黒龍野会戦 九 シカリの小屋

 カイラ村を発った翌々日、街道の先に目指すイド村が小さく見え始めたところで、ユニたちは街道を東に外れた。

 その行く手には、広大なタブ大森林の縁が見える。


 ユニとオオカミたちは、迷わずその中へと踏み入っていく。

 初めて訪れる姉妹だけが、頭の中を疑問符だらけにしてハヤトとミナ(彼女たちの両親)にうるさく質問していた。


 森には人間の手が深く入っていた。

 針葉樹の巨木はあらかた伐り出されていて、まばらとなった林間には広葉樹が進出していた。

 比較的明るい森の中を、村人が行き来しているらしい道に沿って進んでいく。


 しばらく行くと、やがて小さな小屋が見えてきた。

 近くには炭を焼くかまが築かれ、煙をあげているので、それが炭焼小屋だとわかる。


 ユニは勝手知ったるという様子で、「入るわよー」と声をかけながらノックもせずに扉を開けた。

 小屋の中は暖房が効いていて暖かい。雑多な生活用品、脱ぎ放しの衣類などで散らかっている。


 ユニが「やれやれ」という顔で、床に落ちている衣服を拾い上げていると、かがんだ拍子に突き出した尻を何者かがするりと撫でた。

 びくん、として身体を起こして振り返ると、今度は胸をむんずと掴まれる。

「ビッターン!」

 小気味のいい音がしてユニの平手がヒットした。


 その先にいたのは、小柄なユニよりもさらに背の低い老人だった。

 少し背中が曲がり痩躯ではあるが、手足は太くがっしりした印象を受ける。


 頭には頭髪がほとんど残っておらず、日焼けというより炭焼きの炎にさらされて黒くなった顔には、いたるところに深い皺が刻まれている。

 普通ならその頬にユニの手形がくっきりと浮かび上がるところだが、顔が黒いので何の変化もない。


「おめーは、ぜんっぜん! 成長してねーな。ええ、ユニよ?

 一体いつになったら揉めるような乳になるんだよ!」


 ユニはうんざりとして天井を仰ぐ。

「師匠、あたしは今年で二十六ですよ。とっくに成長期は終わりました。

 おっぱいが揉みたかったら、余所に発注してください。


 ――大体、師匠だってそろそろ八十歳になるんでしょ?

 いつまでエロ爺いをやってるつもりですか。

 いいかげん落ち着いてくださいよ、情けない」


 〝師匠〟と呼ばれた老人は、「ケケケケケ」という笑いを残して外へ出て行った。オオカミたちに挨拶するためである。

 小屋の外で待っていたオオカミたちは、一斉に彼に飛びかかり、我先にと顔を舐め、頭をこすりつけて老人を揉みくちゃにする。


 老人も嬉しそうに彼らを撫でまわし、耳の後ろや顎を掻いてやりながら、一頭一頭の名前を呼んで歓待した。

 その輪の外で、困ったような顔をしている若いオオカミに気づいた老人は、開け放した扉の方に向かって声をかけた。

「おーい、ユニ。ちょっと来い!」


 すぐにユニが顔を覗かせる。

「なんですかー、師匠」

「あの二頭はいつ生まれたんじゃ?

 名前は何と言う? ほれ、紹介せんか!

 気の利かん奴だのう」


 ユニは「へいへい」と言いながら姉妹を呼び寄せる。

「この間来た時から半年ぐらい後ですよ。

 こっちがシェンカ、この子がジェシカ。

 ハヤトとミナの子で、どっちも女の子です。


 ――二人とも、この猿みたいなのは〝シカリ爺さん〟と言って、あたしの師匠なの。

 えーと、……あれ? 師匠。

 師匠の本名ってなんでしたっけ?」


「シカリで十分じゃ!」

 遠慮がちに老人の顔を舐める姉妹を両手で抱え、シカリ爺さんは満足げな笑いを浮かべる。

「そうかそうか、群れに若いのが生まれたか。

 よかったな。これでまた狩りに余裕が出るじゃないか」


 その言葉を聞いて、ユニは訪問の目的を思い出した。

「あたしに指名依頼を出したのって、師匠なんでしょ?

