第88話 些細なきっかけ

「戻って来ないですね、五十鈴さん」

「そういやそうだな」


 弓道部の近況について話す最中、唐突に深町が切り出してきた。

 道場についてからかれこれ三十分近く経つ。奴の用事は、意外と大がかりなものだったのか……の割には、ここに来るまで忘れていたくせに。


「呼びに行かなくていいんですか?」

「いいだろ、別に。校舎は遠いし、面倒くさい」

「でもほら、何か困っているのかもしれないですよ」

「だったら連絡してくんじゃねーか」


 ポンポンと、ズボンの右ポケットを叩いて見せる。長方形の膨らみは、スマホを押し込んでいることの証。


 五十鈴美桜はかなりのマイペース人間だ。以前から薄々わかってはいたが、生活を共にする中で急速に理解が深まった。おそらく今回も、弓道見学のことなんか忘れて自分の用事に夢中になっているんだろう。

 だから、俺としては全く気にならない。そもそも、今日ついてきたのだっていきなり過ぎだ。あの女の意図について考えるだけ無駄というもの。


 まあ、深町的にはなかなかそうはいかないのかもしれない。依然として浮かない顔のまま。言うなればホスト側だから、お客人のことが気になるようだ。


 結局、俺は無言の圧力に負けた。大人しくスマホを取り出す。


「しゃーない、とりあえずメッセだけ送っとくか」

「それがいいと思います」


 ようやく深町の表情が和らいだ。にこやかにゆったりと頷く。

 それでも、やっぱり杞憂だと思うわけで。深町は優しいというか心配性というか。なんにせよ、五十鈴のやつ迷惑をかけるなよ、というのが第一の感想。

 

