第2話

 

 それから、彼は何度もパン屋にやってきた。時に早朝、時に昼間、時に閉店間際。来る度に店主は良い顔をせず、遥もまた騎士は暇なのかと彼をなじった。何度なじっても彼が来なくなることはなかった。


 遥と言葉を交わしながらパンを選び、軽口の応酬をしながらお金を払う。


 遥の思いはともかくとして、龍騎はこの時間を好んでいた。来れる機会を探すことを含め、面白いと感じていた。


 もっとも、こうして何度も来れるのは今のように仕事が安定している時だけだろうけれど、パンも美味いし、部下たちの受けも良い。部下によっては龍騎がパンが買ってくる事を楽しみにしているほどだ。


 遥は、店の扉が音を立てる度、一種の期待を持って視線を向けた。


 あくる日。今日はうだつのあがらない曇り空。機嫌のいい遥は残り物のパンが入った袋を片手に抱えて帰り道を歩いていた。日は暮れ、街灯が照らす道に人は少ない。


 薄い暗がりを望んだ店の前では艶やかな格好をした男が、女が、暇そうにする待ち人を誘う。


 だが、誰も遥に声はかけない。


 誰も片足が不自由で杖をつく女が金を持っているとは思わないからだ。まして、空いた片手に庶民的なパン屋の袋を抱えていればなおさらだ。


 実際、遥は夜に遊ぶようなお金など持ち合わせていない。必要もない。手元にパンがあるだけで、生きていくことは出来る。


「あれ、オネエサン。外で見かけるなんて珍しい」


 後ろから聞こえた声には知らぬふりを決め込んだ。知った声だ。今日は聞かなかった。


 知らぬふりをして背を向け歩き続けた。だが声は追いかけてくる。


「良い客を無視するなよ。おねーさーん」


「うるさい」


「お、良かった。聞こえてないのかと思った」


 カラカラと笑い、隣りに並んだ彼はいつもと色が違った。


 見れば淡い栗色のトレンチコートを身にまとい、赤い髪は帽子で隠されていて、目元には黒縁の眼鏡がある。


「今日は非番でね。似合ってるだろ?」


 答えずに居ると、不意に片手の重さが無くなった。


 パンの袋が隣の男に奪われていた。かち合った紫色は満足気に細められている。何が楽しいんだ。


「杖つきながらだと大変だろ、近くに着くまで持ってやるよ」


 荷物を急にとるからバランスが悪くなった、と悪態をつくも彼はやはり笑うだけ。


 不自由な右足側を歩き、特に用もないのか話すこともないが彼は満足気に笑っている。


「いい匂い。なあこれ、一個もらっていい? 遊んでたら昼飯食いっぱぐれたんだ」


 返事をする前に龍騎は袋の中からパンを取り出して口に咥えていた。


 話題も無く、ただ歩くだけ。街灯も少なくなる道のりの中、このまま家までついてくる気なのか。龍騎は何も気にしていないように見える。


「私の家、下町なんだけど」


 歩きながら遥がそう言うと龍騎はパンをかじりながらふうん、と大して興味も無さそうな返事を返した。この騎士は本当に分かっているのか。


 上の町とは違う。そんなところに高名な騎士様が来るつもり?


 盗みが正当化されるような場所。いくら腐っていても街の治安を護る騎士、騎士が来るような場所じゃない。


 直接的に言うと彼は口の中のパンを飲み込んでからやはり笑った。


「俺の家、下町なんだけど?」


 先ほどの彼女と同じ言葉。とても冗談とは思えない。


 嘘だ。という言葉すら出てこない。


 今の騎士がそんな言葉を吐くこと自体、驚くべきことで。今の遥には考えられないこと。想定外の答えに遥の思考は停止し、龍騎はしてやったりという顔をしている。


 普段店では口で敵わないからこういうことでも勝てて嬉しいよ。


 うわあムカつく。遥の言葉も今だけは負け惜しみに聞こえるほど。とても苛立ったから、遥は右足を庇うための杖を振った。


 鈍い手応えと、小さなうめき声。人を馬鹿にするからよ。先に馬鹿にしたのはどっちだ。


 遥は小さく、声を出して笑った。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る