 今時クマが出たなんて本当ですか?」


      *       *


 ユニが十八歳になってライガを召喚し、魔導院を卒業したのは、もう八年も前のことだ。

 彼女は生まれ故郷のカイラギ村に戻ったが、母はすでになく、父との再会はぎくしゃくしたものとなった。


 別に所帯を持っていた次兄から、母の遺してくれた金貨を受け取ったユニは、長兄の住む隣村のイド村に赴いた。

 その際、次兄からイド村のシカリ爺さんに会うよう勧められたことは前に述べた。


 長兄からシカリ爺さんの炭焼小屋の場所を聞いたユニは、さっそく彼を訪ねることにした。

 ライガの助けもあって目当ての小屋はすぐに見つかり、ユニは恐る恐る小屋の扉を叩いた。


「誰じゃい!」

 扉を隔てた奥の方から、ぶっきらぼうな怒号が若いユニを迎えてくれた。

 ユニは持っている限りの勇気をかき集めて扉を開けた。

 薄暗い小屋の中で、その老人はナタのような刃物の手入れをしているところだった。


 じろりとユニを睨んだ眼の光が少し緩む。

 若い娘だというのが意外だったのだろう。

 あまり歓迎するという態度でもなかったが、それでも老人はユニに椅子を勧めてくれた。


「何の用じゃな? お嬢さん。

 ここはあんたのような若い娘が来るには、ちぃとばかりむさ苦しい所だと思うがの」

「実は……」

 意を決してユニは説明を始めた。


 自分はユニという名で、魔導院を卒業したばかりの二級召喚士であること。

 これから辺境でオーク狩りを生業なりわいとして生きていこうと思っていること。

 学院でオークと戦うための基礎知識は学んだが、実戦経験がないこと。

 自分の呼び出した幻獣は巨大なオオカミで、つい最近その群れも仲間に加わったこと。


 オークを待ち構えて倒すのではなく、オオカミたちとともに、こちらからオークを探し出して狩ってやろうと思っていること。

 オオカミたちは狩りの経験が豊富だが、自分は素人なので誰かについて経験を積みたいと思っていたこと。

 隣村に住む兄から、あなたが狩人の頭目でクマすら狩っていたと聞き、教えを請いたいと思って訪ねてきたこと。


「少ないですが謝礼も払います。身の回りのお世話もいたします。

 どうか私を弟子にしていただけないでしょうか?」

 ユニは真剣な面持ちで懇願した。


 老人は「ふん」と鼻を鳴らした。

「お前さんが一人だったら――いや、幻獣と二人か、尻を蹴飛ばして追い払うところだが……。

 どれ、そのオオカミの群れとやらを見せてみろ」


 ユニは言われるままに、小屋の外で待機していたオオカミたちを紹介した。

 老人は驚いた――というより感嘆したようだった。


 群れのオオカミたちは、この世界で知られているオオカミよりも五割増しでデカかった。

 ライガに至っては三メートル近い、怪物じみた大きさである。


「なあ、嬢ちゃん。

 幻獣ってことは、あんたとこのオオカミたちとは話ができるのか?」

「はい。

 彼らは人間並みの知能を持っていますし、私とだったら多少離れていても完全に意思が通じ合います」


「あいつらは、俺の言葉もわかるのか?」

「ええ。私が側にいることが条件ですが」


 老人はぶつぶつと呟きながら、小屋の中へ戻っていった。

「オオカミは狩りの名人だ。

 しかもクマにも対抗できそうな体格をしている奴もいる。

 それが人並みの知恵を持っていて、離れていてもこっちの話を完全に理解してくれるだと?

 そんな夢みたいな猟犬と狩りができたら……」


 そこでふと気づいたように、老人はユニの頭の先からつま先まで、ジロジロと遠慮のない視線を浴びせた。

「そうなると、むしろ問題はこっちの方か……。

 嬢ちゃん、あんた魔導院で何を習った?

 その、戦うための方法とかのことだが」

「ええと、格闘術、剣術、槍術、弓術は一通り」


「そりゃ、人を相手にした奴だろう?

