秘匿名「R作戦」 八 白馬の王子様
ユニのオオカミたちに乗せられて、フェイとロゼッタは街道まで辿り着いた。
オークに襲われた地点から、森を抜けるまでは数分。
フェイたちは本当にゴール寸前まで来ていたのだ。
ユニはオオカミたちと共にフェイの匂いを追っていた。
一方、アリストアはユニの推測どおり、アランの操るロック鳥でカイラ村に駆けつけてきた。
既に誘拐団の一味は野営跡で待ち伏せていた村の警備隊によって、全員が捕縛されていた。
アリストアはユニの報告、そして誘拐犯人たちの自供から推測し、フェイとロゼッタが到達するであろう地域を推定した。
その街道筋に村の警備兵を分散配置をして彼女たちの救出に備えていたのだが、その地点から少し離れた北側にある
オークはこの近辺の森に潜伏していると見られ、確率は低いがロゼッタたちと遭遇する可能性が捨てきれない。
そこで、アリストアは念のためミノタウロスにオークの討伐を命じていたのだ。
神の
* *
ユニたちがミノタウロスとともに街道に達すると、アリストアや村の警備兵たちが待ち構えていた。
アリストアやライアン中尉たちは、ロゼッタの無事を喜んで、すぐに駆け寄ってきたが、ロゼッタはユニの陰に隠れて決して彼ら――特にアリストアの側に寄ろうとしなかった。
彼女は街道上に参謀本部の人間が待ち構えているのを見て取ると、そこへ着く前にユニを呼び寄せた。
ライガに乗ったユニが、ハヤトのすぐ隣に並ぶと、ロゼッタはユニの身体を抱き寄せ、耳元でささやいた。
それは、いつものロゼッタとは違う、地獄の底から聞こえてくるような低い声だった。
「ねえユニさん、私匂う?」
ユニはあいまいな笑いを受かべて答える。
「ええ、少し……。
――でもでも、一週間も監禁されていたんだから、仕方ないわよ」
ユニの慰めは全くロゼッタには届いていないようだった。
がっくりと肩を落とし、涙声で訴えた。
「お願い、一刻も早くお風呂に入らせて!
そうでないと私、アリストア様のお側に一生近づけないわ」
ユニは同じ女性として、彼女の思いが理解できた。
だからロゼッタの防波堤として、彼女に近づこうとする男どもを排除する役目を粛々として務めた。
それは相手がアリストアとて例外ではない。
カイラ村へと向かう道中、アリストアは何度もロゼッタに近づこうとしたが、その企みはことごとく潰されてしまった。
彼が馬を駆って彼女のもとに近づくと、ロゼッタを乗せたハヤトはあらかじめ言い聞かされているのだろう、すっと距離を開けて離れてしまう。
アリストアはやむを得ずユニを呼び寄せた。
ライガに乗るユニと、馬上のアリストアが並走する。
アリストアが前を見据えたまま、腹話術師のように口を動かさずにユニに尋ねる。
「ユニ、どうしたのだロゼッタは?
なんで私を避ける?」
ユニも同じく口を動かさずに答える(もっともアリストアほど上手くはなかったが)。
「ロゼッタは一週間も監禁されて風呂にも入っていません。
察してください!」
アリストアは「んぐぐっ」と呻いた。
そして、口を動かさないで「すっ、すまん!」と口走り、そのまま離れていった。
それきり、カイラ村に着くまで、彼はロゼッタに近づこうとはしなかった。
* *
カイラ村に着くと、何よりまずロゼッタは入浴を熱望した。
フェイが食事を欲したのとは対照的だった。
カイラ村はかなり規模の大きな親郷だったので、設備のととのった宿屋が何件かあった。
アリストアは手回しよく、自分が滞在している部屋の隣りをロゼッタ用に確保していた。
彼女はそこに通された。
村に着く前に、ロゼッタは着替えのことをしきりに心配していたが、アリストアがロゼッタの母から託されたスーツケースを渡したことで解決した。
ロゼッタの両親も、娘を迎えにすでに昨日王都を発っているとのことで、明日の夕方にはカイラ村に到着する予定になっていた。
ロゼッタは宿の部屋に通されると、すぐに母親からのスーツケースの中身を確かめた。
その中には、彼女の普段着に下着一式、それに化粧道具までもが詰められていた。
彼女は石鹸の香りがほんのりと残る衣服を抱きしめ、涙を浮かべて母に感謝した。
すぐに宿の女中たちが木の湯桶にお湯を張り、入浴の準備を整えてくれる。
待ちかねたお風呂だ。
