005●第1章●東京、時の彼方へ…2024年6月16日(日)昼②:アフロディテ?

005●第1章●東京、時の彼方へ…2024年6月16日(日)昼②:アフロディテ?



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 そのような次第で、星川久は、ときおり立ち止まってスマホを覗き、また歩き出す……といった具合に、首都東京の上野恩賜公園…通称、上野公園…の園内道を北へ向かっている。西暦二〇二四年、すなわち平成三十六年の六月十六日、日曜日、午後一時少し前、昼食は後回しだ。

 ここは地下鉄の有楽町線と日比谷線でスムーズに来られるので、身軽な散歩といったところ。着ているのは、ゆるいTシャツの上に部分メッシュの長袖デニムシャツを紫外線よけに羽織り、ラフなハーフパンツ、そしてエアクッションの効いたスニーカー、いずれもネットショップの格安バーゲン品だ。

 持ち物はハンカチとティッシュとスマホだけ。交通機関の運賃や日常的な買い物は、みなスマホの電子決済機能で事足りる。さらにスマホは国民番号と連動して、身分証明を兼ねている。学生証も生徒手帳もスマホの中だ。個人情報を守るため、指紋と顔パターンと音声認識を併用して、厳重にロックをかけている。

 こんもりと緑のベールをかぶった上野公園は、博物館や美術館、科学館、コンサートホール、動物園や人工池を配置した文化集積ゾーン。しかしここは、江戸時代に北東の鬼門を封じる霊的防衛拠点として寺社仏閣を建立した、いわくつきの心霊スポットでもある。

 今は梅雨の時期だが、まだ雨はなく、空は黄砂でかげり、むっとする湿気で首筋が汗ばむ。高く茂った樹々から木漏れ日がゆらゆらと降り注ぎ、人々も建物もゆらゆらと揺れて見えた。

 僕と同じように、スマホの“謎の写真”に導かれてきた人はいるのだろうか?

 そう思って見回すが、同類の輩は見つけられない。なにしろ人が多いのだ。

 賑わいの原因は、この夏に開催を控えた“東京&パリ”オリンピックにある。

 二〇二〇年の開催を誘致しようとしてトルコのイスタンブールに持っていかれ、それから“国民的悲願”の常套句で政府が発破をかけ、たぶん分厚い札束もどこかで遠慮なく飛び交って、ついに二〇二四年の開催を勝ち取った、ということらしい。

 ただし諸般の国際的事情で、東京の単独でなく、フランスの首都パリとの共同開催となった。会場は両都市で分担できるので規模は拡大し、種目数も参加選手の数も実質五割増しとなった。 

 つまり、“史上最大のメガ・オリンピック”が実現するのだ。

 集客の目玉となる開会式と閉会式はどちらも先に東京が開催し、三日後にパリで開催する。両都市の開会式及び閉会式をそれぞれ航空機でハシゴ観覧する超豪華プラチナチケットが世界のセレブたちに“爆売れ”となった。

 しかも、二〇二〇年のイスタンブール・オリンピックはその年に発生した疫病の世界的なパンデミックによって、結局、中止されてしまった。そのためか、病魔の流行が収まった二〇二四年の、しかも東洋と西洋をまたぐ大都市の共同五輪は、いつにない熱気が漂う。

 開会まであと五十日ばかりとなり、東京は街じゅうがオリンピック・ムードで華やいでいた。前回のオリンピックは一九六四年、ちょうど六十年が過ぎた“還暦”の開催なので、そこかしこに、“TOKYO還暦2024”の文字や五輪のシンボルマークを象ったボードやフラッグ、立体動画のサイン、輝き流れる文字と画像があふれる。

 が、久はあいにく、オリンピックには興味がなかった。

 開催地が東京でもパリでも、あるいは地球の裏側でも南極でも月面であっても、結局のところ、テレビかネット動画で見るだけだ。開閉会式や決勝戦をスタジアムでリアル観覧するなんて、わが家の経済力では、ありえない。チケットは高値を極める高嶺の花、ネットで何度も闇転売され、事実上、投機の対象ですらあるという。開会式の最も安い二枚の価格で、星川家の親子は半年以上生活できるだろう。

 久にとってオリンピックといえば、テロ防止を理由に都心一帯からゴミ箱がことごとく姿を消してしまい、かわりに大衆を見張る警官と監視カメラの数がやたらと増え、路肩に並ぶ警備車両が視界を妨げて、街の雰囲気が物々しく、そして窮屈に感じられるだけだ。

 “ご近所”の出来事なのに、オリンピックの実在感は、その開催日が近づくごとに遠ざかり、いまやスマホの中に映し出される異世界のゲーム映像と変わりがない。

 ということで、常日頃から“人並みの斜め下の地味人生”を心得る久少年は大多数の国民がそうであるように、オリンピック関連のお祭り騒ぎからは身を引いて、淡々と、自分の目的地に歩を進めていった。

 それは上野公園の名所、高名な建築家の歴史的傑作として世界文化遺産に登録された“国立西欧美術館”だ。ラウンドケーキを入れる四角い箱のような、幾何学的な建物と、幾何学的なイメージの平面的で直線的な前庭。

 最近、ネットのニュースで見た建物なので、見間違うことはない。

 オリンピックの開催前に、外観を大規模にリニューアルして、一九五九年の開館当時の姿に復元したという。建物の外装はピカピカに磨かれ、前庭に展示された野外彫刻の配置を当時に戻し、これまで前庭を囲んでいた植物の生け垣を、多数の鉄棒をX字の形に組み合わせた、黒い柵に取り換えている。

 その鉄柵はいかにも無機質で冷たそうで、久の好みでは生け垣の方が良かったので疑問に思った。

 なぜ、わざわざ生け垣を取り払ってまで、鉄柵を新調したのだろう?

