魔人の逆襲 十六 路地裏

 赤城市の旧市街には城を中心とした大きな通りが放射状に延び、それをつなぐ環状道路が蜘蛛の巣の横糸のように多重の円を構成している。

 計画的につくられたそうした道路とは別に、無秩序につなげられた小さな生活道路も無数に存在する。

 大通りもそうした路地裏も、今は灯りひとつなく、しんと静まり返っている。

 無論、吸血鬼との遭遇を恐れてのことだ。


 実際には家の中に閉じ籠っていても危険性に変わりないのだが、人は家の中にいられればそれだけで安心するらしい。

 裏通りの狭い道は月明りも届かず、闇に包まれている。

 その闇よりもさらに深い闇が水溜まりのように現れ、それが盛り上がって人の形になった。

 まるで地面が人間を吐き出したかのように、その人影は地面に横たわった。


 両腕がないため、うまくバランスがとれずによろめきながら立ち上がる。

 青い肌の裸の女――赤城を逃れたナイラである。

 彼女はゆっくりと周囲を見回しながら歩きだした。


 比喩ではなく、ナイラは文字どおり闇の中に潜んでいられなくなり、そこから吐き出されたのだ。

 彼女の頭は疑問符だらけとなった。


 どういうことだ?

 両腕の傷口からどんどん精気が失われていく。

 眷属を産めるほどに蓄えた精気がもうほとんど残っていない。


 ミスリル銀が吸血鬼の再生能力を無効化して傷を負わせることはわかる。

 だが、その傷から精気が洩れていくことがあり得るのだろうか?

