第71話 二つの団欒
きっとそれは花火大会という特殊な空間が持つ、不思議な魔力のせいだったかもしれない。
「……いやぁ、すごいね、この一文」
「ですよね。我ながらよくできたという自負はあります」
「うん、書き直し」
満面の笑みで、部長は四枚の原稿用紙をつき返してきた。
夏休みということで、文芸部室は毎日開放中。水曜日といういつもは部会がない日でも、こうして部員たちは揃っている。
三年生のも含めて、講習はすっかり終わった後の夕方。ちなみに、一二年は今日が講習最終日だった、受験生はまだまだ先が長いらしいが。
こんな時間でも、部室は暑い。窓を開けても、扇風機をつけても、この暑さが和らぐことはない。職員室に討ち入りして、クーラーを強奪することを本気で検討したくなる気分だ、
俺はデスクに陣取る部長の前に立っていた。彼女の傍らでは、三幹部が一人静香先輩。締め切り日まで、まだ二日あるが、俺は完成したばかりの感想文を提出したわけである。
「厳しいねぇ、美紅ちゃん。わたしは結構書けてると思ったよ。こういうの、初めてだったんだよね、浩介君」
「ええまあ。厳密にいうと小学生以来ですけど、作文」
「なのに、これだけ書けるのは立派だよ!」
眼鏡の奥の瞳が大きく見開いて、静香先輩はぱっと手を合わせた。
「いやぁ、それほどでも」
こうして褒められると、悪い気はしない。部室や家で苦悶しながら、無理して書き上げた甲斐があったというもの。
この五日間のことは、二度と思い出すことはないだろう。特に家でのことは。
「調子に乗ってるね~、こーすけ君。まあ変に苦手意識を持たれるよりいいけどさぁ」
美紅先輩は唇を尖らせて、椅子にふんぞり返る。ぎぎっという軋む音が僅かに室内に響いた。ニコニコ顔のもう一人の三年生とは、全く対照的な反応だ。
「美紅ちゃん、さっきからどうしたの? なんか、浩介君に当たり強くない?」
「そんなに最後の一文がお気に召しませんでしたか、部長殿」
「いや、あんな風には言ってみたもののね、問題はそこじゃなくて。『ノリと勢いだけで行動するトラブルメーカー』ってのは、あたしのことだよねぇ?」
ぴくぴくと、その眉が動いている。
俺は顔を背けると、下手くそな口笛を披露することにした。つい筆が乗って、、そんなことを書いたかもしれない。あるいは、深夜テンションともいう。
やはり推敲をするべきだったか。何のことはない、ノリと勢い云々は俺にも言えることじゃないか。心の中だけで、凄く反省はしておく。
「それはですね、必要不可欠な脚色というものでして……」
「脚色……じゃあ本心ではないと」
「アタリマエジャナイデスカー」
「そんな明らかに動揺されると、傷つくんだけど?」
「まあまあ美紅ちゃん。あながち間違いなわけでもないし、いいでしょう?」
「し、しずかっちまで…………」
がっくりと落ち込んだ様子を見せる美紅先輩。俺と静香先輩はどちらともなく、声を出して笑った。
「先輩たちだけ盛り上がってずる~い! あたしも浩介先輩の作文、読みたいです!」
「のぞはまず自分のを完成させなさい。仕上がってないの、君だけだぜ?」
「あれ、紫音は?」
「私はもう、月曜日に出しちゃった」
「はやっ! そして、裏切りだ!」
意味不明なことで、文芸部の活発印は盛り上がっている。そんなやつの前には、半分も埋まっていない原稿用紙。
人を見た目で、というのはわかるけど、のぞは作文苦手そうだもんな。それでも、何とかしようとするのは立派だ。たとえこの二日、部室で呻きまくったとしても。
「しおしおのはねぇ、よかったよ~。文章表現が巧みで、情景がありありと浮かんでくるというか」
