第9話 「見えない」


 父と出かけたことは少なかった。それには父が短命だったからという理由もあるが、俺が個人的にうまく関係を築けていないからだったと思う。

 

 思えばあの時通った病院は、珍しい父との外出だった。やけに白い部屋で医者は自律神経がどうのと話したが、当時の俺には意味が分からなかった。今だってはっきり分からない。とにかく雨が降ると俺は著しく体調を崩した。父は帰りに「気をつけろ」と言ったが、俺は何をどう気をつければいいのか分からず、曖昧にうなずくことしかできなかった。


 本当に気をつけるべきなのは父だったのだ、と思う。父は過労で疲弊したまま家路を急ぎ、事故死した。


「しょうらいのゆめ」のすぴーちの練習をするから早く帰ってきて、と俺は父に言ったのだ。


 父を殺したのは俺だと思う。のちに、母親とアズサとリョースケは違うと言った。ユウはそうだ、お前も死ねと言った。



「わたしね、転校することになったの」


 その言葉を聞いたのは父の葬儀から少し経ってからで、さっきまで嘘みたいな晴天が広がっていたのに、すぐに黒い雲が広がってきたことを覚えている。俺は頭の端が痛くなってきて、うわごとのように「気をつけろ、気をつけろ」と連呼していた。彼女はそれが聞こえているのかいないのか、特に何も言わずに話を続けた。


「お父さんの会社のジギョーがうまくいってね、大きなシテンを外国に創ることになったの。一緒に海外で暮らさないか、って。だから、お別れだね」


「外国って、どこ」


「ドイツ」


 ドイツなんて国は知らなかった。アメリカとキューシューしか外国は知らなかった。


「いつ」


「あした」


「あした?」


 頭痛持ちの少年からすれば、その宣告は急すぎた。少年は何も考えることができなかった。今後の学校生活とか、もうあのピアノが聴けなくなってしまうこととか、自分は彼女が好きだったのかどうかとか、そういった類のことを考える余裕はなかった。頭痛は頭全体に広がり、父の顔が思い浮かんだ。俺は父に自分の将来の夢を聞いてほしかったのだ、とその時気が付いた。俺は作家になりたかった。今なら小説家と答えるだろう。だが自分が誰よりも小説家に遠い人間だということも分かっている。俺は泣き腫らした。


「泣かないで」


 彼女は俺の小さな肩に手を置いた。雨脚が強くなった。


「また会えるよ。さよなら」


 彼女はそのまま走り去ってしまった。追いかけようとしたが、頭痛と涙のせいで動けなかった。俺は何かから逃げるように近くの公園に駆け込み、ブランコに座った。デコボコした公園の地面には汚れた雨水が溜まり、大きな水たまりをつくっていた。


 その瞬間、誰かが駆けてくる音がした。彼女が戻ってきてくれたのだ、と思った。


「さびしくないよ、私がいるから」


 声だけは聞こえるのに、彼女の姿はどこにもなかった。


「どこ?」


「ここだよ、ここ」


 高く綺麗な声は彼女そっくりだった。でも、見えない。


「見えない」


 と俺は叫んだ。すると、公園の入り口がまるで歪んでしまったかのように何かの形をつくりだした。それが人の形だと気づくのに、時間はかからなかった。造形された彼女は俺のそばまで駆けてきて、にっこり笑って言った。その身体は透けていて、本当に笑っていたのを確認したわけじゃない。けれどあの時、彼女は俺を歓迎していたのだ。それだけは、それだけははっきり分かる。


「私ね、アズサ!」



 それが俺とアズサの、最初の出会いだった。

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