『何してんだ、お前』


 素早くメッセージを打ち込んで送り付けてみるが既読マークはつかない。きっと作業に熱中しているんだろう。

 もっとも、あいつので一番に思い当たるのは、執筆だが。最近は専らリビングでその姿を目撃する。今回は違うらしいが……俺が無視されてなければ。


「どうです?」

「無反応。ま、予想はできてたけどな」

「やっぱり大変なことになってるんじゃ……」


 だから深町、大げさすぎだって。心の中で言葉を返しておく。

 代わりに俺が口から出したものといえば、ため息だ。こうなると、一応部室の様子を見に行くのが手っ取り早い。


 万――いや、億が一にも、あいつが取り掛かっているのが部に関わる重大事態じゃないと思うけど。

 釈然としない気持ちを抱えながら立ち上がる。ちょっとよろめいたのは永遠の秘密だ。ずっと座りっぱだから、少しだけくたびれていた。


「仕方ない。やっぱ呼びに行ってくっか」

「それがいいと思います! 同じ部活の仲間なんですし」

「そんな立派なアレじゃねーけどな」


 やや身体をほぐしながら、り足で出口に向かう。郷に入れば郷に従え、というやつ。摺り足による静かな身のこなしは弓道の基本。


 そのまま出ていけばいいのだが、俺は寸でのところで深町の方に振り返った。ひとつ、くだらない冗談を思いついた。


「なんか、俺を道場から追い出したいみたいだな」

 わかりやすくひやかすように声をかける。

「そ、そんなんじゃないですから! むしろずっとこのまま……」


 見るからに慌てふためく深町。はたから見てると少し面白い。こういうのをからかいがいがある、と言うのかもしれない。

 それよりも、今は彼女が言い淀んだ言葉の方が気になるわけだが。


「このまま?」

「い、いえ、なんでもないです!――そ、そもそもですね。根津君の方が心配じゃないかなーって」

「いや、別に。一ミリたりともない」


 あまりにも的外れすぎる指摘。つい仏頂面になりながら、俺は大きく首を振った。

 こちらの感情きもちはしっかり伝わったらしい。深町は目を開いて、ちょっと拍子抜けしたような顔をした。そのまま気まずそうに、視線を外す。


「なんにせよ、だ。勝手に連れてきた上に、心配かけて悪いな、深町。あいつに代わって謝っとく」

「それは別に気にしてませんから大丈夫です。実際には、五十鈴さんには感謝を、というか」

「……よくわかんないけど、とにかく行ってくるわ」

 俺はくるりと身を翻した。

「はい、あたしもちょっと休憩してますから。――行ってらっしゃい、浩介くん」


 聞こえてきた小さな声に、思わず伸ばしかけた手を止める。はっきりとは聞こえなかったけど、聞き間違いじゃないと思う。確かな違和感を抱いたから。

 無視することができなくて、顔だけまた深町の方に向ける。


「今のって」

「……あ、あわわ! あの、き、聞こえちゃってましたか」

「まあそうだな。や、別に気に障ったとかじゃないから。名前で呼ばれたなーと思っただけで」

「それなら、これからもそうしていいですか?」

「ああ、もちろん……って、いちいち確認してくれなくてもいいけどな別に呼び方は人の自由だろ」


 軽く手を挙げてから、今度こそ横開きの扉をスライドさせた。

 だがその前に、似たようなやり取りを以前にもしたのを思い出す。あれはこんな特殊な場所じゃなく、普遍的な教室の中で。……菓子類が盛大に机の上に広がってた気はするけど。