 オークは……無理だろうが、何か動物相手にやり合ったことはないのかい?」

「いえ、そうしたことは……」


「生き物を殺したり、さばいたりしたことは?」

「いえ、それも……。あ、魚ならあります!」


 老人はがっくりと肩を落とし、盛大な溜め息をついた。

「オオカミはともかくとして、まずは嬢ちゃんに基礎から叩き込まないといかんの。

 どれ、足を少し開いて、両腕を水平に広げてみろ」


 ユニが言われるままに立ったまま大の字の姿勢をとると、老人はユニのふくらはぎ、腿、腹、二の腕、肩、背中と次々に掴んだり、手を当てて押したりした。

 時々「力を入れてみろ」と命じながら、ユニの身体を確かめていく。

 彼女の身体を掴む皺だらけな手は、意外なほど力が強くて痛いほどだった。


「ふん、一応は鍛えてあるみたいだな。

 女にしては、まあ合格だろう。

 ただ、問題は……」


 そう言って、老人はユニの背後に回ると、水平に広げている腕の下から両手を差し入れたかと思うと、むんずと彼女の両乳房を鷲掴みにした。

 ユニは驚きと痛みに悲鳴を上げ、反射的に振りほどいてフルスイングの平手打ちを小柄な老人に喰らわせる。


「バッシーーーーン!」

 派手な音を立ててヒットした一撃だったが、老人の身体はぐらりともしない。

 彼はにやりと笑ってユニの顔を下から覗き込んだ。


「ふん、いいビンタだ。こっちも合格にしてやる。

 じゃが……」

 老人はそこで言葉を切り、すうっと息を吸い込んだ。


「乳は落第じゃ、馬鹿もん!

 なんだその引っかかりのない胸は?

 いいか、わしの弟子になるというのなら、少しは揉めるくらいに乳を育てるのじゃ!

 わかったか!」


 ユニは言葉を継げず、口をぱくぱくするばかりだった。

 老人はそんな彼女を見てにやにやしている。


「そうじゃ、これから食事にはヨーグルトを付けてやろう。

 うちのヤギ乳から作った自家製じゃ。

 お前、乳酸菌を摂ってないじゃろ?

