呪われた宝珠 十五 ヒルダ

「敵襲!」

 ハルマン少佐の絶叫に、地面でへたばっていた輜重兵たちは一斉に飛び起きる。


 普段は護身用のショートソードしか身に帯びていない兵たちは、慌てて武器や防具を積んでいる荷馬車に駆け寄り、荷降ろしを始めた。

 すでに敵影が見えているというのに、そんなことで間に合うはずもないのだが、パニックに陥っている彼らにはそれすら理解できない。


 彼らとて兵士であるから、それなりの戦闘訓練は積んでいる。

 しかし、それは建前であって、指揮官のハルマンを除けば、実際の戦闘を経験した兵は皆無に等しい。


 少佐はぎりぎりと歯ぎしりをして――いきなり深い溜め息をついたと思うと脱力した。

 彼はくるりと振り返った。


「どうも俺の訓練は甘かったようだ。

 帰ったら奴らをしごきあげなければならんな。

 ヒルダ大尉、情けないがご覧のとおりの有様だ。

 後はよろしく頼む」


 ハルマン少佐はそう言うと、目の前に立つ女性士官に頭を下げた。


      *       *


 イラーヒムは全軍の先頭に立ってラクダを駆っていた。

 手には抜身の半月刀シャムシールが握られ、それを指揮棒のように振りかざす。


 前方に見える敵の輜重隊は遠目にもわかるほど混乱している。

 自分たちを迎え撃つ防御陣形すらとっていない。


 作戦は見事に的中した。

 これも空中から敵の動きをすべて掴んでいたからこそだ。

『楽な戦争になるぞ……』

 イラーヒムは心中ほくそ笑んだ。


 緩んだ顔が、次の瞬間わずかに引き締まった。

 敵との距離はおよそ二百メートル、今はまだ狭い道の両脇に切り立った崖が迫っているが、それがどんどん低くなっていく。


 もうじき一気に視界が開けるはずだ。

 そうなれば、包囲殲滅など容易たやすい。

 もちろん、作戦上は敵を追い立てて先発した戦闘部隊へと追い込む手筈になっている。


 その道が開けるであろう地点に、一人の敵が立っている。

 王国軍の士官服を着込み、両足を開いて踏ん張り仁王立ちになっている。

 手には抜かれたロングソードを握っている。


 視力のよい砂漠の民であるイラーヒムには、もうその表情すら捉えられる。

 銀色の髪をおかっぱに切り揃え、黒いサングラスをかけた女性だ。

『気でも狂ったのか……?

 まあいい。踏み潰して通るだけだ」


 一瞬の緊張はすぐに解けた。

 もう敵との距離は百メートルほどに詰まっている。

 イラーヒムは後に続く部族の者たちに突撃を命じるべく後ろを振り返った。


 その瞬間、彼の視界を黒い影が遮った。

 何か大きなものが頭上を通り過ぎた感じだった。


 彼はその正体を掴むべく前に向き直った。

 ――さっきまで女が立っていた場所の前に怪物がいた。

 ライオンの下半身に鷲の上半身を持った巨大な怪物――グリフォンだ。


 部隊に停止を命じるか? ――いや、遅すぎる。全速で駆けているラクダを急に止めることはできない。

 そんなことをすれば、後ろから来るラクダが衝突してパニックを起こすだけだ。

 それがわかっているから部下たちも怪物を目にしながら止まろうとしない。

 緩制動をかければ止まれるが、そうなれば怪物の目の前に首を差し出す格好となる。


 イラーヒムは喉を限りに叫んだ。

「怪物を相手にするな! 両脇を駆け抜けろ!