「紫音ちゃん、いつも読書してるものね。さすがの語彙力だわ。先輩として、見習わなくちゃ!」
「そ、そんなに誉められるようなことじゃ」
小動物系後輩は、顔を真っ赤にしてかぶりを振った。
いやぁ、三田村は本当にまっとうだなぁ。この部で、唯一癖のない人物だと思う。静香先輩、たまにおかしなとこ見せるし。
照れる御田村を、未だ課題を残している友人がイジり始める。そんな二人を、俺は微笑ましく思っていた。仲のいい時の、うちの姉妹を彷彿とさせて。
「私もぜひとも根津くんの作品、読みたいわね」
和んでいたら、後ろから声をかけられた。
「そんな真面目腐った表情で言うのはやめろ」
五十鈴がピンと背筋を伸ばし立っていた。きっちりとリボンを締め、ブラウスの袖は伸びたまま。この暑さでも、こいつは決して制服を気崩さない。
左肩にはスクールバッグがかかっていた。
「もう帰んのか」
「うん、バイト」
「夏休みだってのに頑張るねぇ」
「夏休み、だからよ。――それじゃあ失礼します」
ペコリと頭を下げると、彼女は颯爽と部室を出ていった。
「ああ、そうだ。根津君、明後日の図書当番忘れずに」
と思ったら、すぐに彼女は戻ってきた。忙しい奴め。
「……初耳だ」
「ならよかった。当日、連絡入れるね」
「いらない」
「絶対する」
もう一度頭を下げて、再び部屋を出ていく五十鈴。ごくまれに歯車が狂ったようになるのは、正直ちょっと面白い。いつもの幹事とのギャップで尚更。
遠ざかっていく足音に、少しだけ恨みが湧いていく。教えてくれなければ、登板をサボれたのに。でも、その後に待ち受ける懲罰を考えると……謎のジレンマに襲われてしまった。
しかし五十鈴のやつ、初めから俺の作品なんて読む気はなかったんじゃないか。けったいなこといいやがって。いや、本気で思っていたとしても、あいつにだけは死んでも読ませないけど。
同級生相手は、なんかねぇ。先輩にはすんなりと見せれたけどさ。なんとなく、五十鈴もそんな気だと感じた。
もっとも、昨年の部誌の捜索は諦めたわけじゃない。そして今は、彼女の文章を読む最適な方法がすぐ近くにある。
「先輩、五十鈴ちゃんのは?」
先の発言から、当然あの女も作文は提出済み。
「もちろんあるけど、これは品評会でのお楽しみってやつさ」
「ちっ、残念だな……って、部長。今、なんとおっしゃいました?」
思わず耳を疑った。それくらいに、美紅先輩の発言はそれくらいのインパクト。鈍器で後頭部を殴られる……当たり所が悪かったら死ぬやつである。。
にっこりと頷く彼女に、部室の中で俺ともう一人の悲鳴が良く響くのだった――
*
それはあたかもテロのようだった。
大げさだろうか。いや決して大げさではない。
根津家にとっては、命の危機にかかわるほどの大事件だった。
「なにしてやがりますかね、このダメ姉は!」
「な、なにも、そこまで怒らなくてもいいじゃない……」
かすかに涙ぐんでいる我らが菫姐さんだけれど、可哀想だという気持ちは微塵も湧かない。日はとっくの昔に止めたというのに、鍋は黙々と毒々しい煙を吐き出している。
異臭のするリビングで、姉貴は星座をしている。ちっちゃい身体をより小さくしながら。
俺はその前で腕を組んで仁王立ちをしていた。そろそろ明かりが欲しくなってくる時間帯での、姉弟水入らずのひととき。
『ごめんなさい、夕飯当番代わってください』
そもそもの発端は、瑠璃のこのメッセージだった。
それ自体が悪いわけではない。以前にも何度か似たような事があった。
問題だったのは、これが家族チャットに流れてしまったこと。そして、俺がそのメッセージに気付くのが遅れたこと……いや、俺に落ち度はないと思うけれど。結果からすると、やはりちょっとの責任は感じる。