 今になって元に戻すのなら、過去に、鉄柵をわざわざ生け垣に変えた人がいるはずだ。それなりに理由があったはずなのに、どうして元に戻したがるのか。

 大人のすることは、子供よりも無駄が多い、と母さんが言っていたっけ。多分そうか、この前の東京五輪にあやかって、あの頃と同じ、一九六四年の姿を取り戻したいってことかな……と思案しても、わからない。

 新品なのに古臭く見える、昭和レトロな感じの鉄柵。

 久はその前を左に曲がる。

 あのあたりだ、撮影場所は。

 今、時刻は十三時。撮影時刻まで、あと十三分。

 美術館の南側正門の両側には高さ十メートル以上の円筒形の立体画像パネルが仮設され、東京&パリ共同開催の記念展覧会“ジ・アート・オブ・オリンピアード”の開催を告げていた。

 これは、紀元前八世紀のギリシャにさかのぼって、古代都市オリンピアで開催された古代オリンピックから、ピエール・クーベルタン男爵という人物が十九世紀末の一八九四年に“パリ・スポーツ連合会議”で復興させたと伝えられる“近代オリンピック”まで、その歴史を物語る貴重な芸術品や史料価値の高い文物を世界中から集めたという展覧会。美術館の周りは正月の初詣さながらの混雑ぶりだ。

 というのも、東京とパリ、両都市の友好の証として、“特別展示:ミロのヴィーナス再来日”が開催されているからだ。

 六十年前の一九六四年に、第十九回オリンピック東京大会が開かれた。それに先立って、おなじくこの国立西欧美術館で“ミロのビーナス特別公開”の展示が行われた。

 パリのルーヴル美術館に収蔵されて門外不出だった、古代ギリシャの美の女神アフロディテを象った珠玉の彫刻、“ミロのヴィーナス”の実物が、はるばると日本を訪れたのだ。東京のこの会場では五週間で八三万人が観覧するという、屈指の集客実績を残している。

 そのヴィーナス像が、六十年後の二〇二四年に再び、この美術館を訪れたわけだ。

 女神様のご尊顔を一目拝もうと望む人々が、美術館を囲む鉄柵に沿って長蛇の列をなしている。この長い列は一九六四年の再現なんだ、と久は思う。

 ミロのヴィーナスは美術の教科書に必ず載っている女神像であり、写真は飽きるほど見慣れている。どうして、あんなものに人々は集まるのだろう? と考えて思い当たる。

 そうか、これは“秘仏のご開帳”なんだ。

 もともと古代の女神様を祀るために象られた神像なのだから、二千年ほど昔には間違いなく信仰の対象である。だから写真でなく実物にこそ大きな価値がある。人々は神様の像をありがたく“拝観”するために並ぶのだろう。

 古代ギリシャの観音様みたいなものかな、御利益はあるのかな? と興味は湧くけれど、この行列に加わりたいとは思わない。ざわざわと行き交う人、人、人の合間を縫って進み、ぴたりと立ち止まると、スマホの地図画面を確認する。

 国立西欧美術館の南西の角、歩道に並ぶ入場者の列の、すぐ外側……

 ここだ。

 そう思ったとき、ふっと、人混みの隙間を通る人影が視界に入った。

 外国の女性だ。古代ギリシャのキトンを思わせる、滑らかなプリーツのワンピースは綿毛のような光沢を纏って輪郭が定かでない。金と赤の混じった黒髪を額の中央で分け、頭の後ろで丸く盛り上げた古風なヘアスタイルに、肌は透き通るほどに儚げな純白で、楚々としたアルカイックスマイルをたたえた、その視線がほんの一瞬、久の視線をかすめる。

 意味ありげな、その微笑。

 ヴィーナス……神様……アフロディテ!?

 刹那の出逢いに久の心臓がキィンと鳴った。えっ、まさか? と確認する一瞬を置かず、あまりにも美しい彼女は消え、同時に……

 ヴン! と、手の中のスマホが震えた。

 撮影地点に立つと、GPSに照合して振動するように仕組まれていたのだ。スマホを乗っ取った何者かによって。

「わっ!?」

 思わず声を上げた。

 震えたのは、スマホだけではなかった。眩暈めまいのように世界が震えたのだ。

 いや、自分自身もそうだった。

 全身の血と肉と骨が一つ一つの細胞に至るまで、瞬時にザワっと弾かれ、振動するのを感じた。まるで電撃に貫かれたかのように。

 世界が暗転した。真の闇、そして真の無音。


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