第62話 暗躍する妹

 土曜日。朝食も済み、俺はベッドに寝そべって漫画を読んでいた。家事をするのは、家の中がもう少し落ち着いてからにしようと思ってた。午前中は何も用事がない。

 だが――


「ねー、お兄ちゃん。あたしのグローブ、どこだっけ?」


 勢いよく扉が開く。部活に行く格好の瑠璃がずかずかとそのまま侵入してきた。


「おい、ノックしろよ」

「や。めんどい。別にいーじゃん、兄妹なんだし」

「兄弟でもプライバシーはあるぞ。俺がもしノックせずに乱入したら――」

「ボコボコに殴る」

 ぐっと、瑠璃は得意げな表情で拳を握った。


 無理だと思う。久しく物理的な喧嘩はしてないが、まず体格に差がありすぎるし。身長差、驚異の三十センチ(目算)。さらに向こうは子どもっぽい体系。あれのどこに、こちらを一方的に殴れる筋力があろうか、いやない。

 まあ、そんな生意気を言う妹を少しは微笑ましく思う。大部分は、その理不尽さに怒りを感じているわけだが。

 

「物置にないのか?」

「ないから聞いてんじゃん」


 何を当たり前のことを、という風に彼女は鼻を鳴らした。奇遇だな。そろそろ、俺の怒りも頂点に達しそうである。


「姉貴は?」

「今お皿洗ってるから邪魔しないで―って」

「へえ。自主的に、とはあの女にしては珍しいな。皿、割ってなかったか?」

「うん」


 パリン――無情な音が、俺の部屋まで聞こえてきた。そして、甲高い女の悲鳴が遅れて上がる。俺と瑠璃は顔を合わせて、微笑み合った。


「きっとお前らの部屋の押し入れも探したんだよな。だったら俺んとこか」


 のっそりと腰を上げる。すると早くしてよ、と急き立てられた。うちのお姫様じじょは今日も絶好調だ。そして大魔王ちょうじょもまた平常運転。父さん、母さん、根津家は今日も平和です。

 心の中で遥か遠い異国にいる両親に想いを馳せつつ、俺は押し入れの戸を開けた。埃くさい匂いが一気に襲い掛かってくる。そこには、いくつかの段ボールが鎮座している。大部分が未開封だ。


「で、これから部活なのに、グローブなんか何に使うんだ?」

 箱をリズミカルに取り出しながら俺は訊いた。

「別にお兄ちゃんには関係ないでしょ」

「テンプレ的セリフをありがとう。――あった。これっぽい」


 意外と目当ての箱はすぐに見つかった。野球用具、とでかでかと書いてある。パパっと埃を払うと、妹がうっ、とうめき声を漏らした。構わずその封印を解く。

 中には、数個のビニール袋が詰め込まれていた。そのうちの一個を適当に掴み上げる。――当たりを引いたらしい。確かな手ごたえがそこにはあった。中を見ると、グローブとボールが入っている。


「悪いことには使うなよ」

 俺はその袋を妹に差し出した。

「なに、悪いことって?」

「スーパーのバナナとすり替える、とか?」

「バカじゃないの?」


 またしても、彼女は傲慢そうに鼻を鳴らす。お兄ちゃんはただひたすらに悲しくなる。やりきれないぜ、まったくさぁ……。なんか一つ、えげつないくらい重い段ボール箱あったし。心も身体もボロボロである。


「ねえこれ、丸ごと借りてってもいい?」

「いいぞ。今日のところは、使う用事ないからな」

「……あれでも、文芸部でソフトボールするんじゃないの?」

「それは部の道具を使うから――って、なんで知ってんだ? のぞか。いや、三田村か?」

 俺の問いに、瑠璃はしまったという顔をしてそっぽを向く。


「別にお兄ちゃんには――」

「もういいからそれは。ほれ、早く行かないと遅刻すんぞ?」

「わっ! ホントだ! あたし、行かないと。――ありがと、お兄ちゃん」

「おう、頑張れよ」


 ぼそりと恥ずかしそうにお礼の言葉を残して、瑠璃は俺の部屋から出て行った。少しして、玄関の扉を開閉する音が耳に届く。

 あいつは素直なんだかひねくれてんだか、よくわかんないな。一連の妹とのやり取りに微妙な気分になりながら、俺はひとまずリビングに急ぐことにした。





        *





 ――ということがあり、俺は今視界に入った光景を決して偶然のものと思えないでいた。文芸部で今日使う予定の公園の広場で、弓道部と思しき二人の女子がキャッチボールをしている。片方は、高校生に思えないくらいに小柄だ。