『わたしにまっかせなさい!』
あまり時間を置かないうちに、大胆な犯行予告が流れていた。
「言ったよな。勝手にキッチンに入るなって。例外は?」
「…………飲み物飲むのとチンするだけです」
「よくわかってんじゃないか、偉いなぁ、菫ちゃんは」
眉が痙攣するのを感じながら、たっぷりと皮肉を込めた。
「だったら、どうしてこんなことをするのかな」
慌てて帰宅した時には遅かった。キッチンは大惨事。この鍋を筆頭に、異常事態があちこちに。さらにゴミまで転がっているものだから、姉貴がしていた行為を料理と呼ぶことはできない。サバイバルクッキング――まじでジャングルにでも放り込んでやろうか、この女。
「だってテスト休み貰ってバイトもなかったし。たまにはお姉ちゃんとしての威厳というやつを」
「頭のいいアンタなら知ってると思うけど、覆水盆に返らず、だ。失ったものは元には戻らない」
「うぅ、浩介君、ひどい」
「ひどいのは他でもない、菫ちゃんですけどね。食材を無駄にしやがって」
その言葉に彼女ががっくりと項垂れた。
少しだけ怒りも収まってきた。久しぶりに、姉貴に対してこんなに優位に立てた気がする。かといって、もう二度とこんな事態はごめんだが。
一つため息をついた。俺がやらないといけないことはもう一つ残っている。夕飯の用意、ひいては物体Xの後処理。
瑠璃が帰ってくる前に、なんとかしたい。また不要な争いが生じることは目に見えている。
「姉貴、一応聞くけど、何を作りたかったんだ?」
「肉じゃがを……お母さんに昔聞いたのを、再現しようと四苦八苦……」
なぜうろ覚えでやるのか、理解に苦しむ。このご時世、レシピなんてネットにごまんと転がっているだろうに。中には怪しいものがあるから、それで十分だとは言わないが。
ともかく、そういうことならばリカバリーはそう難しくない。そもそも最初から、その案は頭にあった。
俺はキッチンへと急いで戻った。戸棚をごそごそと漁り、目的の物を探す。この間の安売りで、買い置きをしてあったはず。本当なら明後日のつもりだったのに。
「それ、カレーですか?」
「正確に言えばカレールゥ。ま、大抵はうまい感じにまとまるだろ。後は味を調整してやればオーケーだ。……たぶん」
「本当に、ごめんなさい、浩介君。迷惑かけてばっかりで」
「謝るんなら最初からしなきゃ……っていうのは冗談だ」
悲しそうな顔が目に入って、俺は慌てて言葉をしまった。その気持ちは尊重するべきものだ。情状酌量の余地は、まだ少しは残っている。
しかしこうなると、前から考えていたように、ちゃんと料理を教えた方が逆に安全かもしれない。姉貴の世話焼き癖は、死んでも治るものじゃないから。
「なあ、姉貴。今度料理、覚えてみるか?」
「どういうこと?」
「一緒に作れば大丈夫だろって話だ」
「……浩介君、いいの?」
うるうるとした瞳。やっぱり、とてもじゃないが姉としての威厳は皆無。もちろん、頼りになる部分もあるけれど。
「ただいまー……って、なにこの臭い!」
……早かったな、意外と。味の調節、さらには後片付けに時間を食い過ぎたのが原因かもしれない。
にしても、玄関に臭いがまだ残っているとは。消臭剤を振りまくべきだったか。しかし、妹は意外とあの匂いが苦手だったりする。
だから、初めから八方ふさがりだったのだ。
「ちょっと、おねえちゃんっ!」
「ひぃっ!」
そばで調理の家庭を見守っていた菫ちゃんは、その声を聞きつけて、慌てて俺の背中に隠れてしまいましたとさ。
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