第73話 お誘い

 夏休みの定番となった、夕暮れの部室。月は替わっても、暑さは和らぐことはない。むしろ、日に日に増している。


「美桜先輩、今日も来ませんでしたね」

「仕方ないよ。おばあさまのことがあるから」

「ゆいちーによると、バイトにも来てないって」


 あの日、薫子先生は五十鈴に告げた。おばあさんが倒れて病院に搬送された、と。

 そのまま、二人は図書室を飛び出していった。残された俺と中野さんはひたすらに困惑しっ放しだった。


 あれからもう四日が経った。


「美紅先輩、『ゆいちー』って誰です?」

 のぞが不思議そうに首を傾げた。

「みおっちと同じところで働いてる、あたしの幼馴染さ。茶道部の部長でもある」


 なんとなく、遠い昔にそんな話をした覚えがあった。結局、本名はなんなんだろう、と聞き耳を立てながら心の中で思う。


 同じく、しばらく沈黙を保っていた三田村が、隣の友人に顔を向けた。


「ねえ、望海ちゃん。茶道部って、奏音ちゃんがいるところだよね?」

「だよー。そういえば、あっちも部長がぶっ飛んでて大変って聞いたような……」

「のぞ? 、っていうのはどういう意味かな」

「わかるでしょうに、あなた……あからさまに、後輩を脅かしたりしないの」


 いつも通りのやり取り。しかし、それがどこか寂しく感じてしまうのは、やっぱりあいつがいないからだろう。


 常日頃から無口だが、決して存在感がないわけじゃない。時折放つ一言には絶大な威力がある。ただ本を読んでいたり、何か書き物をしている時も、よくになっているのだ。


 普段ならもうひと盛り上がりくらいありそうだったが、部室に静寂がやってきた。最近は毎日のように、こんな調子だ。


 沈んだ空気を察知してか、部長がわざとらしく咳払いをした。


「まあともかく。花火大会の感想文発表会はまた延期、といことで」

「いっそのこと、なくすのはどうです?」

「その場合、こーすけ君のやつは今すぐここで読み上げることになるぜ?」

「理不尽すぎる……」


 途端に笑いが起こった。少しだけ室内の雰囲気が明るい方向に変わっていく。


 けれども、俺は物足りなさを覚えてしまうのだった。


「そっちもいいけど、三人とも部誌原稿の準備は進んでいるかな? 中間発表、休み終わる前にはあるからね」

「……いやなことを思い出させてくれるなぁ」

「望海ちゃん、まだ決まってないんの」

「うーん、なんとなあく見えてる気はするんだけど」

「言ってることだけは、一人前だな」

「そういう先輩はどうなんですか!」

 のぞにふくれっ面で睨まれた。


 実際の所、ろくに進んでいない。こうして部室に来ては、色々と考えてみるのだが、しっくりこない。

 先輩たちに相談したりもするが、どうもうまくいってなかった。


 最近になって読書の量こそ増えたものの、元々本が好きなわけでもない。

 もっともそれが一番の原因ではないのだろうが。事実、のぞは俺以上に文芸部向きじゃない性質なのに、前向きにアイディアを練り続けている。


 結局は、俺がしたいことが固まっていないのが、問題なのだと思う。


「おや、こーすけ君。もう帰るの? ずいぶんと余裕だねぇ」

「ええまあ。ちょっと用事があるんで」

「先輩が? 珍しいですね」

「一言余計だ」


 後輩の顔を一瞥してから、勢いよく立ち上がった。目に入った壁時計が示す時刻は、まだまだ下校に程遠い。


 いつもと違う雰囲気の部室を、やや気乗りしないままに出ていった。




          *




「――うーん、やっぱりね、和食がいいと思うのよ」

「ワショク? 例えば」

「肉じゃが?」

「アンタ、そればっかだな!」


 反射的に強まった語気に、その女は不服そうに頬を膨らませた。


「お姉ちゃんに対して、アンタとは何ですか! 菫お姉ちゃん、でしょ!」

「百歩譲って、姉貴だ」

「それでもいいや」


 なんなんだ、このひと……。早くも帰りたくなってきたぞ。


 人の多い、夕方の時間帯に大騒ぎするもんだから周りの目を惹いてしょうがない。端から見れば、きっと仲の良いに見えることだろう。


 これが例の約束。姉貴を対象とした、お料理教室。なぜこのタイミングかは、彼女に聞いてほしい。


「で、一応訊くが、どうしてそんなに和食にこだわる?」

「浩介君は中華。瑠璃ちゃんは洋食。となると、残るは和食でしょ?」

「……志だけは立派だな」


 あてるけるように、大きなため息をついた。それでも、姉貴の顔が曇ることはなかった。


 ああは言ったものの、和食と言われてすぐに思いつくメニューはない。我らが偉大なるマザーに訊けば、有用なものがゴロゴロ出てきそうな気もするが、残念ながら彼女は今海の外。