 その小柄な方は身体を公園の外側に向けていた。やや距離が離れてはいるが、向こうもしっかり俺たちのことを視認できたらしい。一度ボールを受け取ると、そのまま小走りに近づいてきた。


「あら、お兄ちゃん。奇遇ね」

「こ、こんにちは、根津君」


 瑠璃はあまりにも白々しく、深町はあまりにもぎこちない。結論、こいつらに隠し事は無理だ。怪しい匂いがプンプンする。

 乗っていた自転車を見覚えのある二台の自転車の近くに駐めて、俺は二人に近づいた。文芸部員の姿はない。俺が一番乗りらしい。


「ああ、こんにちは、深町。――さて、瑠璃。ちょっとこっち来い」

「ええっ! い、いやだよぅ。恥ずかしいから止めてってば――」


 ごねる妹の腕を強く引っ張る。不安になる程にか細い。ちゃんと食ってんのか、こいつ。と思ったが、その食事の面倒を見ているのは半分は俺でもあった。

 

 深町から距離を取ったところで、愚妹を解放してやる。ちらりと見ると、一人残された我がクラスメイトは心配そうな表情で俺たちのことを見ていた。彼女に背を向ける形で、俺は妹と対峙する。

 瑠璃はかなり不服そうな表情をしていた。

 