 乳を育てるには乳酸菌を摂るのが肝心じゃぞ」


      *       *


 シカリとは、狩りをする集団のリーダーを意味する。

 タブ大森林は針葉樹林を中心とする丘陵地帯で、動物の生息数はそれほど多くはない。

 とはいえ山に入ればそれなりの獲物は存在するので、辺境には狩猟を生業とする人々も珍しくない。


 老人は十年ほど前までは、春から秋に炭を焼き、冬の間は十数人の仲間を率い、山に入って森の動物を狩るという暮らしを長年続けていた。


 主に獲るのは数の多いウサギで、獲物の頭上に輪を投げて捕まえる。

 輪が飛ぶときに立てる風切音を猛禽類の羽音と勘違いしたウサギが、恐怖でうずくまってしまう習性を利用した狩猟法である。

 そして稀ではあるが、クマの痕跡を発見すると、命をかけてこれを狩った。


 クマの足跡や糞などを発見すると、勢子せこたちが鳴り物や大声でクマを追い立て、待ち伏せしている仲間の方に誘導する。

 逃げ場のない所へまんまと誘導すると、隠れていた者たちが弓矢で攻撃する。


 手負いになったクマが向かってきた場合には、槍一本でこれを迎え撃つ。

 まさに命がけで、実際に命を落とす者も珍しくない。


 それでも、倒した場合クマは大金を産む。

 毛皮、肉、内臓、骨までも全てが利用され、特に胆嚢は同じ重さの金と引き換えられるほどだった。

 〝クマ一頭金貨十枚〟は、辺境のことわざだが、それくらいに価値があったのだ。


 しかし、オークの跋扈に伴ってクマは激減してしまった。

 クマの代わりにオークを倒しても、何の利用価値もない。

 国から出る銀貨数枚の報奨金しか手に入らないのに、危険はクマの比ではない。


 仲間は一人やめ、二人やめ、とうとう誰もいなくなった。

 老人は狩りを引退し、一人炭焼きに専念するようになったが、村人たちはその後も彼のことを〝シカリ爺さん〟と呼び続けた。


      *       *


 シカリに弟子入りしたユニが最初にやらされたことは、捕まえたシカの命を奪い、解体することだった。

 師匠に渡された山刀ナガサで若いシカの喉を掻き切った時、彼女はボロボロと涙を零していた。


 もがいていた身体が悲鳴もあげずに痙攣し、温かな体温が急速に失われていく。

 流れ出る血の匂いで頭がくらくらし、こめかみがズキズキと痛む。


 頭で理解していることと、現実との違いを彼女は思い知らされた。

 しかし、師匠の教えは容赦がなかった。

 毎日のように獲物は捕らえられ、そのとどめをさして皮を剥ぎ、肉塊を切り分けるのはユニの役目となった。


 ただ、その際に師匠はユニに不思議な呪文を教え、山と獲物に感謝を捧げることを厳命した。

 獲物は骨のひとかけらまで無駄にしないこと、なぐさみに命を奪うことは絶対に許されなかった。


 師匠は狩りの知識以上に刃物の扱い方、地形や気象の読み方、料理の仕方、毒と薬草の知識といった、自然の中で生き延びるための知識を叩き込んだ。


 彼にとってユニは〝出来損ない〟の生徒であったが、逆にオオカミたちのことは高く評価していた。

 ユニを介してオオカミたちと狩りの陣形について話し合い、互いに意見を出し合って工夫を凝らした。


 彼らの狩りの手法――追い立てる者と待ち伏せして攻撃する者の役割分担など、基本思想が同じだったことから、互いの理解が早かったのだ。


 クマという危険な獲物を追い込むべき場所をどう選ぶか、効率のよく誘導するにはどうするか、反撃を受けた場合の対処法など、彼らはシミュレーションを繰り返した。

 それは、かなりの部分でオーク狩りへの応用が効くだろうと思われた。


 八年前の当時ですら、クマはめったに遭遇する獲物ではなかったが、一年の修業期間の間に三度、貴重な実戦が経験できた。


 二メートル、四百キロ超のクマが立ち上がって威嚇する姿に初めて遭遇した時、これほど恐ろしい相手だったのかとユニは戦慄した。

 オークはこれと同程度、いや武器を持ち多少の知能を有する分、それ以上の敵なのだ。


 さすがにオオカミたちは臆することなく、クマを追い立て、逃げ場のない場所へと追い詰めた。

 そして壮絶な闘いの末、ライガとハヤト、そしてトキの三頭がかりで、どうにかクマを地面に引きずり倒してくれた。


 師匠の怒号とともに後頭部をどつかれ、やっとユニは動くことができた。

 震える足で唸り声を上げているクマの側に近づくには、ありったけの勇気をかき集めてもまだ足りなかった。


 師匠から借りた棒付きナガサで、何度も何度も刃を突き立て、やっとライガがクマの絶命を確認した時には、ユニは返り血で血達磨となっていた。

 情けない顔で師匠を振り返り、引きつった笑いを浮かべながら、かすれ声でユニが言えたのは「……やりました」の一言だった。


 師匠の評価は散々だった。

 皺くちゃの顔を怒りで赤黒く染めた師匠は、駆け寄ってきてユニの頭を張り倒した。


「馬鹿野郎! 無駄に相手を苦しませるんじゃねえ!」

 そう怒鳴ったかと思うと、師匠はユニの尻を蹴飛ばした。

「とっととその間抜け面と汚ねえケツを洗ってこい!」

 師匠に言われて、ユニはやっと自分が失禁していたことに気がついた。


      *       *


 シカリにクマ出没の真偽を訊ねた時、ユニの頭の中に瞬間的に浮かんできたのは、辺境でオークを狩る覚悟など微塵もできていなかった若い自分の醜態だった。


 初めてクマを狩った森の奥の小川で、汚れた下着をべそをかきながら洗ったみじめな姿だ。

 頭を振って忌まわしい記憶を振り払い、ユニはもう一度訊いた。


「師匠はとっくに狩りを引退したというのに、どうして私にクマ退治の依頼なんか出したんですか?」

 ケッケッケ、とシカリは猿のような顔で笑う。


「ばーか、決まっとろうが。クマ鍋を喰うんじゃよ!

 おめえの料理の腕前がどれだけ上達したか見てやるわい。

 オオカミどもも、クマ肉は好きだったじゃろ?」


 ユニは思わず苦笑いを浮かべた。

 師匠の元で修行をしていた当時、ユニの料理の腕前は酷いものだったからだ。


 逆に狩人暮らしの長かったシカリは、見事な料理人だった。

 今でこそ、ユニは人から料理上手だと言われているが、それはまったく師匠の薫陶のお蔭なのである。

 もっともその料理が、酒呑みが好む癖の強い食材、濃い味付けに偏っているのも師匠の影響だったが。


「まぁ、本当に人里近くにクマが出たって言うのなら、別に狩ることは構わないですけど……」

 ユニはずいと師匠の顔すれすれに自分の顔を近づけ、皺に埋もれた瞳をじっと見つめる。

「……それだけじゃないんでしょ?」


 シカリはケケッ、と再び笑った。

「ふん、おめえも少しは世間に揉まれたみたいじゃの。

 ついでに胸も揉まれりゃ少しは育ったじゃろうによ」

 老人は煙管にタバコの葉を詰め火をつけると、ふうっと煙を吐き出した。


「何、わしも歳だということよ。

 結局、わしが習い覚えた狩りの技は、おめえのような不出来な弟子にしか伝えられなかった。


 ――まったく、おめえとオオカミが逆だったらと、何度思ったことか!