彼女の実家なら、防水のタイル床に大きな石造りの湯船があるのだが、地方の宿屋では贅沢は言えない。
ロゼッタは汚れた衣服を脱ぎ去り、湯船に身を沈めた。
思ったより上等のシャボンが用意されており、彼女はホッと溜め息をついて海綿で身体をこする。
たちまち湯の表面に白い垢が泡のように浮び上がり、お湯は茶褐色に染まった。
自分の身体だとはいえ、彼女は落ち込まざるを得ない。
そして身体の隅々まで洗ううちに、あることにも気づく。
少し慌てて、母親が用意してくれた化粧道具の入ったポーチをまさぐると、中に婦人用の剃刀が入っていた。
――さすがは母であった。
あまりにお湯が汚れすぎて、ロゼッタは身体にバスタオルを巻いて呼び鈴を鳴らした。
すぐに五十代くらいだろうか、恰幅の良い女中が現れる。
「申し訳ございません。
お湯を替えていただきたいのです……。
本当にすみません」
ロゼッタが小さな声で謝ると、女中は豪快に笑って彼女の背をどやしつけた。
「話は聞いていますよ、お嬢さん。
大変だったねぇ。
あんたみたいな別嬪さんが、お風呂にも入れずに捕まっていたなんて、なんてまぁむごいことですよ。
そんな小さくならなくてようございますから、少し待っていてくださいな」
女中は部屋の外へ顔を出して声をかけると、湯桶の湯を抜いた。
「軽く湯桶を洗いますから、ごめんなさいましね」
そう言って女中はさっと、湯桶についた汚れをタワシでこすり始めた。
同時に部屋の扉が開き、女中たちが次々に湯の入った手桶を持って入ってくる。
湯桶に湯を注ぐと、すぐに次の女中が次の湯を注ぐ。
あっと言う間に湯桶の半分ほど湯が溜まり、女中たちが去って行った。
ロゼッタは、おずおずと残った中年の女中に話しかける。
「あの、お風呂を上がったら髪も洗いたいのですが、お手伝いいただけますか?」
女中はぽんと胸を叩いた。
「ようございますよ。
厨房の隣りに髪が洗える洗面台がございますから、お手伝いいたします。
お風呂が終わりましたら、呼び鈴を鳴らしてくださいませ。
――あ、それと……」
女中はエプロンのポケットからロウ紙の包みを取り出した。
その中には、ナッツをチョコレートで固めたチョコバーが入っていた。
「何もお食べになっていないのでございましょう?
一刻でも早くきれいになりたいというお気持ちはわかりますが、少しでもお腹に入れておおきなさいまし」
女中の親切にロゼッタは涙ぐんだ。
身体を洗いたい一心で忘れていたが、言われてみれば猛烈な空腹感が襲ってくる。
行儀が悪いとは思ったが、その場で彼女はチョコバーを齧った。
強い甘みが口の中に広がり、彼女の身体にあっという間に吸収されていくのがわかる。
普段の彼女なら決して口にしない程の甘さだったが、今はそれがありがたい。
ロゼッタはお湯を替えた湯船で再び念入りに身体を洗い、その後に女中の手を借りて洗髪をした。
親切な女中は手回し式のドライヤーを用意してくれて、若い女中と二人で彼女の髪を乾かしてくれた。
真新しい下着がとにかく嬉しかった。
髪を
彼女が宿に入ってから四時間を経過していた。
* *
ユニが滞在している作業小屋では、とりあえず、たらふくご飯を食べさせてもらった後、フェイはユニからお説教をくらっていた。
「ねえ、フェイ。
あたしはあなたに夕方には戻るように言ったわね?
決して危ないことはしないってこともね。
あなたがロゼッタを助けようと思ったことは間違っていないわ。
でも、あなたは判断を間違えた」
ユニの目は真剣だった。
「あなたがロゼッタを見つけた時、そのまま帰って、あたしに事態を報告してくれたら、多分もっとうまく行っていたと思うわ。
シェンカが怪我をしたり、ロゼッタが森の中を引っ張りまわされてボロボロになったり、あなたの頭がオークの棍棒でミンチになりそうになったり。
全部あなたの判断ミスが招いたことだわ。
わかる?」
フェイには反論ができない。
よく考えてみればユニの言うとおりだったからだ。
うなだれているフェイを見て、ユニは大きな溜め息をついた。
「とにかく、あなたが無事でよかったわ。
あなたがオークに殺されでもしたら、可哀そうなアスカがどうなるか……わかるでしょう?」
フェイはこくりとうなずいた。
ユニはその頭をぺしりと叩く。
「わかればよし!