 連絡は取れるが、それには時差というものを勘定に入れる必要がある。


 ということで、ネット検索に頼ることにした。


「でもさぁ、照り焼きってなんかビミョーな気がしない?」

「照り焼きを出す料理人全員に謝った方がいいぞ、姉貴」


 相談の結果、鶏の照り焼きと煮物を作ってみることに。レシピに合わせて、次々とカゴの中に食材を入れていく。


 調理実習で依然、ぶりの照り焼きを作ったことがあった。その時に、割と難しかった覚えがある。周りも結構、苦戦していた。


「さて、あとは」

「ちょっと! どうしてお総菜コーナー?」

「失敗した時のリカバリーは必要だろ。リスクマネジメントってやつだ」

「むっ、どういう意味かな、それ!」


 無論、俺も手伝う……もとい指導に当たるつもりだが、いかんせん専門外。正直、何が起きても不思議じゃない。俺はちょっとだけ、この根津菫という女が黒魔術を使えるんじゃないかと疑っていた。


「――あれは」


 姉貴とやや揉めていると、近くを長い黒髪の女が横切った。その横顔にはしっかりと見覚えがある。


「五十鈴?」

「根津君…………こんにちは」

「あ、ああ。こんにちは」


 困惑する俺をよそに、彼女は丁寧に頭を下げてきた。


 まさかこんなところで会うとは思っていなかった。いや、正確に言うならば、このタイミングで、というべきか。

 元々、俺とあいつの生活圏はやや被っている。これまでも何度か、このスーパーはもちろん、図書館なんかでもこいつと遭遇した。


 今日もあいつは制服姿だった。学校には来てないはずなのに。浴衣以外に、私服姿を見た覚えがない。

 見たところ、いつもの姿と変わった様子はない。不愛想な表情、姿勢の良い立ち姿。右手には、弁当の入ったカゴ。


「ねぇ、浩介君。どなた?」

「……根津君の妹さん?」


 初対面同士の女二人から、同時に疑問が飛んできた。とりあえず、後者の方はこのうえなく面白い。


 ちらりと、妹(仮)の様子を窺った。ぴくぴくと、眉が動いている。かなり強張った表情。


「こいつは、五十鈴。何度か話したことあるだろ。文芸部の副部長だ」

「ああ、なるほど。この娘が美桜ちゃんね」

 菫ちゃんの表情が和らぐことはない。

「で、五十鈴。こいつは妹の――」

「浩介君。流石に怒るわよ?」


 隣から凄い圧を感じる。冗談が過ぎたと即座に反省した。まだ死にたくはない。


「この方は、僕の偉大なお姉さま、根津菫です」

「……お姉さん?」


 五十鈴は不思議そうに首を傾げた。気持ちはよくわかる。その小柄な体格と、童顔は、見事に姉貴の実年齢とミスマッチだ。


 ただしこの場においては、少し空気を読んでもらいたい。姉貴は幼く見られることをとても嫌う。彼女の中では、自らは立派な大人の女性。頼りになる根津家の長女なのだ。


「そうです、姉です! どこからどう見てもそうでしょう?」

「落ち着け、菫姉。初対面のやつにそんな食って掛かるな。身内として恥ずかしい」

「そもそも、あなたも今、誤解させるようなこと言おうとしたわよね」


 姉貴にぎろりと睨まれた。あんなのほんの冗談だというのに。

 その沸点の低さは、さすが瑠璃の姉。いや、瑠璃が姉貴の妹なのか。今この場にいない、もう一人の兄妹に思いを馳せる。


「悪いな、五十鈴。騒がしくて」

「ううん。――そう、この人が根津君のお姉さん」


 真剣な表情で、五十鈴は姉貴の顔を見つめる。まばたき一つすらしない。その頭の中でどんな考えが広がっているのか、まったくもって不明。


 なんとなく、不穏な雰囲気が辺りに流れ始める。


「美紅先輩たちがよく言ってます。とてもすてきな先生だって。いつも、根津――浩介君にはお世話になってます」

 深々と、彼女は頭を下げた。

「……うん。そうなの。浩介君、美桜ちゃんってなんだかとってもいい子そうね」

 とても単純な菫ちゃんなのであった。


 ここまでのところ、五十鈴の様子はいたって普通。てっきり、祖母が倒れたということで、塞ぎこんでるとばかり思っていたのに。

 そんな姿を見て、俺は少しだけほっとした。


「それで美桜ちゃんも、お夕飯のお買い物?」

「はい」


 ちらりと、姉貴は五十鈴のカゴに視線を移した。


「……ねえ、美桜ちゃん。今、家で一人なのよね? 浩介から聞いたわ」

「おばあちゃん、まだ入院してるから」

「よかったら、今晩うちでご飯食べない?」


 飛び出した姉の一言に、俺は耳を疑った――

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