外法の村 八 出現

 ユニたちが翌日の行動について話し合っていた頃を少し過ぎる。


 白城市とその東北東に位置する蒼城市との間には広大な麦畑が広がっていて、王国の穀倉地帯となっている。

 今はちょうど春蒔き小麦の収穫を迎えようという時期だ。


 その男は息子とともに農作業を終え、家路についているところだった。

 今年は天候に恵まれ、十分な収穫が期待できそうで男の表情は明るい。

 本来なら夕方には家に引き上げるところだったが、その日は水路の補修に思ったより手間取り、日がすっかり落ちて暗くなってしまっていた。


「母さんが心配しているだろうな」

「晩飯、なんだろうね」

 親子の会話は他愛のないものだ。まだ二十歳前の息子は食べ盛りで、空腹が限界に近いようだ。


「肉だといいなぁ。羊の焼いたやつ!」

 肉の焼ける匂いと漂う煙。想像しただけで腹の虫が鳴る。

 気のせいか本当にそんな匂いがしてくるくらいだ。

「今日はいつもより働いたからなぁ。腹が減るのも仕方がないか……。

 あれ?」


 何だか本当に煙の匂いがする……というより、どんどん匂いが強くなっているような気がしてきた。

「おい、なんか煙臭くないか?」

 父親がいぶかしげに息子に話しかける。

「うん、さっきからだんだん強くなってくる。

 誰か焚き火でもしてるのかな」


 二人ともきょろきょろと周囲を見回すが、それらしい火は見えない。

 だが、白い煙が今でははっきりと漂っているのが分かる。

「父さん、向こうの麦畑かもしれない。

 俺、ちょっと見てくるよ」

「いや、俺も行こう」


 二人が歩いていた道は、片側が少し高い岡になっていて、ちょうど麦畑のある方を遮っていた。

 親子は道からそれ、岡を登り始めた。岡の上に立てば周囲一帯の見晴らしがきく。


 あたりはもう真っ暗だが、火事ならかえって見つけやすいだろう。

 岡はそれほどの高さではない。ものの数分で親子は岡を登りきった。


「なんだこれは!」

 二人の目の前に広がる光景は信じがたいものだった。


 方角からして間違いなくそこは麦畑のはずだった。

 その真っ暗なはずの畑に、きれいな二重の円形とその内部を複雑に区分けする直線、そして何やら文字らしきもの。それらが赤い炎となって浮かび上がっていた。

 そしてその円形は、どう見ても直径数キロメートルはあろうかという巨大なものだった。


「なんの冗談だよ!

 誰がこんなことを……」


 明らかにそれは人為的なものに見えた。

 誰かのいたずらにしては大がかり過ぎる。そして悪質すぎる。

 こんなことをして、収穫直前の畑にどれだけの被害が出るのか、考えるのも恐ろしかった。


 しばらく呆然としていた二人だったが、息子のほうが先に我に返った。

「父さん、早く皆に知らせなくちゃ」


「え? あ、ああ、そうだな。

 確かこの先にイムラさんの家があったはずだ。

 トビー、お前はそこに行って事情を話せ。

 周りの家にも連絡してもらって、できるだけ人手を集めてもらえ!

 俺はとにかく近くまで行ってみる。

 くそったれ、収穫前だってのに何てことをしやがる!」


 息子は「分かった」という一言を残して、岡を駆け下りていく。

 父親は現場に行って、可能なら消火をしようと息子とは反対側の丘の斜面を一気に駆け下りる。

 息を切らしながら五分ほど走りつづけると白煙をあげている円形の縁に到達した。


 線の幅は十センチほど。無残に焦げた小麦からチロチロと炎が上がっている。

 畑の中に水があろうはずもなく、男は靴で踏みつけたり、脱いだ上着を叩きつけたりして火を消そうとしたが、まったく効果がなかった。


 泥のついた分厚い靴底で踏みつけると、いったん火が消えたかに見えるが、足をどかすと何ごともなかったかのようにまた炎が上がるのだ。


「何だこれ、油でも撒いてあるのか?」

 不思議なことに炎は線の周囲に燃え広がることなく、炎の勢いも増減しない一定のものだった。


「おい、大丈夫か?」

 そうこうしているうちにイムラ家の者たちが数人集まってきた。

「それが変なんだ。何をしても火が消えねえんだよ」

「どれ、ちょっとどいてくれ」


 イムラ家の若衆が男をどかすと、手にした鍬を振り上げて、ザクリと炎の線ごと掘り起こした。

 土の塊ごと炎の線を放り投げると、土塊はぶすぶすと煙をあげ、炎はすぐに消えた。


 ところが、浅い穴となった元の場所では炎の線が途切れることなく燃え続けている。

 若衆はむきになって再び渾身の力を込めて鍬を振り下ろし、今度はもっと深く土をえぐり取る。


 しかし結果は同じだった。

 二十センチほどの深さの穴の底には、染み出した泥水が溜まっていたが、その水からも炎が上がっていた。


 男たちは途方にくれてしまった。

「おい、どうする」

「これだけでかいんだ。もっと人手がなきゃどうしようもないぞ」


「とにかく、燃え広がる心配はなさそうだな」

「ああ、今近隣の奴らには使いを出している。

 じきに皆が集まるだろう。

 それまでは見張っているしか……ん?

