固有魔術が《屍術》だったから国外追放されたので『魔王』に成る

くろふゆ

プロローグ 高森柩の終点

第1話 最初で最後の最愛の人

 高森柩たかもりひつぎは、西暦二千年代の日本に生まれた。

 厳しくも尊敬できる父がいて、温厚で優しくて、でもときには叱ってくれる母がいて、そういう当たり前の幸せのような、それでいて尊いものを、彼は持っていなかった。

 家業は葬儀屋で、父から虐待を受けて育った。

 濃い痣や、痛々しい生傷が絶えない生活。

 母は柩が小学生になった頃、病気で死んだ。

 その原因は柩にあるらしい。

 柩を産んでから、母は身体が弱くなった。

 それが引き金となって、柩は父から虐待を受けていた。別段、母もそれを止めることはなかった。

 表面上は優しかった母の最期の言葉は「あなたなんて産まなければよかった」という呪詛だった。その呪いは後の彼の人生を蝕んだ。


 その頃から、放課後は近くの図書館にこもっていた。居場所のない家に帰りたくなかったから。殻にこもる毎日。無為に過ぎる時間。

 子育てと建築作業はよく似ていると思う。ちゃんとした基礎工事ができているからこそしっかりとした家が建つように、幼少の頃に両親に愛され幸福感に満たされることが健全に育つために欠かせない土台となる。

 柩にはそれが不足していた。両親に愛されなかった。必要とされていなかった。

 自己成長や、あるべき自分になりたいという欲求もなく、誰かに賞賛や尊敬もされず、家族や友人から愛情を得ることもなく、常に安心して生活することができず、挙句の果てには食べ物や睡眠すら不足していた。


 成長することのない未成熟な心と体。

 先の見えない深い霧の中を一人で彷徨っていた。自分なんて人間じゃない。誰にもその存在を認められない。感情のない人形のような姿で、人間みたいに擬態して生きていた。

 しかし、感情のない人形が人の真似事などできるはずもなく、歯車は狂いだす。


(俺のことなんて、好きになってくれる人なんていない。いるはずがない)


 ずっと一人で生きていくのだ。そんな卑屈な感情が心を占めていた。

 だから、何も願わない。何も望まない。

 希望なんて持たない。そうしないとつらいから。

 中学生の初期は、現実逃避のためにオタク趣味に走る。生きている人間の感情は理解できない。でも、創られたものなら共感できる。金がないからブームが去った少し前の中古の漫画にラノベ、小さなテレビで流行りのアニメを見ていた。

 その後、さらに悪化した父の虐待から逃れるために、本格的に武術を学び始める。通っていた中学校では空手部に入った。父の虐待に比べれば先輩のしごきは甘かった。


 翌年、中学二年生になった柩は、河原に腹の虫をぎゅるぎゅると鳴らし、餓死寸前で倒れていた奇妙な女に出会う。

 それが、後に柩の恩師となる運命の女だった。

 河原で出会った女は、薄く腹筋の割れた中国人で、名を凰紅花(フアン・ホンファ)といった。当時は二十歳で柩より六歳年上だった。

 燃えるような赤いロングヘアーを紫色の紐で高いところで結び、いつもポニーテールにして、ゆらゆらと揺らしていた。


 彼女の父は、中国の大きな武術一門の長であり、その影響もあって、紅花はあらゆる中国拳法の達人で、特に八極拳と八卦掌と形意拳と擒拿術を得意としていた。

 若くして、攻防共に優れた発勁と内功を誇り、敵の攻撃を受け流す中国拳法の《化勁かけい》――《てん》の技術は素晴らしかった。


 166センチ、59キロ、バスト89、ウエスト56、ヒップ87。

 武術家だからか知らないが、訊いてもいないのに身長と体重とスリーサイズを教えられた。そのときの顔は誇らしげだった。

 紅花の性格からして、単に自分はナイスバディだと自慢したかっただけだろう。

 紅花は中国の小学校で六年、初級中学校で三年、高級中学校で三年学び卒業し、大学(中国では高校という)へは進学せずに中国で勉学と鍛錬を積んでから日本に来たと聞いた。

 自分で日本語を学んでいたのと、親戚が日本人なのもあって日本語が喋れるそうだ。

 そんな紅花のもとで、柩は毎日のように吐いて気絶するまで鍛錬を重ね、その肉体はヒトの限界を超えた。きっかけを与えたのは、紅花の一言だった。


「お前には生きる理由がないんだな。だったら、私が一緒に見つけてやるよ。だからさ、そんな何もかも諦めたような顔してないでもっと強くなれ。誰にも見下されないくらい」

「誰にも、見下されない……」

「私の課す鍛錬に耐え切れず砕け散るようなら、所詮はその程度の男だったということ。そのときは潔く自害するのも選択の一つだ。だが柩、私はお前を信じている」


 それからは、毎日のように皮膚が裂け、皮が剥がれて血が滲むまで巻き藁に拳を打ち込み、滝のような汗を流した。鉄砂の入った袋を台の上において強く叩く、骨を再生しやすいように折って無理矢理強化し、体全身を熱した砂に叩き付け、皮膚を厚く硬くする。