お小言はこれでおしまい。
どお? 小刀や干し肉は役に立ったでしょ。
今度は火の起こし方とか、ウサギの捌き方とか教えてあげるわ。
明日にはアスカが迎えにくるはずだから(彼女にこのことを説明して謝ることを考えると頭が痛い)、晩御飯まで遊んでらっしゃい」
* *
同じ頃、村の外ではジェシカとシェンカがライガとハヤトからお説教を食らっていた。
「お前らは――夕方までには帰れ、フェイを危ない目に遭わせるなって、口を酸っぱくして言われたろうが!
何だってこんな無茶をした!」
その後の説教は、ユニがフェイに言った内容と全く同じだった。
ただし、姉妹の方はお説教だけで無罪放免とならず、罰則がついた。
「いいか、お前らにはユニから罰が言い渡されている。
一緒に来い!」
祖父と父からの叱責を受けて、姉妹は尻尾を脚の間に入れてしゅんとしている。
連れていかれた先は、村の宿屋の裏手だった。
そこにはユニと宿の女中らしい若い娘が三人待ち構えていた。
みんな腕まくりをし、水仕事用のゴム引きの大きな前掛けを身に着けている。
ユニがにやにやとしながら刑の宣告をする。
「さあ、あんたたちのその泥だらけな身体をきれいにしてあげるから、覚悟しなさい!」
姉妹は「ひっ」という悲鳴を上げて逃げようとしたが、退路はライガとハヤトがふさいでいる。
ユニと女中の手で、二頭は首根っこを押さえられ、洗濯場に引きずり出された。
一時間後、ふわふわの毛玉と化したオオカミ姉妹は、フェイの大爆笑を受けてほうほうの
彼女たちへの罰としては、十分なものであったろう。
* *
夕食が終わり、それぞれが自室に戻った頃、ロゼッタの部屋をノックする音がした。
彼女には、それがアリストアであることがわかっていた。
上司を部屋に招き入れると、二人はこの日初めてまともに向かい合った。
ロゼッタは母が届けてくれた私服に身を包んでいた。
厚手の格子柄ブラウスに濃紺のフレアスカートだ。
ぴったりとした軍服のタイトスカートの彼女と違って、ふんわりとした優しい感じがする。
ブラウスの上には黄色いカーディガンを羽織っている。
勤務中は結い上げている豊かな金髪は自然な感じでおろされ、端正な顔を包んでいた。
胸元には細い鎖に小さな赤い宝玉が吊るされたネックレスが輝いている。
質素でいながら上品で、女らしい姿は、見慣れた軍服姿とは異なり、とてもはかなげであった。
アリストアは椅子に腰かけると、小さく溜め息をついた。
「わかっていると思うが、君は軍の一員だ。
その君が誘拐され、身代金が要求された。
警衛隊はもちろん、参謀本部も各方面を巻き込んで捜索・救出に動いた。
それも軍の仕事の一部であり当然のことだ。
したがって、軍としては正式な調書を取らなければならない。
わかるな?」
ロゼッタは立ったままでうなずいた。
「ならば、ことの経緯を話してもらおう」
――彼女は中央公園で本を読んでいたところを暴漢に襲われ、当身を受けて気絶したこと、気づいたら縛られて馬車の中に転がされていたこと、そのまま滝の裏の洞窟まで連れていかれ、そこで監禁されていたことを淡々と話した。
アリストアは時々メモを取りながら、彼女の話をうなずきながら聞いていた。
「――で、だ。
そもそも君はなぜ中央公園にいたのかね?
普段の君ならその時間には、とっくに王城内に着いていたはずだろう?」
ロゼッタは言葉に詰まった。
しかし、自分の上司に隠し事や嘘が通用しないことは、彼女が一番よく知っている。
ロゼッタは親友のドリスが立てた計画を正直に語った。
アリストアは大きな溜め息をつき、椅子に身を沈ませた。
「くだらん三文芝居だ――。
まぁ、君の友人のことはとやかく言うまい。
だが、なぜ君はそのくだらない計画に乗ったのだ?
