第388話 甘い香りと涙③

 いつもと変わらぬ日常……思い経てばもう数十年という月日の流れをこの身に刻みこんでいた。


 結婚当初とは違って今となっては主人の帰りも遅い。恐らく浮気相手の所へ行っているのだろう。


 私の前職は香水屋。普通の人よりかは鼻が利くのだ。そして主人が帰ってくれば僅かに香る女性がつけそうな香水の香り。


 私が香水をつければ「臭い」と言って怒鳴り散らすのに、他所の女が香水をつけていてもそこへと通う。


 香水屋を舐めすぎだ。たとえ同じ香水でなくてもサンプルが揃えば同じ人が使っているとわかるのだ。


 その人が好んで使う香水には偏りがある。意識的であろうが無意識であろうが共通点というべき好みが必ず出てくるのだ。


 それを数十年……サンプルは充分と言えるほど揃いすぎた。


 最初は職場での女性職員が身につける香水の移り香だと思っていたが、サンプルが揃ってしまえばその香りの共通点が確かな証拠として浮き彫りとなってしまう。


 この時ほど香水屋をやっていたことを呪ったことはない。知らなければよかった、知りたくはなかった。


 その時点で主人の浮気が疑惑となり、影となって這いより、日を追うごとに確信へと至る。


 そこからは灰色の夫婦生活だった。


 だけど、なんとか主人を泥棒猫から取り返したくて女を磨き続けた。私自身も色々な香水を試した。


 全くもって不本意だが浮気相手が使うような香水も使ってみたけど、主人が向けた視線はありえないものを見るかのような、そんな心を抉られるような視線だった。


 なんのために生きているのか、なんのために夫婦生活を送っているのかわからなくなってきたある日のこと。


 その日はいつもと変わらず妻ではなく既に家政婦なのではないかと思っていた私は食材の買い出しへ出かけていたのだけど、ヴァルトス地区では珍しい人族の少年が歩いているのを見かけた。


 この地区を歩き回れるということはイグドラ出身の子なんだろうが、初めて見る顔だった。


 まぁ特に何も思うところのない私はそのまま通りすぎ用事を済ませたのだけど、その日以降もちょくちょくと顔を見るようになっていく。


 そしてある日のこと、女性と一緒に路地裏へ入るのを見かけて女性が襲われるのではと思っていたのだけど、どう見ても路地裏へ手を引いているのは女性の方だった。


「痴女……?」


 男性が路地裏へ女性を引きずり込んで乱暴するのは聞いたことがあるのだけど、それの逆で女性が男性を襲うというのも耳にしたことはある。


 だからこの時も女性が男性を襲うため路地裏へ連れて行ったのだと思った。男性からしたらありがたい話なのだろう。襲って捕まることはなく女性を抱けるのだから。


 あの少年はいったい何をするためにこの地区へやってきているのだろうか。


 何となく気になってしまった私は仲のいい友人へ何か知らないか尋ねてみたら、どうやら少年は代表のお客人らしくて種族問題を解決するために協力していたらしい。


 私は種族問題と聞いてまさかと思ったのだけど、友人の話してくれた内容はそのまさかだった。


 だが、それを実行に移したとしてもハーフしか生まれないはずなのに、何やら少年は特別なスキルや魔法を持っていて純血種を身ごもらせることが可能であるとか。


 既に何人もの人が抱かれており、口を揃えては今まで味わったことのない経験をその身に受けて幸せに包まれるらしい。


 そしてほとんどの人が純血種ではなくハーフを希望しているのだとか。最初は純血種を産むつもりでも、その人から抱かれているうちにその人の子が欲しくなってハーフを産みたくなるらしい。


