逃げた英雄(6)
和やかな時を過ごすアーネストとフェニシティのところへ一人の青年がやってくる。
「ひと息入れられてはいかがですか?」
保温タンブラーを携えてやってきた彼はタンブラーをサイドテーブルに置き、女性武官へも手渡す。
「ありがとう、セト。うん、彼女も腕を上げてきたね」
「ああ、美味しい。目覚ましい進歩ですね」
タンブラーに口を付けたフェニシティも納得する。二人が思い浮かべているのは使用人に加わって数ヶ月の少女の姿だ。彼女は紅茶を主に、お茶を勉強中である。
「いえ、これは淹れてもらったものではないのですよ。僕が試作品として作ったティーメーカーで淹れたんです」
意外な事実だった。
「本当かい? これは人の手でしか生み出せない機微が感じられる味だ」
「そうでしょう。お二方の好みを聞き出して入力したのですから」
「画期的だと思ったが、それほど手間の掛かるものでは発明品としてヒットしないかもね」
アーネストが窘めると、年若い技術士は不敵な笑いを見せる。
「いいえ、身近に置くだけで機能するんですよ。今回こそ僕がデータ収集しましたが、本来はウェアラブル機器が読み取ったデータを基に好みを分析するんですから」
「なんだって?」
「お茶を味わった時の表情の変化などから好みを割り出し、更にその日の気温や湿度、天候なども加味して適正な湯音や茶葉の量、蒸らし時間を算出し、個々人に合った手順で最高の一杯を提供するティーメーカーなんです」
唖然とした。セトは彼の想像を凌駕する視点で研究開発を行っているのだと思い知った瞬間だった。
「フェニシティ様のように
プライバシーへの配慮も窺える。
「本当にこれ以上の味が出せるというのね?」
「保証します」
「驚いた。正直な話、君の境遇に同情して招いただけだったんだが、これほど簡単に成果を挙げてくれるとは思わないよ、普通は。所属していた技術室長が才能を妬んだのも頷けるというものだ」
セトは一つの物を作るのに、それだけに集中していない。技術というものを体系的総体的に捉え、広い視点で磨き上げて生み出そうとしている。空恐ろしいほどの才能と言えた。
(それだけに惜しい。彼はライナックが覇権を握るこのゼムナで、歓心を買おうという勢力争いの中に埋もれさせていい人材ではない。人類全てに貢献できる逸材だ)
拾い上げた青年は巨大な宝石の原石だったのだ。
「君は……、悔しくはないかい? 私の専属では、兵器開発という最前線とは一線を画してしまう。本当にしたいことは今もできていないと嘆いているのではないのかな?」
セトは考えもせずに首を振る。
「貴方のような素晴らしい方と出会わせてくれた神に感謝しています。ご理解くださるかどうか分かりませんが、技術も近視眼的な捉え方ではいずれ袋小路に入り込んでしまうと思うのです」
「ふむ、なんでだい?」
「個人の才覚で手の届く範囲はあまりに狭い。だからアーネスト様のような異なる才能をお持ちの方々から刺激を受け続けない限り、進んでいく道は途切れるでしょう」
(或る種の皮肉を含んでいるな)
彼はそう思う。
(兵器開発だってそう。予算という要因があれど、現実に平時における発展は遅々としている。戦時という刺激があればこそ大きく進歩するのは否めない)
同じこととは捉えていないのだろうが、感覚的に察しているのだと考える。
「自分の理屈っぽさが嫌いなんです」
セトは続ける。
「理論的に考えられるからこそ研究開発で結果を出せるのはそうでしょう。でも、理論だけでは目が曇ってしまうんです。利己的な思考では、万人が望むような機能に思い至ることができません」
「そうかもしれないね。誰がどう感じるかを主眼に置かないと独りよがりな結果しか出せないかもしれない」
「そんな時に貴方様のような芸術家を思い浮かべます。自己を表現しつつも、相手に何を訴え掛けるか、それをどう伝えるかを考えている方を」
アーネストは理解した。自己に埋没しがちな作業でも一人では何も成せない。セトは自身が人の中でこそ輝けるのだと分かっているのだ。そんな出会いを経験してきたのだと。
そして、その列にアーネストも加えられたのだと解り、純粋に嬉しかった。だから神に感謝するとまで彼は言ったのだ。
「同じ手法で
そんなふうに考えているとフェニシティが問い掛けている。
「調理は無理なんです。複雑な工程に様々な技巧が存在し、そのどれが優れているのかも測り知れません。そもそも行程さえ僕は知らないのですから」
「誰か専門家とのタッグを組まないと実現しないのね」
「パンに関してなら監修を頼める心強い友人がいます。彼なら芸術的な技巧の持ち主です。それ以外は別分野の協力が不可欠ですね」
(なるほど。その友人が今の彼を形作る一人なんだな)
口調から察せられる。
「その友人に会ってみたいものだね」
「機会があればお引き合わせしたいと思っています。彼のパンは絶品ですよ」
「へぇ、それは楽しみだ」
自分も周囲と向き合わねば何も変わらないと感じたアーネストだった。
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