちも、死というものを知らない。彼らは、ひとではないから。生きていないから。
「そのひとは、ずっと前から眠ったままだ。【彼】はここで、そのひとが目覚めるのを待っている。引き離さないでおくれ」
青年の声は、あくまで穏やかだった。
青年の言う【彼】――神木ダアトは、この死体が生きていると思い込んで、目覚めを待っているのだ。自らのうろに、冷たくなった身体を大事に隠して。
ラッカは神木を見上げ、唇を噛んだ。
この樹にとって、目の前の死体が何であったのか、ラッカには分からない。けれども青年の声に滲む慈愛が、神木がこの死体に注いでいた愛情の深さを表しているようで、どうしようもなく胸が痛んだ。神木が心を持つとは聞いたこともない話だが、実際に、この死体はうろのなかで蔓に覆われていたのだ。
思い悩んだところで死体は生き返らない。だからこそ、生ける者たちは彼らとの別れを惜しみながらも、冷たくなった体を手放すのだろう。ひとは皆必ず死ぬことを知っているからこそ、愛する人の姿をした肉塊を前にして、諦めることができる。だが、青年も神木も、死を、その必然性を知らないのだ。
今、死体を青年に返せば――【返す】というのも奇妙な話だが――、青年の方も、ラッカに手を出すことはしないかもしれない。それでも、ジャナムの男としての意地と誇りが、ラッカにそうすることを許さなかった。
「……こいつは二度と目を覚まさない。息だってしない。人間は、こうなってしまったら元には戻らない。薬師や巫女にも治せない」
ラッカは青年の方を向けないまま、慎重に言葉を選びながら彼を諭す。
ラッカがはじめてひとの死に対面したのは、まだ彼がずっと幼いころの話だ。体はそこにあるのに、魂だけが遠くへ行ってしまう現象の奇妙さと物悲しさは、未発達な心にしんと染み込み、現在もラッカの礎となっている。
しかし、成熟してしまった青年の心に、死という摂理の与える衝撃を受け入れられるだけの柔らかさはすでになかった。永久なる別れについても、また同じだった。
「どうして。そんなのはいやだ。【彼】がひとりになってしまう。ひとりは寂しい」
青年は、ラッカのすぐ隣にかがみ込み、死体の肌に触れる。その指先は、ラッカに触れたときとは異なり、灼けることはなかった。ラッカは直感的に、「命がないからだ」と思った。ラッカにあって、青年と、死体にないもの――それは、生き物の体温をもたない青年の肌を灼く熱、すなわち命の熱さだったのだ。
青年も今、ラッカと同じ気づきを得たらしかった。彼は死体の頬をなで、そこに、ひとでない彼自身を拒む熱がないことを何度も確かめる。同時に、気づくことができなかっただけで、これまでもずっと【ひとり】であったことをも。
「ひとりは、寂しい……」
何もかもを悟った青年の声は弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。
二人のはるか頭上で、湖面が波立つ。穏やかだった風は嵐と化し、神木の枝から葉をもぎ取っていく。葉は風に煽られるたびに互いにこすれ合い、青銅の剣がぶつかり合ったときのような音を立てた。
荒れ狂う世界から取り残された湖底で、ラッカは、青年の瞳の中に見知らぬ情景が駆け抜けていくのを見た。そこに映っていたのは、死も、涙の流し方も知らない神木が、愛する者の命を奪ったのが自分自身であることにも気づけぬまま、そのひとの目覚めを待ち続けた長き時の記憶だった。
ラッカはすべてを理解した。青年――【神木ダアト】は、愛する者が去ることを恐れるあまり、そのひとの命を奪ってしまったのだと。それならば、自身がダアトに言ってしまったことは――。自らの過ちを察したラッカが身を翻して逃れようとするも遅く、ダアトの細い指が、ラッカの喉を捕らえる。
ひとでないダアトの中に目覚めた心は、そこだけがあまりにも【ひとらしすぎた】。その手で殺したひとが、いつか目覚めるのだと信じて待ち続けた彼の脆い心は、ラッカの言葉ひとつでたやすく壊れてしまった。
逃れようと身悶えるラッカの耳を、ダアトの叫びが打つ。
――欲しい、【命】が欲しい。あのひとに与える【命】が。ひとりは苦しい、怖い……。
その叫びは、言葉というよりも、ダアトの痛切な意思そのものだった。悲哀、嫉妬、欲求。すさまじい感情の渦をそのまま精神にぶつけられ、耳鳴りがした。命に触れることの許されない器であると知りながら伸ばされたダアトの指先が、苦い音を立てて灼ける。
ラッカは、ダアトの触れた先から、自分の体が急速に冷えていくのを感じた。対して青年の指先は、ただれるだけでは追いつかず、ラッカの熱を奪って真っ赤に燃えている。中指が、次いで薬指が黒く変色して崩れていくが、炎の侵食はなおも止まらない。
少年は、ダアトの愛した死体の方を見やった。
ひとは死ねば神木の糧になり、残された者たちの未来を繋ぐのだと、そう言われてここまで生きてきた。そうするものだと信じ、自分もそうあろうと誓って、ジャナムの村の名を借りてきた。だのに今や、自分の命は、神木の糧どころか神木を焼いている。悔しさにあふれた涙も、湖に溶けて消えた。
――死にたくない。生きなくてはならないのに。死んだ皆の分も、生きて戦わなくてはならないのに。なぜこんなところで。父さん、母さん、長老様、かわいいリュミ。
意識が途切れる間際、ラッカは、炎の中で微笑む青年――神木ダアトの姿を見た。滅びと一体になってはじめて血の通った【彼】の横顔は、心からの喜びで満ち満ちていた。
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