 もっとまともな奴が現れないかと思っておったが……。残念、もう時間切れじゃ。

 それで、昔おめえに教えていなかったことを伝えておこうと思ったってわけよ」


 師匠はジロリとユニの顔をめ上げた。

「ユニ、おめえオークを狩った後、ちゃんと〝ケボカイ〟やってるか?」

(ケボカイとはクマを仕留め、解体する時に行う、一連の儀式と呪文のこと)。


「はぁ……オークは食べるために狩るわけじゃないですから、正式な儀式まではしてないですけど、呪文は唱えていますよ」


「まぁな、オークは山の神さんのお恵みじゃねえから、それで充分だろ。

 実はな、おめえに教えたのは最低限のやつで、呪文はもっとほかにもあるんだ。

 そいつを教えとかんと、ずっと昔のご先祖から伝わってきたのが、ここで途切れちまう。

 それじゃ、あの世に行ってわしの師匠に合わす顔がねえだろうよ」


 そう言うと、シカリはテーブルの上に用意してあった、古い蔓細工の細長い箱の蓋を取った。

 老人は中から色褪せた布の包みを取り出し、丁寧にそれを開いた。

 出てきたのは、一本の巻物であった。


「師匠、これは?」

「わしらに受け継がれてきた、儀式のやり方や呪文を書きつけた巻物じゃ。

 これをお前に託す。粗末にするんじゃねえぞ」


 シカリは巻物の紐を解くと、ユニの方に向けてテーブルの上にそれを広げた。

「……これは。

 ……何て書いてあるんですか?」

 老人は重々しい声で答える。

「読めん」


「はぁ?」

「この文字は読めんのだ。

 ただ、書いてあるのは確かに儀式の手順と呪文のはずじゃ。

 代々口伝で受け継がれておるから、特に困りはせんがの。

 これはその原本じゃから、大事にせにゃならん。

 そういうことになっとるんじゃ」


 ユニは改めて巻物をよくよく眺めてみた。

 間違いなく何かの文字が書かれている。

 直線と三角形が組み合わさったような文字。

 ……はて、どこかで見たような?


 ああ、そうだ!

 ユニはすぐに思い当った。

 魔法陣に描かれている神聖文字によく似ているのだ。


 神聖文字は遠い昔に滅んだと言われる古代王朝の文字だ。

 その王朝は、高度な魔法技術にけた国だとされ、帝国の魔導士たちはこの神聖文字を学び、〝力ある言葉=真言しんごん〟で呪文を組み上げ、四大聖霊に干渉することで魔法を発動させている。


 王国ではそこまで神聖文字の解読・理解が進展せず、召喚で唱えられる呪文も神聖文字の呪文を大陸の共通語に翻訳したものだとされている。


 王国内で神聖文字がオリジナルのまま使用されているのは、わずかに魔法陣の中だけだが、それは王国人が理解して使用しているのではなく、単に昔から伝えられてきたものを、そのままなぞっているに過ぎない。


「まー、心配するな。

 まだ教えてねえのは山に入る前に唱える仲間の安全を祈る呪文。それと解散する時に唱える感謝と再会を約する祈りくらいだ。

 おめえのボンクラ頭でも、一日あれば覚えられるさ」

 師匠はまたケケケッ、と笑った。


      *       *


 結局、ユニは師匠の小屋に四日間泊まることになった。

 クマの方は、小屋に着いた翌日にはあっさりと仕留めることができた。


 ユニの記憶の中のクマは恐ろしい存在だったが、何十回となくオークを狩ってきたユニとオオカミにとっては、何ということのない相手だった。


 オオカミたちはクマ肉のご馳走に狂喜し、ユニは久しぶりのクマ鍋を師匠に振る舞った。

 残りの二日は、呪文を覚えることと、掃除・洗濯をはじめとする雑用の数々、そしてセクハラの嵐であっという間に過ぎた。


 ユニが師匠に別れを告げ、カイラ村に帰ろうとした時、師匠は約束の報酬――銅貨五枚を払ってくれた。

 銅貨五枚。その辺の安い食堂だったら、晩飯が何とか食えるかどうかという金額である。

 まことにありがたい。涙が出そうになるくらいだ。


 ユニは可能な限りわかりやすい皮肉をこめて礼を言ったが、師匠は上機嫌で「気にするな」と鷹揚に笑い、ついでに尻をぺろりと撫でてくれる。


 手の平で撫でるくらいなら我慢もしようが、中指を立てた悪質な触り方に、思わずフルスイングの平手打ちが飛ぶ。


 それをひらりとかわした老人は、ケケッと猿のような笑い声を残して薄暗い炭焼小屋の中へ引っ込んでいった。


 おのれの最期を意識しているというのに、いかにも師匠らしい別れの挨拶だ――ユニの顔に何と言えない笑いが浮かんだ。


 結局、今回の仕事でユニが得たものといえば、クマ鍋の味に初めて師匠から及第点をもらったことだけだった。

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