逃げた英雄(7)
アーネストは入室を前に逡巡する。中には当主のリロイ・ライナックが待っているからだ。
英雄ロイドの再来となるよう期待されてリロイと名付けられた男である。残念ながらそれほど強い能力には恵まれなかった当主だ。
ただし彼は強いカリスマと統率力を持っている。英雄と呼ばれるほどの戦士足り得なかったが、ライナックの勢力拡大と確固たる体制作りには多大な貢献をしたと噂される。
彼はその父と対峙する覚悟を決めて来たのだが、ここにきて揺らぐ気持ちを抑えられない。
「自分から会いにくるとは珍しいな。お前と会うときは、儂が呼び出してお小言を垂れるときと決まっておるのかと思っていたぞ」
皮肉を込めて切り出される。
「心外です。今日は……、私が父上に意見を申し上げようと来たのですから」
「ほほう、これは面白いことを言うものだ。言ってみろ」
数度深呼吸をして気を静める。ここで気負けして言いたいことも言えないでは来た意味がない。勇気をくれたあの青年のためにも。
「父上はポレオンの、ひいてはゼムナの現状をどうお思いなのですか? 我が家と縁を結び、それを免罪符に自儘に振る舞う者が溢れかえっているのですよ?」
多少の誇張は交えているが事実である。
「それを言いにきたか。ならばこう答えよう。多少の余禄くらいは必要だ。目を瞑れ、とな」
「その所為でライナックの品格は地に堕ち、目を背けるような存在になってもですか?」
「あのような欲まみれの愚物どもでも議席に尻を置いて温めるくらいの役には立つと言っておるのだ」
彼や、彼の傀儡である大統領の思惑を繰り言のように唱えるスピーカーであれば良いと言う。
「市民は馬鹿ではありません。そんな思いも見抜き、反意を募らせる者が出てきますよ? 実際に反政府活動も増えてきていると聞き及んでいます」
「仕方あるまい。今は過渡期と考えておる」
リロイは現状を成長の痛みだという。
戦後五十年余り、代重ねをしたとはいえ本家の血を引くライナックの人数は四十人に満たない。全員が議席を得たとして、全ての法案を可決に導くだけの数ではない。
いずれ本流の高潔なる精神の持ち主が増え、真にゼムナに覇を唱えられるようになれば、傍流の俗物は切り捨てられると考えているのだそうだ。
(そこから間違っているんですよ。祖たるロイドの血を引いているからといって、市民がそう望むからといって、ライナック一族の人間が常に清廉な精神をもって産まれてくるわけじゃない)
思い込みなのか、知りながらも目を逸らしているのかは分からない。
(クリスティンを見れば分かるではないですか。あんな小さな身体の中にも選民意識の芽生えが見える。我らこそが身を律して生きていけなくてはならないというのに)
そう訴えたいが、言葉となって出てこない。
口にすればいつ誰の耳に届くか分からない。アーネストを危険視する輩が現れてもおかしくないのだ。彼には身近な者を守る力がない。
権力の味を知って今やどっぷりと身を浸している傍流にしてみれば、一番恐ろしいのは本家のライナックである。発言力影響力では比でない本家こそが彼らの
(数で優位性が保てているから手を出してこない。本家を排除してしまえば市民の支持が得られないのも理解している)
それでも隙を窺っているのは間違いない。
(敵に回った私一人を潰しに掛かるくらい躊躇わないだろう。抗する術の無い私を。断罪するか、中枢から取り除くなら一族の総意でなくてはならないんだ。そうでないと思わぬ反撃があるだけ)
しかし、リロイには当面その意思はないと見える。
「遺伝する異能が授けられたのは、天が我らに正義を行えと言っているからと知れ。人類圏全てにあまねくライナックの正義を実現するには安定した基盤が不可欠なのだ。その基盤作りを今やっている」
リロイの中では選民意識が大樹となっている。
「お前も些末なことを気に掛けていないで大局を見よ。力が無いならすべきことがあるだろう?」
「私に何をせよと?」
「早く妻を娶って子を成せ。多くの血を残すことこそがお前ができる正義への貢献ではないか」
「現状を打破する方法はそれしかないのですか?」
「お前の望みを実現するにはそれが一番の近道だと言っている」
「どれだけの年月を必要とするとお考えです? その間にどれだけの市民が泣かねばならないのですか?」
真摯な思いは父へと届かない。
「やむを得ぬ犠牲だと解れ」
(駄目だ。このままでは私はライナックの勢力拡大の道具にされてしまう。血を残すことばかりを強要され、それを拒めない)
現実に
(結果的に暴政に加担するしかなくなる。それでいいのか?)
思いつめた面持ちでリロイの前から辞去する。
「何か思い切ったことをしなければ……。少なくともここに居てはならない」
口の中だけで呟く。
彼はそれが逃避行動だとは分かっていない。苦しむ市民という現実から目を逸らしたいだけの行為だと。
才能無しと陰で後ろ指を差され自信を失ってきたアーネストは、自分の弱気を正当化するために逃げるという選択をしようとしているのである。
それが周囲を巻き込み、どんな事態を生むかも知らずに。
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