第86話 さあ見学に行こう
八時を過ぎたが、誰もリビングに姿を見せない。
ソファも空。つい先日までは姉貴がそこを寝床にしていたが、結局は瑠璃の部屋で寝ることになった。墓参りのついでに、ようやく布団を手に入れて。
起こす義理はない。残り僅かとはいえ、まだ高校生組は夏休み。大学生の方なんて言わずもがな、だ。
が、妹は今日も部活があるはず。本人からは聞いていないけど、同級生から確認済み。みすみす寝坊させるのも良心が痛むというか……
食器の用意を済ませてから、俺は瑠璃たちの部屋へと向かった。
固く閉ざされた扉の前で、一つ大きくため息をつく。
「起きろ、瑠璃。今日も練習あるだろ?」
やや大き目な声で呼びかけてみたが、中から返事はない。
代わりに、といえばいいのか。どこからか、ちりんと鈴の音が聞こえてきた。
「お前は早起きなんだな」
「にゃあん」
足元にすり寄ってくる黒猫。ペットは飼い主に似るとか聞いたことがあるが、こいつは例外のようだ。少なくとも、寝起きが弱いという点では。
しかし、オーガイはどこで寝ているんだろうか。さっきまで全く姿が見えなかった。たまに、俺の部屋に入り込んでもくるし……。
謎は深まるばかり。不思議そうな目を向けても、彼はうんともすんともいわない。喋り出されたら、それはそれで困るけども。
「腹減ったんだな。よしよし、じゃあ飼い主さんを起こしておいで」
オーガイを抱きかかえながら、部屋のドアを開けた。そして、内側に向けて解き放つ。彼は鈴を鳴らしながら、奥へと入り込んでいった。
ドアを閉めてしばらく待ってみる。正直、期待薄だ。漫画のようなドタバタ劇が希望だけど、まあそういうわけにはいかないだろう。
オーガイは決して暴れまわるようなタイプではないし、三人娘は眠りがかなり深い。
――と思っていたのだが。
ガチャリ。
不意に、目の前のドアが開いた。全く予想していなかったので、ちょっとだけ驚いた。身体が反射的にびくつくくらいには。
「……おはよう、ねづくん」
「あ、ああ。おはよう」
現れたのはパジャマ姿の居候。かなりの寝ぼけ顔で、半開きの目を軽くこすっている。その胸には、しっかり飼い猫を
もしかして、オーガイは俺の言葉がわかるんだろうか。言いつけを守って、飼い主を起こしてきた……とはさすがにメルヘンチックな考え方だな。
「すみるりは?」
「ゆめのなか」
「……とりあえず、顔洗って来いよ」
「そうする」
五十鈴と入れ替わるようにして、俺は部屋の内部に潜入する。
振り返ると、おぼつかない足取りで洗面所に向かう奴の姿が視界に入った。目覚めすっきりとまではいかなかったらしい。……とりあえず、オーガイは解放してやれ。
耳を澄ませば、我が姉妹の寝息が聞こえてくる。ここから先はいつも通り。しかも、今日のところは妹だけを目標にすればいい。
床で寝ている姉貴に気を付けながら、そっと二段ベッドの方に近づいた。
――数分の格闘を経て、なんとか俺は瑠璃を目覚めさせることに成功した。いつも通りとは言えど、決して楽な作業ではないのだ。
「ほれ、さっさと着替えないと遅刻するぞ、部活」
「……ほえ? ぶかつ……なにいってるの、おにいちゃん。きょうはぶかつないよぉ」
「は? いや、だって深町は――」
意識が不安定だった瑠璃だが、突然その目を大きく見開いた。
同時に、顔中に焦りが広がっていく。
「え、え、翠先輩? 翠先輩がどうしたの?」
「部活見に行く約束してんだけど」
「…………なるほど、なるほど。緑先輩もやりますなぁ」
「何が?」
「なんでもない!」
さっきまでの、可愛らしい寝起きモードはどこへやら。すっかり妹の意識は覚醒している。