「で、どういうことだ?」

「どういうことって言われても。元々、先輩と部活終わった後キャッチボールしようって話になってたの。あたしも先輩もソフトボール選択だから」

「で、それで来たのが俺たちの使うつもりだった公園だった、と。そんな偶然あり得るか?」

「現にこうしてあるんだから仕方ないじゃん。ここは学校から近いし、他のちゃんとした球場は先客がいるし、こうして一緒になってもなんの不思議なこともないでしょ」

 ふふんと、瑠璃は得意げに笑ってみせた。


 ……まるで用意していたかのような反論だな。だが、それこそ偏見というもので。疑惑は依然として残っているが、ひとまずはその筋の通った説明に納得することにした。


「何の話してたの、瑠璃?」

 戻るなり、深町が自らの後輩に話しかける。

「今日の晩御飯の献立の話です。お兄ちゃん、海老ピラフが食べたいって」

「根津君は、その、海老ピラフが好きなんですか?」

「いや、別に。そもそもさっきそんな話してないし」

「ちょっとお兄ちゃん、空気読んでよ!」

「それは流石に横暴すぎるだろ……」


 我が妹の身勝手さに、俺はほとほと呆れていた。これは菫ちゃん案件だ。一度がっつり絞られるべき。


 なんとなく、気まずい沈黙が広がる。深町も似たような気持ちを感じているらしかった。しかし、根津瑠璃だけは一人にやにやしている。


「ほら、お兄ちゃん。翠先輩とキャッチボールでもしたら?」

「……なんでだよ?」

「みんなが来る前に身体動かして方がいいじゃん。ウォーミングアップってやつだよ」

「いやそれにしたって、どうして俺が――」

「いいから、いいから!」


 すると、瑠璃が持っていたグローブを俺に押し付けてきた。ソフトボールが中に入っている。そして次に、深町の手を引っ張って距離を取らせる。

 釈然としないながらも、俺はグローブをはめようとするが、すぐにそれが不可能だということに気が付いた。これは瑠璃のもの。手のサイズが流石に違い過ぎた。

 それを伝えると、今度は瑠璃が別のグローブを持ってくる。それは俺のではなく、親父のものだった。父は大学までずっと野球を続けていたという経歴がある。


「お前はやんないのか?」

「うん。疲れた」

「……はあ。――まあいいか。いくぞ、深町っ!」


 ゆったりと全身を使ってボールを放る。山なりに、深町の方に向かっていった。それはすっぽりと彼女のグローブに収まる。


「……あれが俺のグローブじゃねえか!」

 思わず俺は妹の方に顔を向けた。

「仕方ないでしょ。ちょうどいいサイズだったの。お姉ちゃんのは、あたしのとあんまりサイズ変わらなかったし」

「小学生シスターズが……」

「なんか言った?」

「なんでも。――バッチコーイ!」


 再び深町の方に身体の向きを戻す。そして大きく両手を上げた。軽く振ると、深町が振りかぶり始めるのが見えた。

 ふわりとした柔らかい軌道を描いてボールが飛んできた。やや右に逸れぎみ。軽い足取りで回り込んで、俺はそれをキャッチする。


「ご、ごめんなさい……」

「いいよ、気にすんな。どっかの下手くそよりよっぽどましさ」

 五十鈴と初めてキャッチボールした時はこの比ではなかった。


 そのままボールのやり取りだけを繰り返す。いつの間にか、瑠璃はベンチに座っていた。静かな土曜日の昼下がりの公園に、ボールがグラブに収まる小気味いい音だけが響く。


 やがて――


「あー! 瑠璃だ!」

「こんにちは、瑠璃ちゃん」

「のぞ、それに詩音も。奇遇だねぇ」

「え、何言ってんの? 昨日の夜、今日どこで練習するのか聞いて――」

「ちょっとそれは!」


 ……やっぱり故意じゃねえか。ようやくやってきた文芸部の後輩と、我が妹との会話が風に乗って届いてくる。あいつ、いったいどういうつもりなんだか。一瞥してみるが、生憎一年生同士のお喋りに花が咲いているようだった。


 しかし、あの二人が来たということはそろそろ二時になるということか。先輩たちは部室から荷物持ってくるから、遅れると言っていたが。


 と、そんなことを考えていたら――


 ブルル。ポケットの中でスマホが震える。それは瞬間的にではなく、少し続いた。深町からボールを受け取ると、俺は彼女に向かって、ちょっと待ってくれと叫んだ。

 そしてスマホを取り出してカバーを開けると、やはり着信が入っていた。相手は……


「もしもし、根津君?」

 聞き心地のいい、澄ました感じの声が聞こえてくる。

「五十鈴か。どうした?」

「……道に迷った」


 そういえば、あいつ。方向音痴のきらいがあるんだった――



 合流したのは、美紅先輩にアイスを奢ってもらったコンビニ。ってか、ここまでこれたんならあと少しだと思うんだが。

 

「てか、なんで俺なんだよ?」

「だってキミ、一人だったでしょ?」

「……どういうことでしょう?」


 彼女が言うには同学年同士一緒に来るだろうから、片方に連絡すると迷惑がかかるんじゃないかと思ったらしい。謎の気の使い方だと思う。

 呆れながら、俺は彼女を連れて再び公園に戻ってきた。すると、もうすでに先輩方もやってきていた。みんなでキャッチボールをしている。そこにあやや先輩の姿はいない。誘ったら普通に断られたらしい。


「おっ、来たねぇ」

「お疲れ様です、静香先輩。美紅先輩」

「うん、おつかれさま~。――美桜ちゃんも」

 ぺこりと、五十鈴は頭を下げた。


 俺たちが近づいていくと、自然と全員が集まった。そこに文芸部以外の姿があるのは、ちょっと違和感を覚えるが。


「そうだ、聞いたよ~。この娘、二人と同じクラスなんだって?」

 そう言って、美紅先輩は深町を指さす。

「じゃあほら、ユーも文芸部入っちゃいなヨ!」

 底抜けに明るいテンションで、文芸部部長は意味不明なことを言い放った。


 途端、一気にこの場に混乱が訪れる。ボールが二つばかり、地面を転がっていった気がするが、気にする者は誰もいなかった。


「……えっ! でもわたし、すでに弓道を――」

「ヘーキ、ヘーキ。うちは兼部オッケーだし。せっかくだから、妹ちゃんも」

「あ、あたしもですか!?」

「わーそれ、楽しそー」

 同調するのは、部長と同じ波長をもつ一年生。


「いやいや、なんでいきなり勧誘してんすか、美紅先輩? もう十分メンバーは揃ってるでしょ」

「確かに、今の文芸部員は六名。しかし、アタシとしずかっちは三年生。来年には消えてなくなる運命」

「なんか大げさに言ってるけど、普通に卒業するだけだからね」

 すかさずツッコミを入れた静香先輩に、美紅先輩は不服そうな顔を見せる。

「もうっ、水を差さないで! ――ともかく、年度が替わったらまた勧誘に追われることになるわけよ」


 どやっと誇らしげな顔をする文芸部部長。聞いている俺たちには、微妙な空気が広がっていく。理論はわからないこともないが、飛躍し過ぎというか……。


「でも先輩。なんにせよ、来年は来年で一年生を入れないといけないわけですし。今ここで余裕を持たせる必要はないのでは?」

「――はっ! そこに気付くとはやはり……!」

「はいはい。この浅はかな娘は放っておいて、練習しよ? 二人もよかったら一緒にどーぞ」

「えっ! いいんですかぁ?」


 静香先輩の提案に、わざとらしい声を上げる妹。その猫なで声におれの背中には悪寒が走ったぞ……。


 何はともあれ、弓道部の二人を交えて、文芸部の何度目かの球技大会練習は幕を開けるのだった。

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