 彼女は吸血鬼としての記憶を千年以上たどってみたが、そんな現象は聞いたこともなかった。

 ただ、かすかに原初の記憶の片隅に、そんな古い出来事があったような気がする。

 それはもう記憶も定かでない数千年も昔の神話時代の話だ。


「ここは……まだ城壁の中だな。

 いったんは赤城市を離れなければ、何もできんか。

 まずは再び精気を蓄えて眷属をつくらなくては……。

 そいつらに手伝わせてはがねの義手をつけよう。

 そうすれば、今度こそあの鎧女を潰せるだろう。

 もう油断はありえない。

 くそっ、あのいまいましいオオカミの召喚士め……」


 ナイラはぶつぶつと呪詛の言葉を吐きながら城壁を目指す。

 壁に沿って歩けば、大小を別にして必ず門があるはずだ。

 鍵がかかっていようと、蹴破れるだろう。

 例え門番がいたとしても、一瞬で蹴り殺す自信が彼女にはあった。


 真っ暗な道も吸血鬼の目には昼間同様に見渡せる。

 そんな彼女の視界に人影が捉えられた。

 一瞬の緊張はすぐに解ける。

 小さな影は子どものようだったからだ。


 その子どもは、建物の隙間から月明りが届いている小さな石段に腰かけていた。

 ナイラはその前に立った。

 子どもは突然現れた女に驚いて顔を上げる。


 まだ五、六歳の男の子だ。

 あまりよい身なりではないが、清潔なシャツを着ている。


「坊主、こんな時間に何をしている?」

 男の子はその問いに答えずに、不思議そうな顔をして尋ねた。

「おばちゃん、どうして裸なの?」

「〝おねえさん〟だ、馬鹿者。

 聞いているのはわらわの方だ。何をしている?」


「あのね、お母さんのお客さんが来ているの。

 お客さんが来ている間は、僕はお外に出ていないといけないんだ。

 でも、お客さんが眠ったらお母さんが入れてくれるんだよ」


「ふん」

 ナイラは鼻を鳴らした。

 なるほど、この子の母親は妾か何かなのだろう。

 吸血鬼が徘徊しているというのに愛人を抱きに来るとはお盛んなことだ。


「おばちゃん、お手てないの?」

 男の子はやはり不思議そうだ。

「〝おねえさん〟だ、いいかげん覚えろ。

 ちょうどいい、こんなのでも少しは精気の補充にはなるか……」

 ナイラの唇からにゅっと白い牙が伸びる。


 だが、それはすぐに引っ込んだ。

「いや、こんな皮かむりを吸っても大した違いはないな。

 坊主、お前は見逃してやる。

 あと十年経って皮が剥けたら気持ちのよいことをしてやろう。

 それまで達者に暮らせ」


 きょとんとした男の子を残してナイラは立ち去った。

 そう言えば、今夜吸った兵士は良かった。

 死に際に腰を震わせながら、ナイラの奥深くに熱い精をぶちまけてくれた感覚を思い出すと、子宮がとろけそうになる。。


 もう一度、一から出直しだ。

 また若い男を思う存分むさぼるまで滅んでなるものか。

 もう二度と油断はしない――改めて彼女は心に誓う。


      *       *


 暗い路地の角を曲がると、目の前に城壁が現れた。

 ただ、道はそこで行き止まりで、壁のぎりぎりまで建物が迫っている。

 万全の体調なら五メートル程度の城壁は軽々と飛び越えられるのだが、消耗している今は自信がない。

 ナイラは舌打ちをして、戻るために振り返った。


 そこには黒い小山のような何かが立ち塞がっていた。

 ナイラは上を見上げた。

 彼女の頭上、はるかに高いところに牛の頭があった。

 その牛頭につながっているのは巨大な筋肉の塊りである。

 ぼこぼこと石垣のように筋肉が積み重ねられて、四メートルもの巨大な人間の姿を形成している。


 その呆れるほど巨大な体躯に負けないほど大きな戦斧を手にしている。

「ミノタウロスか……」

 呆然としたナイラがつぶやく。

 そして彼女の闇を見通す目は、その背後に獅子の頭をもったナラシンハとオオカミの群れ、そして何人かの人間を認めた。

 その中には、あのプレートアーマーを着込んだ大女も混じっている。


「くそっ、犬どもが臭いを嗅ぎつけたか……。

 さっきのことといい、つくづく忌々しい。

 あの小娘が障壁を出た時に殺しておけば――!」


 ナイラの後悔は途中で吹っ飛ばされた。

 ミノタウロスが物も言わずにいきなり戦斧を横薙ぎに振るったのだ。

 ナイラの身体は胸のあたりで両断されたまま、家の壁に激突した。

 「びちゃっ」という音を立て、半分潰れて壁にへばりついた肉塊が、あっという間に元に戻る。


 そこに踏み込んだミノタウロスが追撃の斧を振るう。

 今度はナイラも身をかがめてそれをかいくぐり、きれいな回し蹴りを怪物のわき腹に見舞った。

 二メートルに満たないナイラの蹴りが、体長四メートルの怪物に通じるわけがないように思えたが、思った以上の衝撃だったらしく、地面を踏ん張っているミノタウロスの足が「ずずっ」と三十センチも滑った。

 恐らく体重が数トンはあろう巨躯を蹴り一発で動かすのである。凄まじい力であった。


 ただ、牛頭の怪物にダメージはないらしく、彼は振り抜いた戦斧をそのまま引き戻してナイラの頭にまともにぶち当てた。

 幅広の刃とは反対側だが、尖った爪のついた鉄の塊りである。

 ナイラの身体は五メートルも吹っ飛び、分厚い城壁に叩きつけられた。

 頭は完全に潰れ、脳漿が飛び散り、眼球は飛び出して地面を転がり、白い歯がばら撒かれた。


 ナイラの首からぶくぶくと青い泡が噴き出して頭が再生する。

 しかし、それまでの瞬間で元に戻るといった感じではなく、やや間を置いた再生の仕方だった。

 ミノタウロスはその巨体からは信じられないような素早さで距離を詰め、再生したばかりのナイラの身体に嵐のような勢いで斧を打ち込んだ。


 乳房が裂け、腹から腸がはみ出し、肋骨が砕け、肉が飛び散った。

 それでも吸血鬼の身体は再生を繰り返すが、そのスピードが徐々に落ちてくる。

 そしてそれ以上にミノタウロスの攻撃は速く、激しかった。


 誰もが目を背けたくなるような陰惨な光景が繰り返され、しまいには何だか訳のわからない青い肉の塊りが、ぶよぶよと震えるだけ――まるでスライムのような物体ができあがった。

 宝剣を手にしたアスカを先頭に、ユニ、アストリア、リディア、それにマリウスが進み出てミノタウロスを下がらせる。


 青い肉の塊りは、腐臭を撒き散らしながら数分をかけてやっとナイラの姿を取り戻した。

 彼女は目の前にいるアスカに気づき、唇をゆがませた。

 どうやら笑ったつもりのようだ。


「よい、わらわの負けじゃ。

 もう精気が残っておらぬ。闇にも潜れん。

 わが首を取るがよい。

 ……だが、その前に一つだけ教えてほしい。

 貴様のその剣は何だ?」


 そう問われたアスカは言葉に詰まった。

 彼女自身、黒蛇ウエマクに与えられたというだけで、詳しい来歴を知らないのだ。


 アスカの沈黙を誤解したのか、ナイラは言葉を重ねる。

「それはミスリルに違いないが、純ミスリルではあるまい。

 だが、造りは間違いなくドワーフの名工が鍛えたものじゃろう。

 あの頑固者たちがミスリルに混ぜ物をするなど、どうしても信じられん。

 一体その剣は何なのだ?

 頼む、教えてくれ」


 その時、思いがけなくユニが口を開いた。

「あなたは〝スレイブニルグの短剣〟を覚えていますか?」

 吸血鬼は首を傾げた。

 眉根に皺をよせ、何かを思い出そうとしている。


「あなたが天上の輝ける軍勢から堕天したのち、吸血鬼となった時代の話です。

 あなたは人間が初めてつくった王国を滅ぼす寸前でした。

 それを阻止したエルフの王があなたの心臓にミスリルの短剣を突き立てて、青い宝珠にその魂を封じ込めたのですが……覚えていないのですか?」


「ああああああああああ!

 思い出した、思い出したぞ!