「じゃ、今度こそ行ってくるわな……翠」

「――っ!? は、はいっ、行ってらっしゃいませ、浩介君」


 ちょっと上ずった声で、深町はちょっと特殊な言い回しを口にした。


 そんなセリフを聞くと、ついメイドを思い浮かべる。こんなもの、きっと周五郎の悪影響……そういや、連中と最近ツルんでなかったな。生きてるんだろうか、課題的な意味で。

 最終日を狙って大勝負を仕掛けるか。そんなことを考えながら、トボトボと校舎へと続く道を歩いていくのだった。




        ※




 ノックをしようと思ったがやめた。なんとなく癪に障った。

 代わりに、伸ばした手をノブの方へと持っていく。捻ってみると、難なく扉は開いてしまった。


 中に入ってすぐ目についたのは、髪の長い女子の後ろ姿。相変わらず、というか。背筋をピンと伸ばしてソファに座っていた。


「いたか」

「……………あら、根津君」


 声をかけると、奴はゆっくりとこちらに顔を向けた。そこに、悪びれた様子は全くない。

 トレードマークの涼しい表情を見て、俺はたちまち顔をしかめてしまう。


「どうしたの?」

「それはこっちのセリフだわな。何やってたんだ、お前?」

「部活動」


 そう言って、五十鈴はこれまたもったいつけた動作で立ち上がった。優雅な仕草で、正面のソファへと移っていく。胸のところでスマホを抱え持ちながら。


 はっきりした言い方ではないが、言わんとするところはよくわかる。大事そうに握るスマホが謎を解く手がかりだった。


「執筆、してたのか」

「うん」

「……待て待て。じゃあ俺のメッセ気づいたろ?」

「めっせ?」


 不思議を全開にして首を傾げる五十鈴。遅れて、慣れた様子でスマホを操作し始めた。

 ほどなくして、あっと小さく声を漏らす。


「ごめんなさい、通知切ってた」

「マジでか。まあ集中したいもんな」

「根津君のはいつもよ」

「……それ、ジョーダンっすよね?」

「半分は」


 五十鈴はくすりともしなかった。

 ここはもう少し感情豊かにしてくれてもいいのでは。何とも判断がつかず、この話題のことは忘れることに。

 ホント、難儀な奴だな。


「書き物なら、道場でもできただろ」

「部室でやることもあったのよ。で、ひと段落ついて部誌原稿を進めてた」

「お前なぁ、弓道部の見学に来たんじゃないのかよ」

「――深町さんとのお話は終わったの?」


 こちらの言うことなどまるで無視か。今日も今日とて、美桜ちゃんは絶好調らしい……はぁ。


 気持ちを切り替えるように、ぎゅっと目を閉じて頭を左右に振る。長い息を吐きながら、先ほどまで五十鈴が座っていたところに腰を下ろした。

 机上には、飲みかけのお茶と小袋に入ったチョコレート菓子。どこまでも平常運転だな、こいつ。


「まあ一応な」

「ふうん。用件は……聞いてもいいのかしら」

「そこを疑問に思ってるんなら口に出すべきではないのでは……?」


 もっともらしく言葉を返してみたが五十鈴は無反応。ただじっとこちらの目を覗き込んでくるだけ。


 この不躾な視線は、いくら経験しても慣れない。正直、まだ気恥ずかしさすら覚えてしまうほど。


「答えたくなければいいけど」

「……そうだな。いや、言うよ。――勧誘された」


 五十鈴は少しも表情を変えずに、そう、とだけ呟いた。そして、平然とした手つきで俺の目の前から自分の湯飲みを移動させる。


「返事は?」

「さあ。なんて返したと思う?」

「質問してるのはこっち」

「睨むなよ」

「睨んでない」

「美桜ちゃんには冗談が通じないねぇ」

 自分では言うくせに、とこれは心の中に留めておく。


 冷やかしを口にしながら、机の片隅にあった急須へと手を伸ばす。

 しかし、残念ながら中身は空っぽだった。そろそろ水分補給がしたいところだったのだが。


 言葉か、あるいは行動か。どちらかが、五十鈴の機嫌を損ねてしまったらしい。今度は本当に、その目つきが少し厳しくなっていた。


「断ったさ、もちろん。昨日も言ったろ。俺はもう弓道には満足してるんだって」

「……そっか。よかった」

「はい?」


 意外な言葉につい疑問符がこぼれてしまう。

 俺はしっかりソファに座り直した。


「だって、文芸部に入ったからには部誌を書いてもらわないと。それこそ、文芸部の真の活動だもの」

「……真の、ってなぁ。それじゃまるで今までのが紛い物だったみたいな」

「思い返してほしいのだけれど、どれくらいそれらしい活動したかしら」


 余裕たっぷりな表情に、俺はすぐに口を閉じた。

 言われるまでもなく、文芸部のこれまで日々の活動はよく覚えている。それがどれだけ、脇道に逸れていたのかも。


 五十鈴の言うように、文化祭に出す部誌こそがメインの活動だ。それをやらないで去るのは、確かに何かおかしい気はする。

 未だに何を書くかは思いついていない。そう考えると、深町の提案はそれこそ助け舟。乗ってしまえば、この作業から逃れられるけど――


「わかってるさ。そういうのをちゃんと知って、俺はこの部活に入った。今更途中で投げ出したりしないって」

「うん。だと思った」

「評価していただいているようで何よりですよ」


 果たして、この女に俺の姿はどう映っていることやら。昨夜読んだ部誌の内容しかり、なんかこうむず痒い。

 姿勢を正すこと二回目。いっそのこと、俺もお茶を淹れてこようか。


 若干の居心地の悪さを覚えるこちらとは対照的に、五十鈴は小さく微笑んだ。


「楽しみにしているから、根津君の作品」

「……地味にプレッシャーだな、それ。期待のルーキーってやつ?」

「まさか。ただその、私のだけ読まれているのって…………なんかズルい」


 ズルって、こいつにしては子供っぽい言い方をしたもんだ。普通にしているときは、かなり大人びているくせに。

 なんにせよ、こんな不意打ちに動揺する俺じゃない。むしろ、少しだけメンタルが持ち直した。


「そういうもんだろ、部誌って」

「そうだけど。でも根津君は特に……」

「モデルにしたから?」

「……はっきり言わないで。菫さんがよく言ってるけど、根津君は本当にイジワルだわ」


 ジトっと睨まれた。なかなか見れない表情を目にできたので、よしとしよう。

 これとは別に姉貴には対処しておくが。全く、誰がイジワルか。姉としての威厳があまりないことが問題だろうが。


「とりあえず、さっさと道場戻るぞ。深町――翠、めちゃくちゃ気にしてたんだから。それで呼びに来たんだ」


 恨みがましく言うと、五十鈴は二、三度はっきりと瞼を上下させた。

 しかし、続く反応は皆無。ただじっとどこか遠いところを見ているかのように、澄ましているだけ。

 聞こえなかったのか……いや、そんなわけないけど。


 どうした、その最初の文字を口にしたとき、五十鈴がようやく動きを取り戻した。パチパチと、また何度もまばたき。自然と伸びる背筋。


「…………そうだったの。それは悪いことをしたわね」

「それは道場で待ってくれてる弓道部員に言ってくれ」

「うん、そうする。――ありがとう、根津君。わざわざ」

「どいたま」


 五十鈴が表情を変えないのを見てから、俺は先に部室を抜け出した。

 夏だというのに、廊下がひんやりしているのはなぜでしょう。

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