 おい、雨だぞ!」


 男たちの顔や体にポツポツと雨粒が当たりはじめ、しばらくすると強くはないがはっきりとした雨になった。


 一瞬、彼らの顔に事態が好転するのでは、という期待が浮かぶ。

 しかし炎にはまったく変化がなかった。

 ただ、雨の影響なのか、白い煙の量が多くなり、周囲の視界が悪くなってきた。


「ひでぇ煙だな、何も見えんぞ」

「だがまぁ、雨がきてくれたのには助かったな。

 飛び火の被害は避けられるだろう」


 そうこうしている内に、一人の男が異変を感じ取った。

「……おい、何か臭わないか?」

「そりゃあ、さっきから酷い煙の臭いだが」

「そうじゃなくて、なんかこう、もっと生臭いような……」

「……そういや、なんだか変な臭いだな」


 その時、ふいにザッと麦の穂を揺らして風が吹いた。

 男たちの周りに垂れ込めていた白煙の幕が揺れ、大きな隙間ができ、一瞬見晴らしがきいたのだ。


 そこには黒々とした塊りが出現していた。

 雨に濡れた塊りは炎の明かりを反射して、てらてらと輝いている。

 塊りはどこまでも続くかのように広がっていて、その奥には白っぽい小さな山のようなものまで見える。

 風向きが変わったのか、その黒い塊りの方から風が吹きつけてきた。


「うわっ、なんだこの酷い臭いは!」

 男たちは鼻をつく獣臭に顔を手で覆い、黒い塊りに目を凝らす。


「ああああああっ、オークだっ!」

 一人の男が絶叫をあげる。

 それが合図だったかのように風が強まり、空を覆っていた雨雲が流れて月が顔を出した。


 さっきまで炎と煙が上がっていたとはいえ、ただの麦畑だったところに無数のオーク、そればかりでなくゴブリンまでがひしめき合っていた。


 一体どれくらいの数だろうか。

 少なくとも数千、ひょっとしたら万に近いかもしれない。

 オークたちは棍棒や木槍、石斧など、思い思いの獲物を手にし、ほとんど裸体に近い。

 その脂ぎった逞しい肉体を雨が濡らし、炎や月の光に照らされて光っている。


 辺境の民ならば年に一、二度オークを目にすることがある。

 だが、中央平野の農民たちにとって、オークやゴブリンは伝説に登場するような怪物であって、見たことがある者など稀だった。


 それでも彼らが恐るべき人類の敵対種で、時には人ですら餌にする化物だということを知らない者はいなかった。

 無理もないことだったが、男たちは恐怖に駆られてんでに逃げ失せたが、それは正しい判断だと言えた。


 一方、オークたちは混乱していた。

 いきなり知らない世界へ飛ばされたのだ。無理もない。

 気がついたら夜の闇の中、開けた土地に立っていた。部族の者たちも一緒だったが、それ以上にまったく知らないオークたちが無数に集まっていた。


 オークたちは腹を立てていた。

 ここはどこだ?

 俺たちはなんでここにいる?

 くそっ、俺は腹が減ったぞ!


 そう、次第に初期の混乱が収まってきた時、彼らの頭の中を占めていたのは飢餓感であった。

 どうやらこの世界は人間どもの世界らしい。彼らの臭いがぷんぷんするからだ。


 それならば、弱い人間どもを襲って食料を奪えばいい。

 男どもは食えばいい。

 女どもは犯してから食えばいい。

 彼らが出した結論は同じだった。

 だが、その前にとりあえずは今、空腹を満たさなければ……。


 ほどなく起こったのは虐殺だった。

 だが、殺され、食われたのは人間ではない。

 オークと同様、どこかの世界から召喚されたゴブリンたちだった。


 ゴブリンはオークの腰ほどの背丈だ。圧倒的な体格差があり、しかもこの場ではオークに比べて数が少なかった。

 少ないと言ってももゴブリンだけで数百人はいただろう。


 その群れにオークたちは一斉に襲いかかった。

 武器は必要ない。手づかみで小柄なゴブリンを持ち上げると両手で引き裂く。

 絶叫とともに臓物がぶちまけられ、たちまちゴブリンは絶命する。


 オークたちは臓物を啜り、薄い肉を齧りとり、血で喉を潤した。頭は棍棒で叩き割り、中の小さな脳みそに口をつけてちゅるりと飲み込む。

 ゴブリンは決して旨い獲物ではなく、むしろ肉は乏しく、固く、臭かった。


 だが、この際文句は言っていられない。

 一部のゴブリンは円陣をつくって抵抗を試みたが、彼らが持つおもちゃのような武器では、オークの分厚い皮膚を傷つけることすらできなかった。


 悲鳴をあげて逃げ回るゴブリンを、数千人のオークが取り囲み、一人、またひとりと血祭りに上げていく。

 泣き叫び、恐怖に脱糞し、地に頭をこすりつけて命乞いをするゴブリンの醜態は、オークの嗜虐しぎゃく心をいたく刺激し、いかに残虐な殺し方をするかを互いに競い合う始末だった。


