024●第4章●四谷プロダクション…1964年6月16日(火)夜⑥:宴のあと

024●第4章●四谷プロダクション…1964年6月16日(火)夜⑥:宴のあと





 突然に、キンコーンカンコーンとウエストミンスター・チャイムが鳴った。音源は天井近くの箱型スピーカーだ。二点連打で八点鐘の鳴らし方だが、鐘ではなく、鐘に似せた肉声ナマのアカペラである。珠を転がすような、まろやかな女性の声が流れてきた。

「午後の八時をお知らせします。午後の八時をお知らせします。四谷プロの夜勤の皆様、今宵もお気をつけて、ご安全に」

 えっ、もうこんな時間? と意外な顔の久。確かに腹は減っていたし、夕食の時間に食事にありついたことになるけれど、こんなに時間が経ったのだろうか。上野公園にいたのは午後一時過ぎだったはずだ。いつのまに七時間も……そろそろ家に帰らきゃ、と思う。

 この世界に自分の家が存在しないことを、こよみの地図で知らされたばかりだが、まだ心の半分は誰かに騙されている気がしてならない。この目で確かめないと。

 久が咳込むのを見て、「風、入れますね」と、こよみが告げた。

 室内の空気は、食事の残り香とタバコの煙で魔窟化していた。

 こよみは自分の手で窓の鍵を解き、からからと摺りガラスの窓を開けた。そこは網戸になっていたが、こよみの手が網戸に振れることなく、外側の雨戸だけが自動シャッターのように、がたがたと横に動いて戸袋に収まった。魔法の念力だろう。

 とっぷりと陽の落ちた外から、涼やかな微風とともに、鉄道と自動車の走行音がけたたましく押し寄せてきた。この会議室は建物の一階で、窓の外は無粋な金網のフェンス。その外側に片側二車線らしき広い道路があり、車の排気とクラクションがうるさい。どこかでトンテンカンテンと工事の音。夜でも、遠くからリベットやハンマーの打音が届いてくる。

 車道の向こうは公園らしく、低い樹々と生垣。街灯は白色か黄色でぼんやりとしている。目を突き刺すLEDの光はどこにもない。

 手前の銀杏並木の隙間から、彼方の丘の上に、十数階ほどの背の高いビルが黒々と見える。

 屋上に円盤型のラウンジを載せているので、久には見覚えのある有名なホテルだが、窓に明かりはない。外装の仕上げ工事中らしく、足場はぼんやりとライトアップされて、そこかしこで作業員がヘルメットに装着していると思われるランプの明かりがうごめいている。ということは、まだ完成していない? 隣にもっと高いタワービルの新館があったはずだが、姿がない。 

 そして……

 ガキガキと、レールと石の軋む音を奏でつつ、公園の樹々の向こうから路面電車が現れ、その明るい黄橙色のボディと、ラクロスのスティックに似た集電装置ビューゲルに弾ける火花を残像に引いて、右から左へ通過していった。

 あの風景に似ている!

 久は観たことがあった。TVの名画劇場で。

 真っ赤な夕日に映える東京タワー、あの昭和レトロなラストシーンが美しい名作映画。

 描かれているのは昭和三十年代。

 ならば今、通り過ぎた路面電車は……昔の都電!?

 夜空にそびえる工事中のホテルが記憶の通りなら、車道を隔てた木立こだちは、赤坂の迎賓館の正面に広がる三角形の公園だ。とすると、ここは四谷駅のすぐ近く。

 そうと知っても、不安と心細さは増すばかりだ。

 これは映画のセットじゃない。本物の街並みだ。過去の、見知らぬ東京の街だってのか?

 いったい僕はどうすれば……。

 このあと、交番で事情を話しても、わかってもらえるだうか? 

 いや、絶対に無理だ、と久は確信する。僕が未来人だなんて、まともな人は信じるはずがない。まともじゃない連中ならともかく……。それも、思い切りまともじゃない、この人たちにすら笑いものにされたのだ。それに、僕自身、何もかもがまだ半信半疑なのだ。

 丹賀がおもむろに口を開く。

「キュウ君の正体について、さすがにもう口頭の材料は出揃ったと思う。ついては客観的な物証だが、それは今のところ、君が所持していた“すまーほ”なる秘密カメラしかないということになろう。ということで……」

 証拠物件を促す丹賀の前で、万城が茶封筒からスマホを出し、ケースを開けて裏面を見せた。

「これは極めて高性能の電子機器に違いありません。見ためは手帳に似せていますが、裏面に超小型のレンズが仕込まれています、これです」

「ほう、よくできているな。これはすごい、ゼロゼロセブンもびっくりで逆立ちだ」と、素直に感心する丹賀。スマホ躯体の真ん中にあるメーカーロゴを指すと、「これは……KASHIKOMO?」

「このスマホのメーカーです。カシコモ」と久。

「ふうん、聞いたことが無いな、東欧の共産国でこっそりと作ってるんじゃないですか、東ドイツか、でなきゃフィンランドあたりか?」と漆田。

「いえ、国産ですよ。ちょっと安物で、型落ち品だけど」と久。

 またまた丹賀、万城、漆田から哀れみに満ちた失笑を買ってしまった。

「ミコン、ニノルタ、ネンタックス、マシカ、どこのメーカーを探しても、こんなペッタンコのカメラがあるはずがない」と万城。「とにかく、謎の物体です」

「きっと宇宙人の作品よ」と真幌場が混ぜ返す。

「国産です」とムキになる久。真幌場女史の前で黙っていると、またまた河童にされかねない。

 しかし続いて、万城がスマホを裏返して、表の画面を見せると……

 一同の表情が変わった。

 ほぉーっと、感嘆のため息が厳かなアカペラとなる。

 無関心な様子でそっぽを向いていた、こよみですら身を乗り出して見つめる。







※作者注……“海老は高級”はともかく、“トロは安価”という、二十一世紀ではいささか信じがたい寿司事情は、邦画『東京五輪音頭』(1964)の冒頭近くの会話から窺い知ることができます。なお、最も安い寿司は“海苔巻き”と明言されています。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る