第一章

 翔には姉がいる。

 末長夕貴。五つ年上で、今秋結婚を控えていた。相手の名は、小林義隆。同町民だが、隣町で働いており、結婚後は夕貴も彼と共に隣町へと越す予定だった。


 周りが苦笑するほど仲が良い二人で、小林が末長家で夕食を共にすると決まっている土曜日には、どこぞの物件が良かった。あの家は良いが家賃が高すぎる、やっぱり将来は庭付き一戸建てだよね、などと顔を綻ばせながら夕貴はいつも翔に話しかけてくる。


 聞いている側はうんざりするが、話す側は飽きないのだろう。引っ越し後のプラン、派生して人生設計についての語りは、毎回延々と終わりが見えなかった。


 二か月前の土曜日も、小林は末長家へやってきた。いつものように二人の愛について夜遅くまで語っていた。それを愛想よく聞いてやる親もどうかと翔は思っていたが、うんうんと笑顔で相槌を打つからか、話に終わりが見えない。


 そろそろ帰ろうかという雰囲気になり、小林は立ち上がった。見送る、と夕貴も一緒に立ち上がる。どうせ玄関で別れのお熱い抱擁でもするんだろうと、翔は気を利かせてその場で挨拶をした。


 二人は和気藹々と会話しながら家を出ていく。それは、いつもの光景だった。

その日常を切り裂いたのは、耳を劈くような、不快な車の走行音だった。


 エンジンの爆音。ブレーキを無理にかけた、タイヤとコンクリートの甲高い摩擦音、悲鳴。そしてまた、爆音。


 異常を察し、翔と両親は家の外へと駆けた。スリッパのまま、ドアを開き、庭を駆け抜け、門扉を押し、そして、翔は愕然とした。


 視界に飛び込んできたのは、血まみれで道路に横たわる小林と、その傍で泣きじゃくる夕貴。

 仄かな月明かりでも、もう助からないであろうと見て取れる出血量。

 遠くで、救急車を呼べと叫ぶ声が聞こえる。

 翔は身体を動かすことができない。

 母親が電話をするために家の中へと舞い戻る。

 父親は、止血を試みている。


 夕貴は、小林を一心に見つめ、ただ茫然と、涙を流していた。


 数分後に救急車が来て、全速力で病院へ運びこまれ、懸命な救命措置が取られたが、小林は、二度と帰らぬ人となった。彼の、夕貴を見る優しい瞳は、もう二度と見ることができなくなった。


 その後通夜や葬儀は慌ただしく、だが一瞬で終わっていった。その間、夕貴は一度も泣かなかった。耐えている、という訳ではなく、ただ現実を認めきれていないのだろうと、翔は感じた。


 小林を可哀そうだと思うが、夕貴の方がもっと可哀そうだと翔は思った。賑やかだった土曜日は、夕貴の一番嫌いな曜日になるだろう。隣町には二度と行かないかもしれない。庭付き一戸建ての夢は、捨ててしまうだろう。


 人が死ぬ。それはそういうことなのだと思った。誰かが、悲しみを背負って生きることになる。そういうものなのだと。

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