 腹筋や内臓にまで激しい刺激を与えて鍛え上げた。


「柩! 実戦とは、全力疾走を数十分間続けるのと等しい! 実力が僅差の場合、最後にものをいうのはスタミナ、すなわち体力だ。走れ、走れ、走れ! 喉が涸れ、心臓が張り裂けそうになり、息ができなくなるまで! 無酸素状態での集中力を体に刷り込め!」


 柩は無我夢中で走り続けた。

 でも孤独じゃない。紅花が側にいるだけで温かった。

 努力は必ず報われる。そう妄信的でいられれば、どれだけ苦しくても努力し続けることが可能だ。

 ただ、その努力とは具体的に何を示しているのか?

 それは紅花の教えを守り、鍛錬を積むこと。

 報われるとは具体的に何を示しているのか?

 それは紅花に褒めてもらえること。優しく頭を撫でてもらえること。


「柩、お前は自分が死んでも誰も悲しまないと思っているだろうけど、私はお前が死んだら悲しいよ。だから、無理してあんまり私を心配させんなよ」


 紅花の言葉は本当に柩の心に響いた。親代わり、否、姉のように慕っていた。

 柩は紅花を見ていると、幸せなはずなのに、なぜか胸が苦しくなった。


「柩、お前は私のもとで変わる。変われる。まあ、まずは私のことを好きになるところから始めようか。この世界で生きるには、一人くらい大切な人がいないとダメだ」


 高森柩が中学を卒業して高校に入学した日、彼は紅花にファーストキスを奪われた。

 ぷっくりとした柔らかな唇を柩の口に押し付けると、紅花は奥に舌を入れてくる。

 紅花のほうが柩よりも背が高いため、頬を紅花の両手に包まれ、顎を持ち上げ無理矢理上を向かせられた。柩は少し背伸びしながらも、震える手で紅花の躰に縋る。

 奥まで舌を突っ込まれて唾液を絡ませられると、紅花のことしか考えられなくなる。


(初めてだけど、キスってこんなに気持ちいいんだ)


 紅花の躰がビクンと跳ね、甘い吐息を漏らした。普段は強い意志を宿している瞳は熱っぽくとろんとしており潤んでいる。柩の胸に熱いものがこみ上げてきた。


「もう、だめっ……ごめん、紅花。気持ち良すぎて、立っていられない」

「ダメだ。もっと。私は、お前を離さない」

「もう、十分気持ち……いいっ……か、らっ……んむっ! んん~!?」


 紅花になら何をされても構わない。むしろ求められることは嬉しい。

 でも、柩の躰は思っていたより、快楽に弱かった。


「ん? もしかして、こういうこと初めてか? どうりで女に耐性がないわけだ」

「そう、だけど……んっ! 紅花が、初め……て」

「じゃあ、お前の初体験は、すべて私のものだ」


 鼓動が速くなる。快楽の残滓が躰を巡り、力が抜けたところを紅花に支えられた。

 唇を離した紅花の舌先から、粘り気のある透明な糸が引く。

 躰のほうは参ってしまっていたが、愛されていると実感できて幸せだった。

 紅花が「お前が一つ大人になった記念だ」と言って、頬を赤く染め、ほんの少し恥ずかしそうに笑っていたのを覚えている。

 柩の躰には、甘い脱力感がまだ残っていた。


「柩は、私のだからな。誰にもやらん。先に唾を付けておく」

「うん、俺は紅花のものだ。だから、ずっと側にいてくれ」

「言っておくが、これから先も、私が我慢できるとは限らないからな」


 肩にもたれかかる紅花の重みと温かさ。小さな幸せを感じる。


「なんでもするから、俺を一人にしないで」

「分かった。これからは寝る前と朝起きたときに、キスをしてから挨拶をすること」

「……はい。……んんっ! ちゅっ……んぅ……」


 今度はより深く、またキスをされた。


「お前はよく頑張っているよ。誰が認めなくても、私が見ている。一人で辛い気持ちを抱え込まなくてもいい。お前には優しくされる権利がある。その努力は報われなければならない。私が『師』である以上、最後まで見捨てない」


 紅花はいつも自分のことを見てくれていた。理解してくれた。守ってくれた。いつでも味方になってくれる。迷ったときに道を示してくれる。教えるべきことを分かるまでしっかりと教えてくれ、自分を伸ばしてくれる。

 一つ先の世界へ連れて行ってくれる。


「柩、お前はもっと年上の女に甘えるべきだ。大丈夫、私が側にいるよ」


 紅花といると安心した。

 でも、それでいて胸の奥がきゅんと締め付けられる。

 最初は変わった女だなと思っていただけなのに、大人の女性である紅花に甘える心地良さにいつの間にか溺れてしまい、彼女から離れられなくなってしまった。


 そんな柩も、ついには父に金で売られ、とある地下闘技場の選手になっていた。

 思春期という最も盛んな時期を、人智を超越した過酷な鍛錬の日々に費やした柩は、同年代が胸に抱く明るい未来というものは持ち合わせておらず、その雰囲気や眼差しは暗く、刃物のように鋭利で、肉体は鋼のように強靭だった。