平常モードになるまでの最速記録だな、これは。心の中で、そっと感心していた。
しかし、起きたばかりとはいえ部活のこと忘れるなよ。我が妹ながら、本当に心配になる。
そろそろ本格的に生活改善した方がいいのでは……未だ眠り続ける長女の顔を見て、深いため息が漏れた。
「とにかくさっさと準備しろ。間に合わなくても知らんぞ」
「今日はいいの。休むから」
意外な答えに、思わず顔が曇ってしまう。見たところ、体調が悪い感じはしない。かといって、サボリというのもこいつの性格上あんまり……。
「そんなこと、おにいちゃん許しません!」
「気持ち悪いから、お姉ちゃんの真似はよそでやって」
「そうか。次は頑張る」
「結構です! ――ほら、あれなの。夏休みの宿題、まだ終わってなくて」
たじろぐ妹に、開いた口が塞がらない。
大丈夫なんだろうか。猶予はあと三日だ。まあ終わらないことはないと思うけど。
「というわけで、二度寝するから。おやすみ、お兄ちゃん」
「おう……じゃねえよ、一瞬で矛盾するな。さっさと宿題をやれ」
「ぐーぐー」
瑠璃はすっぽりと布団を被ってしまった。まるで、甲羅に引っ込んだ亀。
これまたあからさまな狸寝入り。まあいいか。これ以上グダグダやり取りするのも面倒だし。本人がいいならそれで。
……寝てる暇あるなら部活いけよ、と思うが。それこそ本当にサボリだろ。
深町への土産話ができたところで、俺はすみるりの部屋を後にした。本格的に寝てる奴もう一人いるが、それこそ俺の管轄外。まともに相手してたら、さらに十数分時間が無駄になる。
「いいの、二人起こさなくて」
リビングに戻ると、五十鈴がソファに座っていた。一応、身だしなみは綺麗に整っている……服装は別として。
「大丈夫だ、問題ない……悪かったな、起こしちゃって」
「? 私を起こしたの、オーガイだけど」
離れたところで食事する飼い猫を一瞥して、五十鈴は不思議そうに首を傾げた。
そのオーガイを部屋に入れたのが俺なんだが……まあ黙っておこう。知らぬが仏だかなんとか。
しかし、どうやってオーガイは五十鈴を起こしたんだろう。それがすみるりにも通用すれば、俺も少しは楽できるのに。
「朝飯、食っててよかったのに」
「待った方がいいかな、と思って。――それで、いつ出発するのかしら」
「……何が?」
今度は俺が疑問を感じる番だった。眉をひそめて、奴の顔をじっと見る。
さすがに今日は何も約束した覚えは――
「弓道部の見学に行くのでしょう?」
なるほど、今約束ができたか。しかし、乗ってくるならあのとき言えばいいのに。
部活仲間の相変わらずのポーカーフェイスに苦笑しながら、俺はキッチンへと足を向けた。
※
休みだというのに、学校全体は活気に溢れていた。校庭だから、なおさらそれが伝わってくる。
「五十鈴は一年ぶりくらいか」
「うん。根津君は?」
「半年くらいだな。一月に辞めて以来だから」
まさかこいつと一緒に道場を尋ねる日が来るなんて。知り合いたての頃はもちろん、文芸部に入部した時ですら考えもしなかった。
なんだか、不思議な感じだ。思い返してみれば、この道を誰かと一緒に歩くのは初めてのような……いや、やめよう。これじゃあまるで、俺が部活で浮いていたみたいじゃないか、まったく。
的場の裏側が見えてきて、ようやく懐かしい気分が湧いてきた。来る日も来る日も、この先の射道を往復したもんだ。申し訳程度の緑のネットが、通行路との境目。足元のコンクリートがなにか別に変るわけでもなし。
ここまで近づいて、俺はある違和感に気が付いた。他の部に比べて、道場方面からの賑わいが薄い。
今日、本当に練習しているんだろうか。今朝の瑠璃の態度が、ふと頭の中に浮かぶ。なんだか、とても奇妙な感じだったんだが。