 目の前で話している知人も既に抱かれており、紛れもなく実体験だと言うのだ。


 何人もの人を抱いて何人もの人がリピーターとなり、路上で運良く出会えれば路地裏へ連れ込んで抱いてもらうらしい。


 そして私も薦められてしまった。


 友人には夫婦関係の悩みごとなど相談に乗ってもらい、幾度となくアドバイスを貰ってたりしたのだ。


 そして今回もアドバイスというよりも、笑顔になることが少なくなった私のことを心配して気晴らしに体験してみたらというものだった。


 友人には主人が浮気していることも話してあるので、やられたならやり返せと言ってグイグイ薦めてくる。


「そんなにいいの?」


「極上よ、あなたも絶頂が何なのかわかるわ」


 そう、私は未だに絶頂なんてことを経験したことがない。主人はどうやら短小の早漏というものらしく、この情報も友人に教えられた。


 そのデメリットを持っている男性が女性を満足させるには、テクニックとか回数をこなすとかが必要らしい。


 私の男性経験は主人だけなのでそれが当たり前だと思っていたのだけど、主人に関して言えばテクニックなんてないし、回数をこなすなんてこともない。


 求められていた頃は1回出したら終わりでそそくさと寝てしまうのだ。そのことを友人に告げた時には、娼婦の扱いと何ら変わらないのだと言われてしまった。


「それじゃあ頑張って試してみて。きっと貴女の心が満たされるわよ」


 別れ際に言ってきた友人の言葉は、悪魔の甘い囁きのように私の心に残ってしまった。


 それから数日後、玄関前の掃除をしている時にあの少年を見つけてしまった。


「もしかして、ケビンさんじゃないですか?」


 この時は自分でも驚いてしまった。声をかけるつもりはなかったのに何故か声をかけてしまった。


 きっと友人の言葉がどこか心に引っかかっていたのだろう。


 ――心を満たしてみたい。


 それから、どうやってお誘いしようかと考えもなしに声をかけてしまった私が咄嗟に思いついたのは、ケビンさんをお茶へ誘うことだった。


 ケビンさんはキョトンとしていたが、嫌な顔をせずお誘いを受けてくれた。


 リビングへお招きして色々な話をするんだけど、ちょくちょくとケビンさんは私の胸を盗み見ている。バレてないと思ってるのかな?


 話しかけていたのにボーっとしていたから尋ねてみたら、どうやら私がつけている香水の香りが好きらしくて褒めてくれたのであげることにした。


 自分で作った香水が気に入って貰えるなんて、主人が私に興味をなくした時以来だ。


 だからだろうか、とても嬉しくてそれでいて悲しくなった。自然と夫婦仲のことを喋ってしまい、ケビンさんの前だというのに涙がこぼれてしまう。


「ナディアさん……」


 っ、いけない。楽しいお喋りの時間だったのにケビンさんを困らせてしまうなんて。


 私が慌てて取り繕うも、次に起こったのは信じられない出来事だった。


 ケビンさんがそっと抱きしめてくれたのだ。


(え……えっ!?)


「俺はこうすることでしかナディアさんを慰められません。いくら人より戦う力があってもたった1人の女性すら救えない。本当に無力な男です」


 そんなことない。この腕の中はとても穏やかな気持ちになれるから無力なんかじゃない。こんなに安らぎを感じたのはいつ以来かな?