 修練に励む真摯な姿勢については、『師』である紅花ですら尊敬に値すると評してくれたほどだ。それがまた彼にとっては誇らしく、やる気を増す要因となった。


 異常なまでの肉体改造の結果、背丈は同年代の男子の平均を下回り、元から女顔だったこともあり、服の下に隠れた筋肉を見なければ、クールな女性のようにも見えたようだ。

 紅花の真似をして伸ばしっぱなしにした長い黒髪もその原因の一つだろう。

 師弟関係にある紅花と街を歩いていると、仲の良い姉妹に間違えられたこともあった。女と思われるのは心外だが、別にそこまで嫌ではなかった。

 だって、自分は紅花のことを本当の姉のように慕っていたから。

 母の愛情を受けずに育った柩にとって、女の温かさや優しさを教えてくれたのは紅花だった。


(俺は紅花に生きる意味を教えてもらった。だから、今度は俺が紅花を守る)


 彼女に笑顔と幸せを与えてみせる。それが自分の生きた証となるから。

 女のことを愛おしく感じたのは、紅花が初めてだった。

 それが恋慕なのか親愛なのかは知らない。

 はっきりと言えるのは、彼女のことが世界で一番大切だということ。

 同じ釜の飯を食い、風呂場に乱入されて背中を洗わされて、湯船に一緒に浸かり、共に寝たことも幾度となくもある。

 異性から与えられた悦びは、すべて紅花が初めてだった。


 それからも紅花との師弟関係は続き、柩はなんとか無事に高校の卒業式を迎えることができた。式には父は来なかったが、紅花が来てくれると言っていた。


「私がいる。柩、お前には私がいる」


 紅花だけが柩に手を差し伸べてくれた。日の当たるところへ導いてくれた。

 でも、彼女は高森柩の卒業式に来なかった。

 紅花は、柩の高校の卒業式の日に、見知らぬ子供を庇って――交通事故で亡くなった。

 誰かを守るためにするべきことをした。あの人は……あの女はそういう人だった。


 事故現場では、『赤黒い不思議な光』が発生していたと聞いたが、そんなことは柩の頭の中には入ってこなかった。


 葬儀は降りしきる雨の中、静かに執り行われた。

 この世で唯一出会えた、大切な人。


(俺の心に火を入れた、熱を与えてくれた、そんな貴女をずっと目で追っていた)


 柩は変わり果てた紅花の亡骸を、腐海のように濁った暗い眼差しで見つめていた。

 ゆっくりと手を伸ばす。

 しかし、それに触ることはできなかった。

 かける言葉が見つからない。

 喉元に息が詰まり、呼吸ができなくなる。

 膝がガクガクと震えて真っ直ぐに立っていられない。

 急遽訪れた死神の存在に、唇を噛むしかなかった。

 ぼうっとした目で、呆けたように虚空を見つめていた。

 こんなにも近くにいるのに、もう紅花の声は聞けないのか……


「紅花、俺は貴女がいてくれないと生きていけないんだ。だから、俺を置いていかないでくれ。俺の側に、ずっといてくれよ……」


 紅花の死を容易に受け入れられるほど、柩の心は強くなかった。

 一筋の涙を零し、その場から逃げるように立ち去る。

 そして一人、声にならない慟哭を上げた。

 暗闇の中で一つだけ見えていた光り輝く道標。

 それが紅花の赤いポニーテールが垂れる背中だった。

 心が折れずにいられたのは、彼女がいたから。


(俺は、ずっと……紅花を、追いかけていたんだ)


 いつも隣にいたと思っていたのに、本当は後ろ姿を見ていただけだったのか。

 紅花を愛おしいと思う気持ちが、空っぽの内側から溢れてきた。

 いつからこんな風に思っていたのだろう。

 でも、心に馴染むこの感じは、たぶん初めて出会ったときから――


「……そうか。俺は紅花と一緒にいるのが、楽しかったんだ……」


 言葉にならない声が天を貫く。

 脳が痺れて頭が真っ白になった。

 気が遠くなるほどの絶望が押し寄せる。

 また、独りになった。

 柩が師匠、紅花に中国拳法を教わったのは五年間だった。

 長いようで短かった。

 紅花を好きになって、大切な人ができる幸せを知って、一緒にいるうちに思った。


「紅花、いつか貴女に恩返しをすることが、俺の生きがいだったんだよ……」


 そんな彼女も、今はもういない。

 猛烈な喪失感が全身を巡り、真の孤独が訪れる。

 堰を切ったように止めどもなく溢れ出し、頬を伝う滂沱の涙。

 紅花のいない世界に生きる意味はあるのだろうか。


(……愛している、紅花。世界中のすべての人間よりも、貴女のことを愛している)


 それから、およそ半年後――――――


 ◇ ◇ ◇ 

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