 わずか一時間余りで七、八百人はいたであろうゴブリンは全滅し、数千のオークの腹の中に収まった。

 とりあえず腹がふくれたオークたちは、やがて誰に命令されたわけでもなく、同じ方向に向かって進み始めた。


 風に乗って流れてくる匂いから、この先に多くの人間が住む町があるらしいと気づいたのだ。

 数十人規模の群れを統率するオークたちは、話し合ったわけでもないのに同じ結論をくだしたらしかった。


 さあ、今度はもう少しましな奴らを食いにいこうじゃないか!


      *       *


 夜が明けたころ、中央平野はとんでもない騒ぎとなっていた。麦畑に出現したオークの噂はたちまちに広がっていた。

 直近の白城市や蒼城市に駐留する軍は、ただちに訓練中の部隊や休暇中の兵士に非常呼集をかけるとともに、出撃の態勢を整えるべくてんやわんやの騒ぎになった。


 周辺の村々では住民が城壁で囲まれた古都への避難を開始し、街道は大渋滞となっていた。

 さらに混乱に拍車をかけたのは、都市住民や現地から遠く離れた農民たちが、いいかげんな噂話に踊らされて見物しようと押し寄せたことだった。


 軍の移動には整備された街道が必要不可欠なのに、それを妨げる避難民ばかりか野次馬までが流入して、街道の機能はマヒ状態になっていた。

 それでも時間が経つと軍は混乱した状況を徐々に掌握し、避難民の誘導と軍の進発をコントロールできるようになった。

 もちろん野次馬たちは容赦なく追い返された。


 夜が明けて周囲の状況が明らかになると、事態はとんでもなく深刻だということが誰の目にも明らかになった。


 麦畑の中に突然現れた、直径約二キロメートルの巨大な魔法陣(円形の模様は魔法陣だということが軍の観測によって断定されていた)の中央に、畑の地面が隆起したのか三つの瘤状の丘が出現し、その周囲に数千のオークの集団が密集していた。


 当初の報告ではゴブリンも相当数いたはずだったが、夜明けの段階で彼らは姿を消していた。

 ゴブリンがオークに食い尽くされたということは、しばらく後になってから判明したことだ。


 オークたちは誰かに指揮されている様子も見えなかったが、意外に秩序だっていて、まっすぐに西方の白城市を目指して進軍を開始していた。

 魔法陣の上に出現した白い岡は舞い上がる土煙のせいでよく確認できなかったが、どうやら岡の麓からだらだらとオークが出現しているらしく、当初七、八千程と見積もられていた亜人の群れは、昼前には一万を超えたと報告されていた。


 オークたちの進路は平坦な麦畑であり、彼らの動きを妨げるものはなかった。

 途中にある作業小屋は素通りされたが、ごくわずかの騒ぎを知らずに逃げ遅れた農民が見つかると、あっというまに叩き殺され、棍棒でミンチにされた肉は引き裂かれて、オークたちのよいおやつとなった。


 それでも避難が早かったこと、出現場所が畑の中で、周囲にあまり人家がなかったことが幸いし、今のところ人的被害はごく少数に留まっていた。


 これほどの規模のオークが王国に出現したことはかつてなかったことである。

 白城市より数刻遅れで知らせを受け取った王都の参謀本部も大変な騒ぎとなったが、冷静さは保たれていた。


 参謀本部を実質的に取り仕切っているのは副総長筆頭のアリストアである。

 彼は参謀将校の全員に非常呼集をかけるとともに、参謀本部の移動を決断した。


「アランが戻るのが明日というのが痛いですね。

 ほかに上空偵察ができる幻獣がいない以上、状況を把握するにはオークどもが迫っている白城市の城壁からの観測に頼るしかないでしょう。


 ――情報の伝達時間のロスも座視するわけにはいきません。ここへは最小限の連絡要員を残して、参謀本部は白城市へ拠点を移します。

 即座に準備を!


 ――赤城市と黒城市には使いを出しなさい。場合によっては赤龍帝、黒蛇帝に出撃を要請することもありえると」


「そんな……、そこまで必要なのですか!」

 若い副官が呻き声をあげる。

 他国との戦争でも四帝すべてが出陣した例はないのだ。彼の驚きは当然だった。


「オーク程度であれば、何万であろうと白虎帝一人で十分です。

 ただ、今回我々は完全に出し抜かれました。

 敵は周到に準備をしているようです。

 これだけということはないと思った方が安全です。

 用心するに越したことはないのですよ」


 そう言うと、アリストアは机の上に散らばっていた書類をかき集めて鞄に入れ、混乱する本部の執務室を後にした。


「オークだけで済むはずがない」

 アリストアの胸に渦巻く不安は、ほとんど確信に近いものだった。

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