 そしてケビンさんの体が離れていく時に目が合ってしまい、こんなことはいけないと思いつつも私は自然と瞳を閉じてしまった。


 高鳴る鼓動が聞こえてドキドキしている。


 唇に感じる柔らかな感触……


 さらに速まる鼓動……


 あ……終わっちゃった……


 私は胸のドキドキを抑えられずにいたのだけど、キスが終わるとケビンさんが謝ってきた。


 私が瞳を閉じて待っていたというのに、どうやら気遣ってくれたみたいだ。友人から教わった通りでケビンさんはとても優しい方だった。


 そしてケビンさんは私を綺麗で魅力的だと言う。ドキドキが止まらない私は自分からケビンさんへキスをしてしまい、驚くことにベッドへお誘いしてしまった。


 ケビンさんはベッドへのお誘いに躊躇われたが、さっきから私を抱きしめたままで魅力がないわけではないらしい。


 そしてケビンさんの推測によって判明した主人が私を抱かない理由。


 どうやら主人は貧乳好きらしい。私は女を磨いたために主人の好みから外れてしまったのだ。


 だけど、そのようなことはどうでもいい。今はケビンさんの優しさに包まれているから。だから教えよう、ケビンさんがちょくちょく盗み見ていた私のスリーサイズを。


 それを聞いたケビンさんが私を求めてくれて、仲良くベッドへ一緒に向かった。


 そこからは夢のような世界が広がった。主人が全く見向きもしなくなった私の胸にケビンさんが夢中なの。


 それにケビンさんの魔法で生娘に戻してもらってて初めてを捧げられたし、友人の言ってた絶頂が何なのかも体験させられたからすごく幸せ。


 それからはお昼ご飯を作るときにケビンさんのためだと思いながら恥ずかしかったけど裸エプロンをして、ちょっと襲われることに期待しながらドキドキしていたら本に書いてあった通りで本当に襲われちゃった。


 その時のケビンさんはとっても意地悪だったけど、恥ずかしい内容の誘惑集の言葉を使ってみると興奮してくれて激しく求められたの。


 最初に思っていたのはたった1回だけの火遊びのつもりだったけれど、もうケビンさんなしじゃ生きられないくらいに心を満たされてしまった。


 だから私は主人と別れてケビンさんの女になる決意を初めて抱かれた時にした。ケビンさんも本気で奪ってくれるって言ってくれてたから。


 その日ケビンさんが帰ってから私は主人の帰りを待った。いつも通り仕事が終わってから数時間後の帰宅。今日も変わらず浮気相手の所から帰ってきたようだ。


「おかえりなさい」


「ああ」


 いつもと変わらぬ会話。このあとはなんの会話もなく、いつもなら食事を摂るのだけど今日はいつもとは違う。


「あなた、話があるの」


「仕事で疲れてるんだ。さっさと話せ」


 主人の返しに気遣いなどない。面倒くさそうに視線を向けては、その瞳がさっさと話せと語っているようにも見える。


「別れてください。もうあなたを夫だとは思えません」


「何だと?」


「もう何十年も前から浮気をしていますよね? 気づかないとでも思っていたのですか?」


 その時に主人の瞳が泳いだことを見逃さなかった。きっとバレてないとでも思っていたのだろう。


「何を根拠に……」


「今日も浮気相手の所へ行ってたのでしょう? いつも似たような香水の残り香が染みついているのに気づかないとでも思っていたのですか?」


「香水なんか職場でついたに決まってるだろ」


「あなたの体裁のために仮面夫婦を続けるなんて真っ平御免です。私はあなたの道具ではありません。あなたよりももっと私のことを見てくれる人と人生を歩みますので、あなたが何を言おうとも別れます。浮気相手と末永くお幸せに」


 その時、乾いた音とともに痛みが走った。不意のことで私は体勢を崩してしまい床にへたりこんでしまったが、理解が追いつき始めると主人に殴られたのだと思い至る。


「今まで誰が養ってやったと思ってるんだ! その恩を仇で返しやがって」


「あなたが私を裏切って浮気なんかするからでしょう!」


「黙れ! お前は俺に従って家のことをやってればいいんだよ!」


「私はあなたの家政婦じゃない!」


 再び鳴り響く音に私の心は完全に主人から離れた。


「くそがっ! こんな恩知らずな女だとは思ってもみなかった。お前と結婚したのは失敗だ、荷物をまとめてさっさと出て行け!」


 主人は言うだけ言ったら家を出て行った。きっと浮気相手の所へ行ったのだろう。


「ッ……私が悪かったっていうの……」


 俯く私の瞳から雫が落ちて手の甲を濡らしていく。私はしばらく泣き続けたあと静かに荷造りを始めるのだった。

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