 敵と乱戦になればこっちのものだ、行けーーーーっ!」


 背後から「おおーっ」という野太い声が聞こえる。

 彼の指令は後続の部族兵までは伝わらないが、彼らは先頭に立つ者たちの行動に従うようになっている。

 先頭を駆ける集団はぎりぎりまで突撃する体制を保ち、グリフォンの直前で二手に分かれるつもりだ。


 彼我の距離は五十メートルを切った。

 近づくにつれ、怪物の巨大な姿が現実の恐怖となって迫ってくる。

 体長は三メートル近く、翼長は五メートルを越すのではあるまいか。

 鳥の前脚が異様に長く太いのは、四足で立つ上でバランスを取るためなのだろう。


 その怪物がいきなり巨大な翼を広げ、ぶわっと羽ばたいた。

 ふわりと怪物の身体が浮き上がり、次の羽ばたきでぐんと前に加速する。


 あっという間にグリフォンはミルド族部隊との距離を詰めた。

 イラーヒムが何かを叫ぼうとした時、彼の視界は鉤爪を開いたグリフォンの前脚で一杯になり、そのまま意識が途切れた。


 先頭を走るイラーヒムとラクダの頭を、グリフォンは二本の前脚で軽々と千切り取った。

 土埃をあげて地面に倒れたラクダに、後続のラクダが次々に突っ込んで転倒していく。

 運よくすり抜けた者たちは、空中を舞うグリフォンに襲われた。


 くちばしで頭蓋を割られる者、鉤爪が胴体を貫通する者、獅子の後脚に蹴られて転落する者。

 即死した者は幸いである。息のあるままラクダから転落した者は、あっという間に踏みつぶされ、さらにむごたらしい死を遂げた。


 今まさにタミル渓谷が終わり、道が開けようとしている場所に、巨大な堰が築かれた。

 ミルド族部隊の先鋒三百人余りが、ものの数分で壊滅したのだ。

 グリフォンの餌食になったのは三十人ほどに過ぎない。

 残る兵たちはすべて轢死・圧死であった。


 グリフォンは再び大きく羽ばたくと、一気に敵の最後部へと飛ぶ。

 眼下の狭い隊商路には、敵の悲惨な状況が延々と繰り広げられていた。

 急制動をかけて後続の衝突を招き踏み潰された者や、パニックを起こして逃げようとし、結局は圧死する者が後を絶たない。

 最後尾では、どうにか停止したものの、先頭で何が起きているのかわからない兵たちが混乱に陥っていた。


 グリフォンは上空から彼らに襲いかかり、そこにもラクダと人間で死体の山を築き、敵の後退を不可能にする。

 自分の仕事に満足したグリフォンは自由気ままに敵兵の上空を舞い、下から矢を放つ気力のある者を見つけると、急降下してその首を狩った。

 矢は怪物の身体に当たっても、その分厚い皮膚と羽毛にはじかれ、まったくの無力だった。


 巨大な翼を羽ばたかせた怪物が空を舞い、高度を下げるたびに仲間の首や上半身が千切り取られていく光景を見せつけられ、敵の戦意はあっという間に霧散した。

 結局、グリフォンの気ままな狩りは、わずか二十分ほどで中止された。

 敵が降伏したためである。


 ミルド族二千人の部隊で生き残ったのは半数に過ぎなかった。


      *       *


 ハルマン少佐は憮然とした表情でヒルダ大尉の隣りに並んだ。

 目の前にはうず高く積み上げられた、ラクダと人間の山がそびえている。

「すべてはお偉いさんたちの計画どおりなんだろうがな……。

 賭けてもいい。奴らこの死体の山を誰が片付けるかなんて、これっぽっちも考えてないに違いない」


 ヒルダは苦笑いを返す。

「まあ敵の捕虜も使えるでしょうから、多少は楽になりますよ。

 それに先発した戦闘部隊もそろそろ引き返してくる頃です。

 彼らにも手伝わせますよ」

「当たり前だ!」


 少佐の機嫌は直らない。

 この地に物資の集積所を作るというのは、敵を欺くための偽装行為だ。

 しかし、輜重隊の再編という作業の必要性は現実のものだった。

 そこに大量の死体処理と捕虜の護送任務が追加されたのだ。


 今回の出兵では、工兵隊が臨時に輜重隊に配属されて物資の運搬に当たっていた。

 死体処理の穴掘りは彼らの専門分野だから、それを分けなければならない。


 捕虜を手伝わせると言っても、それを監視・監督する部隊も編制なければならない。

 しかもその部隊はレリン市に着くまで護送任務に当たることになる。


 輜重隊の指揮官は、ヒルダ大尉に延々と愚痴を語り続け、最後にこう付け加えた。

「とにかくだ、上の連中は何もわかっちゃいない。

 一体誰のおかげで戦争ができると思っているんだ!」

 最後の一言は、輜重隊全将兵の〝決まり文句〟だ。


 ヒルダは顔から黒いサングラスを外した。

 露わになった瞳は角度によって赤く見える。

 少し眩しそうに目を細めながら、彼女は少佐を慰めた。