例のネットを潜り抜けるころに、ようやくその正体が判明した。
「あれ、深町さんよね」
「みたいだな」
ここからだと、射場の様子だけでなく道場内全体がよく見える。慣れるを通り越して、飽きるほどに見てきた風景。
今そこには、胴着姿が一つだけしかなかった。射場の真ん中に位置取り、今はちょうど会――矢を放つ前の最終段階に入っている。
「よしっ」
立ち尽くしているところ、一本の矢が的の中心付近に突き刺さった。
反射的に、決まりごとの掛け声を叫ぶ。
すると、射場の人影が少し揺れ動いた。
どうやらちょっと驚かせてしまったらしい。
向こう――深町は次の矢を番えることなく、じっとこちらの方を見ている。
「さすが元弓道部員。素早い反応」
「まあな。――でも余計だったかも」
小さく言葉を返して、再び道場の方へと歩き出す。
それをきっかけにしてか。深町もまた矢を射るのを再開する。
結局、「よし」を言ったのはその一回だけ。別に気を遣ったわけではなく、深町は残った矢を全て外してしまったからだ。
……ううん、変な緊張を与えてしまったかもしれない。大会なんかだと、ギャラリーはかなり多い。見られることにはそれなりに耐性はあると思うけど、こういう状況だと逆に意識するのも無理はない。
深町が射場を出るのを見守ってから、俺と五十鈴は道場の中へと上がった。向こうはちょうど
「ちわっす」
「失礼します」
「あ、はい。ええと、こんにちは。根津君と、あの、五十鈴さんも」
深町のやつ、なんだかすごい動揺しているような……。弽をしまう手つきもたどたどしいし、笑顔もどこかぎこちない。その目は特に五十鈴の方へと向けられていた。
そういえば、五十鈴が来ることを伝えるの忘れていた。
部活見学のことは、昨日のうちに大方詰めてあって、そもそもこいつの動向は俺だってさっき知ったくらいだ。
「悪い、勝手に五十鈴を連れてきて」
「い、いえ、大丈夫です。ただちょっとびっくりしちゃっただけで」
「そういえば、今日は深町ひとりなんだな」
「ええ、まあ、その……」
言いにくそうに、彼女は顔を下に向けた。そして、そのまま黙り込んでしまう。
道場に気まずい沈黙が広がっていく。三人という少人数、うち一人は極度の無口を誇るので無理はないことかもしれない。
果たしてこれはどういうことなんだろう。静けさの中、俺はふと現状について考えていた。
元々今日は練習日じゃなかった。一番の可能性はこれだ。すると、
でも、だったら深町はどうして今日を指定したんだろう。
俺を他の部員と合わせたくない理由がある――考えて、ちょっとだけぞっとする。自覚はまるでないんだけどなぁ。
「あの、根津君」
思い悩んでいると、左の袖をぐいっと引っ張られた。
「なんだよ」
「私、部室に用事があるのを思い出したわ」
「……今日、休みだろ」
「休みでも、よ。――ごめんなさい、深町さん。ちょっと行ってきます」
「あ、はい。行ってらっしゃい……」
一礼してから、五十鈴はそそくさと部活を出ていく。
なんなんだ、いったい……そういうことなら早く言えよ。校舎、完全に通り道だったのに。
まあ忘れていたのならしょうがない、か。もしかすると、去年の部誌の件だって本当に――なわけないか。
射場から見えるあいつの後ろ姿を眺めながら、ちょっと顔を歪める。
「あの、根津君。わたし、ちょっと矢を回収していきますね」
そういうと、深町は柔らかな身のこなしで立ち上がった。改めて見ると、なかなかに胴着姿が絵になっている。
いきなり一人道場に残されて、俺はただ途方に暮れるのだった。
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