 わらわを騙して胸を貫いた、あのエルフの短刀か?」


「そうです。

 そのスレイブニルグの短剣を溶かし込んで造られたのがこの宝剣です」

「……そうであったか。

 それならば傷から精気が抜かれたのも納得がいく。

 だが、あれは貴重な宝物のはず。それを溶かすなど――なぜそんなことをしたのだ?」


「短剣はもともとドワーフの宝だったのを、エルフに貸したのだそうです。

 吸血鬼を滅ぼした後、短剣はドワーフに返されました。

 数千年を経て、暴龍がドワーフの宝を奪う事件が起きた時、龍の征伐を人間に依頼したドワーフが人間用の武器につくり変えたのです。

 短剣では短すぎて龍の身体に届かない。かといって短剣に与えられたエルフの祝福がなければ龍の鱗は貫けない。

 そこでやむなく玉鋼に短剣を溶かし込んで幅広の長剣を鍛えたのだとか」


「そうか……だが、なぜ貴様がそんなことを知っている?」

「あなたよりも古い種族の方にお聞きしました。

 それはどうでもよいでしょう」


 ナイラは「ふふ」と笑った。

「……そうだな、どうでもよいことじゃ。

 だがな、貴様らにわらわを滅ぼすことはできぬぞ。

 あくまで滅ぶのは、このナイラという女の魂魄じゃ。

 もともとの〝真祖〟の魂は永遠に闇の中に生き続け、呪いを吐き続ける。

 それを覚悟しておくがよい」


 その言葉が終わるのを待っていたかのように、アスカが宝剣をナイラの乳房に突き刺した。

 そしてそのままずいと柄もとまで貫き通し、一気に引き抜いた。

 ナイラの豊かな胸から青い泡がぶくぶくと噴き出す。


 彼女はかすれた声でつぶやいた。

「このナイラという女、憐れだがなかなかの身体だった。

 鎧女、貴様と人間であった時に手合わせをしたかった――そうこの女が言っておる。

 良き敵であったとな……」


 ナイラの胸の傷口からはじゅくじゅくと泡が噴きこぼれ、やがて傷口を押し開くように青い塊りがせり出してきた。

 それはナイラの身体からころりと転がり落ち、同時にナイラの身体が崩壊した。

 周囲に腐臭が一気に広がり、誰もが吐き気に口を押さえた。


 ユニもハンカチを顔に当てながら、転がり落ちた宝珠を拾い上げた。

 丁寧に汚れを拭き取ると、鮮やかなターコイズブルーに輝く鶏卵大の宝珠となる。

 彼女はいつの間に用意したのか、美しい装飾がなされた宝石箱を取り出し、その中に宝珠を納めた。


「それが魔人の心臓か……。

 ユニ、すまぬがよく見せてくれないか?」

 アリストアが横からかがんで顔を近づける。


「駄目です」

 ユニの答えはにべもない。

「どうしてだ? 見るだけだぞ」


 ユニは答える代わりにアリストアの目の前に宝石箱を差し出し、その蓋を開けた。

 だが、中には何も入っていない。


「どういうことだ!

 君は手品でも使ったのか?」


「どういうことって、こういうことです。

 これはウエマク様に持たされたんですよ。

 私も仕組みは知りませんけど、この中に入れた物はウエマク様の宝物庫に転送されるそうです。

 何でか知りませんけど、ウエマク様から『魔人の心臓をアリストアに触れさせないように』って言われてましたから」


「……」

 アリストアは何も言えなかった。

 自分の心の奥底の密かな願望を、あの黒蛇は見透かしているのか……。

 背筋が凍るほどの思いだったが、それを周囲に気取られるわけにはいかなかった。


「まぁ、ウエマクが管理するというなら、それ以上に安全なところはないだろうね。

 リディア、真夜中だが街中に吸血鬼が滅んだことを伝えた方がいいだろう」

 赤龍帝は可愛らしい笑顔を見せた。


「アリストア殿、ご協力感謝いたします。

 ユニ、アスカ。二人にはどれほど礼を言っても足りぬ。

 実は赤城うちの料理人はエール造りの名手でな、奴に気取らぬ居酒屋料理とやらを用意させよう。

 それと秘蔵の冷えたエールだ。

 それでどうだ?」


 ユニとアスカは顔を見合わせ、にやりと笑って親指を立てて見せた。

 リディアはうなずいて引き返す。

 待っていたヒルダとロレンソの背中をぽんぽんと叩いて声を掛けた。

「二人とも、ずいぶんと無理をさせたな。

 ありがとう。

 だが、後始末が待っている。もう少し気張ってくれ」


 二人の副官は「はっ」と答えて敬礼をする。

 リディアはロレンソの軍服の袖をこっそりと引っ張った。

 少佐がリディアの顔に耳を近づけると、彼女は周囲に聞こえないよう早口でささやく。


「今日、何人やられた?」

「十六人です」

「そうか、遺族への殉職報告は私が書く。

 軍葬の用意を頼む」

「心得ました」


 彼らは真夜中の道を足早に赤城へと戻っていった。

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