君はもっと、その――賢明な女性だと私は思っていたのだが……」
言葉もない。
恥ずかしさに頬が紅潮し、目に涙が浮かんでくる。
彼女は消え入りそうな声で口を開いた。
「アリストア様を……試そうと思いました……。
少しでも私のことを気にかけてくださるのだろうかと……」
「くだらん!」
アリストアは吐き捨てた。
「私の愚かな行いで、参謀本部の皆さまに、そしてアリストア様にご迷惑をおかけしたことは、心からお詫びいたします。
どのような処罰も、甘んじて受ける覚悟です」
ロゼッタは力なくつぶやいた。
「ん? 何か勘違いをしていないか。
君はなんら軍の服務規程に違反をしていない。
始業時間に十分間に合う時間に中央公園に偶然寄っただけだ。
そこで不幸にも身代金目的の誘拐に遭った。
――君自身に落ち度はない。
君の友人のことも、調書に乗せる必要はないだろう。
それでいいな?」
「ご配慮……感謝……いたします」
ロゼッタは切れ切れに礼を述べ、頭を下げた。
おろした金髪が、はらりと崩れ表情を覆い隠す。
「まぁ、誰かが迷惑を蒙ったというわけではない。気にしないでよろしい。
捜索隊の連中は、むしろ嬉しそうだったよ。
秘書の業務はヤンとリュックがいれば事足りるからね」
「そう……ですか」
うつむいたままのロゼッタの顔から、ぱたぱたと涙が零れ落ちる。
顔を上げた彼女は、苦しそうな表情で訴えた。
「……では、私はアリストア様には必要のない人間なのですね……」
部下の涙にアリストアはさすがに慌てる。
「そうは言っていない。
君が有能な秘書だということは、誰もが認めている。
だが、軍というものは、誰かが欠けたからといって歯車が止まるようにはできていないのだ。
それは君も知っているだろう」
「それでも……私は……アリストア様の……」
ロゼッタはそれ以上、言葉を続けることができなかった。
とめどなく流れる涙が頬を伝い落ちる。
アリストアは再び溜め息をつき、立ち上がった。
ロゼッタの両肩に手を添え、耳元に語りかける。
「すまない。
少し言い過ぎたようだね。
君は……その……そう、私にとって必要な人材なのだよ」
ロゼッタの表情に少しだけ明るい光が差した。
「それは……どのような……?」
喉を詰まらせながら、すがるように発した彼女の言葉に、アリストアは言いよどむ。
「そっ、それは……つまりだ」
彼はわざとらしい咳ばらいをして、思い切ったように続けた。
「朝、執務室に入ると、君が淹れた紅茶が飲める。
君が焼いた菓子をいただける。
あれは、君でなければ駄目だ――」
アリストアは「どうだ!」というような表情でロゼッタの顔を覗き込んだ。
彼としてはかなり勇気のいる言葉だったからだ。
しかし、案に相違して彼女の大きな瞳からは再び大粒の涙が零れだした。
「それだけなのですか?
……私がアリストア様のお側にいる意味は、それだけなのでしょうか!」
思いがけない彼女の叫びに、アリストアは窮した。
ロゼッタの声には、必死の思いが籠っていた。
ここで答えを間違えれば、自分はすべてを失う――さすがにアリストアも、自分の置かれた状況を覚らずにはいられなかった。
最早、己のプライドに拘泥している場合ではない。
彼女の肩に置かれた両手に力が入る。
「いいか、ロゼッタ。
君が必要だという理由はほかにもある。
だが、それはあまりにくだらないことだ。
くだらな過ぎて、部下に聞かれたら私は嘲笑されるだろう。
――だから、これは君にしか言わん。
このことは一切他言無用だ。誓えるか?」
ロゼッタはしゃくりあげながら、小さくうなずいた。
その瞬間、ロゼッタの背中にアリストアの腕がまわされ、乱暴に彼女の身体が抱き寄せられた。
背の高いアリストアが身をかがめ、彼女の耳元でささやく。
「私は、君が側にいないと寂しいのだ。
君が私のもとを離れると想像しただけで、気が狂いそうになる。
私がこの世界に留まっている間だけでいい。
私の側にいてくれ!
決して離れるな!
――これは命令だ。いいな!」
ロゼッタは「はい」と答えようとした。
しかし、それは叶わなかった。
彼女の唇は、何か違う柔らかいものでふさがれてしまっていた。
形のよい歯を押し開けて、温かいものが滑り込んでくる。
口髭が当たってくすぐったい。
アリストアの幅広い背中に回した彼女の手に力が入り、軍服を掴んで皺を寄せる。
さっきまで顔を押しつけていた胸は、涙で染みができていた。
全身の力が抜け、ぼおっとする意識の中で、ロゼッタはぼんやりと考えていた。
「明日アリストア様の軍服を洗濯してさしあげなくては……」
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