「上の者はともかく、現場の兵士たちはよくわかっていますよ」


      *       *


 ヒルダ・ライムクラフト大尉は、赤龍帝の副官であると同時に幻獣グリフォンを従える国家召喚士である。

 ヒルダというのは愛称で、正式にはヒルデガルドと言う。

 女性国家召喚士は比較的珍しい。


 国家召喚士は王国全体で三十人近くいるが、不思議なことに男性の割合が極端に高い。

 召喚士自体の男女比はほぼ同一なので、なぜそうなるかはまだわかっていない。

 現在、王国内の女性国家召喚士は七人で、軍内部ではとある伝説になぞらえて彼女たちに〝ヴァルキュリア(いくさ乙女)〟というあだ名をつけていた。


 ヒルダは三十四歳。百七十センチ余りの背丈で、女性としては長身の方だ。

 生まれつきの色素欠乏症アルビノで、銀髪や抜けるような肌の白さ、そして赤い目はそのためである。

 陽光が苦手なので、戸外ではサングラスをかけることを軍から許されている。


 彼女は顔以外ほとんど肌を露出することがない。

 色白でスタイルもよいので、もったいないという者もいるが、彼女自身は全身の血管が透けて見える裸体がコンプレックスになっていた。

 表向きは日焼けしやすく、しかも火傷のように重症化するからというのが理由(実際そのとおりだが)である。


 頭がよく、理性的で、しかも辛抱強いという性格のため、現在は若い赤龍帝リディアの教育係も務めている。

 彼女はそのことを名誉だと思い、日月を重ねるたびにリディアを愛するようになっていった。

 リディアからの信頼も厚く、もう一人の副官であるロレンソを嫉妬させるくらいだった。


 ただ、ロレンソはヒルダ以上にリディアを溺愛し、甘やかしていたので、周囲の者は皆「ヒルダがいてよかった」と噂し合っていた。

 リディアは二人の副官をできるだけ平等に扱ったが、赤龍帝らしくない振る舞いをヒルダに叱られると、すぐにロレンソを盾に使うという悪い癖があった。


 彼女の幻獣グリフォンは、その戦闘力の高さ以上に、空を飛べるという希少な能力が高く評価されていた。

 ただし、その体格のためか長時間の飛行は難しく、せいぜい一時間程度しか連続して飛べないという制限がある。

 それでも移動能力と偵察能力にすぐれたグリフォンは、南方諸国との紛争において威力を発揮するだろうと、かねてから期待されていた。


 今回、ユニの報告で首長国連邦――特にサキュラ首長国は、呪術師に操られた鳥によって上空からの偵察を多用してくることが予想されていた。

 第三軍がそれを把握していたというのは、サキュラ側からすれば全く予想外のことだった。


 〝鷹の目〟はひた隠しにされてきた秘術である。

 まさかサイードが亡き父ムバラックからその存在を知らされていたとは、さすがにサキュラの呪術師も知らなかったのだ。


 それを考えると宝珠を奪われたものの、サイードの身柄を取り戻したユニの活躍は、戦局を大きく左右したと言える。


 当然、南オアシスで隊商路を封鎖している敵軍が、〝鷹の目〟を利用して待ち伏せや奇襲を仕掛けてくることも完全に予想されていた。

 そのため、ヒルダは頻繁に上空偵察を行い、敵の動向をさぐっていた。

 グリフォンの巨体は低空では簡単に発見されるため、かなりの高高度から雲に身を隠したりしながらの困難な任務であった。


 ただ、グリフォンの頭部は鷲のそれであり、猛禽類の優れた視力も備えていたので、かなりの精度で地上の様子を探ってくれた。

 呪術師の操る鳥たちは、グリフォンよりも低空を飛んでいたので、その動きに全く気がついていなかった。

 結果として、ミルド族部隊がピラーキャニオンに潜んで後方から攻撃を仕掛けようとしていた動きは第三軍に筒抜けとなる。


 自分たちは期待されたとおりの動きをして、敵がまだ谷底の狭い路上にいる間に前後を急襲する作戦が、第三軍内で立てられていたのだ。

 幻獣一体で二千人の部隊を叩き、降伏させる。

 まさに国家召喚士が〝一軍に匹敵する〟と言われる所以ゆえんである。


 この二日後、第三軍の派遣軍はレリン市に入った。

 五千人の戦闘部隊が南オアシスの敵部隊を撃破し、千人の捕虜を引き連れてきたのである。

 市民が熱狂的に歓迎したのは言うまでもない。


 捕虜の監視部隊は、ハルマン少佐が強硬にねじ込んで、戦闘部隊の中から編成させたものだった。

 輜重・工兵の混成部隊、三千人のすべてがレリン市に入城したのは、戦闘部隊に遅れること二日後のことだった。


 それでも、王国軍はぎりぎり開戦に間に合ったのである。

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