蒼の日傘
噫 透涙
1話 緩和
粘りつくような暑さが全国に降り注ぎ、数多くの傷病者を出していた。
折り悪く渋滞に巻き込まれた人は、車の中で蒸し焼きになって昏倒、救急車の出動が絶えることがなかった。
県内、政令指定都市。海側にある大学病院に、患者が吸い込まれていく。
「白い墓」とあだ名される、緩和ケア第一病棟にも、医者や看護師が対応に追われ、てんてこ舞いになっているという噂が届いた。
悠長に個室のベッドで漫画を広げていた文弥は、興奮気味な友人から知らされてふるふると首を振る。
「知らない」
「みんな大変なんだよ。熱中症患者がいっぱい搬送されてきて、村橋も徹夜なんだって。看護師さんも鬼の形相だし、話しかけられなくて午後の薬飲んでないんだよな。な、文弥は薬どうなってんの?」
「俺のこと何だと思ってるの?末期がん患者が薬を抜かれたら一瞬で死ぬだろ」
「末期とか言うなよ……」
「緩和ケア棟にいるってことはそういうことだよ。環みたいに歩けるわけじゃないしね」
友人、環は渋い顔をして目を逸らす。
――さっきのことだけど、文弥。
「本当に悪かった。あれが妹さんの持ってきたプリンだと思わなかったんだよ。冷蔵庫に入ってたから、つい」
文弥は漫画を閉じ、背伸びをして骨を鳴らした。環を凝視して、似たような渋い顔をする。
一気に息を吐き、破顔する。
「共同の冷蔵庫に入れてたのも悪かったかもしれないな。環だけのせいじゃないよ」
「でも、悪かった。妹さん……」
「もういいって。美祈もまた他の物を持ってきてくれるから。ただ、愚痴は吐かせてほしいからさ。申し訳ないけど」
余命は家族にだけ知らされている。回復はほぼないと判断されたため、体の痛みを取り除く、緩和ケアに専念することになった。
誰もが願うような、完全に症状がなくなる夢のような薬は存在しない。
苦痛を減らすことのみに専念したとしても、最終的に行きつくのは闘病の果て、死である。苦痛からの解放が幸せか、生の終わりが不幸か。
……少なくとも「今」を幸せと言う余力は、文弥には残っていなかった。
「なあ。すっごい俗説なんだけどさ」
「なんだよ」
「文弥、知らなかったかな。見ると願いが叶う雪の精の話」
雪の精。
「何だっけ、それ」
「神出鬼没で、この病院のロビーにいるらしい。目印は緑の傘。髪が白くて、目も白いんだってよ」
――白髪。老婆だろうか。
文弥が思い描く前に、環は車椅子を壁際から取り出し広げた。
「行こう。気分転換になるって」
「どこに?」
「ロビー。雪の精を探しに行こう」
「でもそんなもの……」
「すごい美人らしいぜ」
「……見物なら」
環の差し出した手を、頷きながら握る。そのまま持ち上げられ、車椅子に着地する。
やせ細った膝がズボンに浮き出る。見ないふりをして拳を固めるがその力も弱々しいものだった。
「どうした?」
「なんでもないよ」
言うべきことが思いつかず、環は無言で車椅子のハンドルを握った。
廊下は少し温い。
二人は速足でロビーへ向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます