秘匿名「R作戦」 九 通じる思い

 翌日、ロゼッタが起きて宿屋の階下に降りてきたのはお昼を回った頃だった。

 長期の監禁と過酷な逃避行の後である。多少寝過ごしたところで誰も責める者はいない。


 アリストアたち参謀本部の面々は、すでに早朝には王都に向けて出立していた。

 ちなみに、アリストアは替えの軍服に着替えていたし、ロゼッタは深い眠りの中だったので、見送りはもちろん、洗濯をすることも叶わなかった。


 ロゼッタは迎えに来るはずの両親を待って、カイラ村に残っていた。

 彼女はそれまでの時間にユニのもとを訪れ、改めてユニとフェイに助けてもらった礼をしようと思い立った。

 宿の女中にユニの居所を聞いて、村はずれの農家の作業小屋を訪ねる。


 ユニに招き入れられて簡素な小屋の中に入ると、フェイが意味不明な叫び声をあげて飛びついてきた。

 ロゼッタは苦笑しながら彼女を抱きとめ、栗色の髪の毛をくしゃくしゃにして撫でてあげる。


「大丈夫? ご飯食べた? 足は痛くない? その服どうしたの?」

 矢継ぎ早に質問を浴びせかけるフェイの表情はくったくがなく、大きな目がくるくると動いて表情が豊かだ。


 少女の細い体を抱きしめ、間近でその顔を見ると、改めて顔一面を覆う柔毛に気づかされる。

 森の中を一緒に逃げている時は、そんなこと一瞬も意識しなかった。

『アスカさんはいい子を引き取ったわね。何だか少し羨ましいわ』

 そう思わずにいられなかった。


 ライガはロゼッタがユニたちと談笑している間、フンフンと彼女の匂いを嗅ぎまくっていた。

 ロゼッタはこれまでもアリストアの執務室の外の廊下でおとなしく待っているライガを見かけたことはあるが、こんなに間近で接するのは初めてで、改めてその大きさに驚いていた(実際には昨日も会っているのだが、ロゼッタにはライガに注意を向ける余裕がなかった)。


 ユニは「オオカミは初対面の相手の匂いを確認する習性があるの」と言い訳しながら、ロゼッタのお尻を嗅いでいるライガを横目で睨んだ。

 ロゼッタは、そういえば滝の洞窟で救出された後、ジェシカとシェンカにも散々匂いを嗅がれてひどく恥ずかしかったことを笑って話し、ライガの行動をあまり気にしていないようだった。


 ロゼッタが去った後、ユニはライガを叱りつけた。

「また、あんたは!

 あたしが恥ずかしい思いをするんだから、匂いを嗅ぐにしても、もうちょっと遠慮しなさい!」


 ライガはユニの罵声をどこ吹く風といった表情で受け流す。

『何度も言ってるがなぁ、匂いで情報を掴むには尻を嗅ぐのが一番効率がいいんだ。

 いいかげん覚えろよ』

「だから人間の世界では、それが失礼だって言うのよ!

 特に相手が女性ならなおさらよ」


 ライガは「フン」と鼻を鳴らす。

『それにしてもあの女……。

 いや、これはお前たちの言葉で言う〝余計なお世話〟という奴だったな』


「……何よ」

『……ん? 何がだ?』


「だから、ロゼッタがどうしたのよ!」

『ああ、気にするな。余計なお世話だと言ったろう?』


「だーかーらー!

 そこまで言われたら、気になるでしょうが!

 さっさと白状なさい!」


『まったく、お前ら人間という奴は……時々理解に苦しむぞ。

 まぁ、大したことじゃない。

 あの女、ついさっき入浴したらしい』


「そんなの、あたしでもわかったわ。

 石鹸の匂いがしてたもの。

 ――で、それがどうしたのよ?」


『風呂で身体を洗ったというのに、体中からあのアリストアという奴の匂いがぷんぷんする。

 特に尻の――』

 ユニはライガの鼻面を殴りつけ、デリカシーのないけだものの話を強制的に打ち切った。

 いきなり弱点を殴られ、ひんひん鳴いて抗議するライガを無視して、ユニは冬の空を見上げる。


「そっかぁ……。

 ――おめでとう、ロゼッタ」


      *       *


 その日の夕方、五時頃になってファン・パッセル家の馬車が村に着いた。

 ロゼッタと両親は涙の再会を果たしたわけだが、王都の富豪商人がやってきたということで、カイラ村は近郊の枝郷からも見物人が押し寄せる騒ぎとなった。


 四頭立ての大型馬車は、精緻な彫刻と意匠を凝らした装飾の豪華なものだったし、警備の私兵はピカピカに磨き上げられた装備で、まるで王国の儀仗兵のようだった。


 ロゼッタの両親は、ユニとフェイに涙を浮かべて感謝の言葉を述べ、ユニが参謀本部から受け取った報酬の数倍に当たる多額な謝礼を無理やり受け取らせた(フェイが受け取った謝礼は、後でアスカにそっくり預けられた)。

 他にも犯人逮捕に尽力した村の警備兵には多額の謝礼金が振舞われたため、その夜のカイラ村の居酒屋は過去最高の売上を記録することとなった。


 フェイたちが逃走のために無断で借用し、そのまま下流に流された舟の持ち主である川漁師は、新造の舟を五艘買ってもお釣りが出るくらいの謝礼をもらい、驚きのあまり発作を起こして医者に担ぎ込まれたという噂だった。


 ロゼッタの世話をした宿の女中たちも過分なチップをもらったが、中でも彼女にチョコバーをくれた親切な中年の女中には、彼女の一月ひとつき分の給金を上回るチップが与えられ、ホクホク顔になっていた。


 ロゼッタは翌朝、多くの村人に見送られ、両親とともに王都へと戻っていった。

 彼女には療養の名目で、最長一週間の休暇が与えられていたが、見送りの群衆に混じって手を振っていたユニは「きっと王都に帰った翌日には出勤するんだろうな」と思っていた。


 実際、彼女の予想どおりであった。


      *       *


 アリストアは朝、七時半きっかりに執務室に入ると、座りなれた椅子に腰を掛けた。

 それを待っていたかのように、秘書官室に通じる扉が軽くノックされ、「どうぞ」という彼の声とともにロゼッタが入ってきた。


 彼女は皺一つない女性用軍服を完璧に着こなしている。

 背筋がぴんと伸びた姿勢、膝を隠すタイトスカートから伸びる脚線美、豊かな金髪を一筋残さず見事に結い上げ、顔には理知的な印象を与える銀縁の軽い眼鏡をかけている。

 控えめだがきりっとした印象を与える化粧が彼女の美貌をさらに引き立て、〝参謀本部の華〟とあだ名されるのも「さもありなん」とうなずける。


 まさに秘書の中の秘書。軍の高級幹部には美貌の女性秘書が多かったが、誰もがアリストアを羨んでいた。


 ロゼッタは銀のお盆を手に入ってきた。

 その上には茶器とカップ、それに小皿がのっている。


「おはようございます」

 鈴を転がすような声でアリストアに挨拶をすると、彼女は執務机の上にお盆を置き、専用のカップを彼の目の前に差し出す。


 「コトッ」という微かな音がするだけで、「ガチャリ」という耳障りな音は決してさせない。

 それはロゼッタの小さな誇りであった。

 そして、ティーポットから淹れたての熱い紅茶を注ぐ。


 たちまち周囲にバラのような香りが広がり、そこだけがさっと明るくなったような錯覚を覚える。

 ティーポットをお盆の上に戻すと、今度は小皿を手に取ってアリストアの前に置く。

 その上にはロゼッタが今朝焼いてきたクッキーがのっている。


 それはいつもの朝の儀式のようなようなものだ。

 アリストアは小さくうなずき、「ありがとう」と謝意を示す。

 ロゼッタも軽くお辞儀をして、執務机の上からお盆を持ち上げ、秘書室に戻ろうとする。


 その背中にアリストアの声がかかる。

「待ちたまえ――」

 彼女は立ち止まり、振り返って小首をかしげる。

「何か――?」


 アリストアは少しきまり悪そうな顔をして彼女に訊ねる。

「その……クッキーなんだがね、いつもは二枚だったように思うのだが、なぜ今朝は三枚なのだね?」


 ロゼッタの少し不審げな顔が、たちまち満面の笑みに塗り替えられる。

 何だ、そんなことですか……といった顔で彼女は答えた。

「アリストア様がそうお望みだと思いましたので……違っておりましたか?」


 アリストアの血色の薄い頬に赤みがさす。

 それは、クッキーの枚数を増やしてもらいたいと思いながら、なかなか言い出せないでいた心中を見抜かれた狼狽のためであった。

 「なぜ、わかったのかね?」と訊きたい気もしたが、多分それは〝野暮な質問〟なのだろうな、と思う。


「……いや、それならいいのだ。

 その……そうだな、明日からも三枚で頼む。

 呼び止めてすまなかった」

 ロゼッタは再び軽くお辞儀をして、秘書室への扉を開けた。


 ティーポットを流しの上に置くと、彼女は銀のお盆を胸に抱いて小さな台所の壁に背中を預けて「ほうっ」と溜め息をつく。

 ポットに温められたお盆から、彼女の豊かな胸にじんわりと熱が伝わってくる。


 ロゼッタの頭の中に、森の中で聞いたフェイの言葉が浮かんでくる。


『顔を真っ直ぐ見て、相手の瞳をじっと見つめるの。

 そうするとお互いが心から思っていることって、通じるのよ』


 ――赤い口紅が塗られた形のよい唇に、小さな笑みが浮かんだ。

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