第4章 新たなる旅立ち

第90話 閉ざされた過去、そして…

 何の変哲もない、ごくごく一般的な家庭にその子は生まれた。ずっと健康でいられるように、“健”と名付けられた男の子は、特に大きな病気にかかることもなく元気に育っていった。


 保育園、幼稚園と次第に歳を重ねていく健は、ありふれた一般家庭で両親からの愛情に包まれながら、すくすくと成長を続けていく。


 そんな健が7歳となる年に小学校へ入学して、いつもと変わりなく通っていたある日のこと、あることが起きてしまった。


 父親の勤めていた会社が経営不振に陥り、大規模な人員削減が行われたのだ。健の父親も例に漏れず、長年勤めていた会社から解雇通告を言い渡された。


 それでも父親は家族を養うために、就職活動を絶え間なく行っていたが、日本経済は政策失敗に引き続き、度重なる政権交代と混乱しており、不景気の煽りを受けた企業たちは、どこも新規雇用よりも人員削減を主として会社を立て直すことに注視しており、父親は再就職という目的を果たせずにいた。


 最初こそ再就職に向けて意気込んでいた父親も、次第に諦め始めて酒に逃げるようになっていた。健の父親以外にも、職を失った者たちが数多く存在して、再就職への道のりは難航を極めた。


 父親の酒の量も日増しに増えていくようになり、貯蓄は当たり前のように自然と減っていくだけになる。


 母親は定職でなくてもいいからと、父親に対して仕事をするようにお願いするが、そんな父親は母親を叩いてしまった。


 母親は僅かばかりでもお金を稼ごうと内職を始める。そんな母親に父親は「当てつけか!」と怒鳴り散らし、再び暴力を振るうのであった。


 明くる日、母親は内職だけでは、父親の消費する酒代に追いつかないと思い、酒浸りの父親の元に健を一緒に残しておくのは、不安にかられるのだが、パートで働くことを選んだ。


 パートとして働き出してから、しばらくしたある日に事件は起きた。働き先から帰宅した母親が見たのは、泣き叫ぶ健とそれを怒鳴り散らしながら暴力を振るう父親の姿であった。


 母親は当然のように止めに入るが、健と同様に暴力を振るわれてしまう。それからは、父親の暴力を振るう対象に健も含まれてしまった。


 さすがに耐えきれなくなった母親は、健を連れて父親の元を離れるのだった。


 2人で新しく住むのは、以前とは違い安物のボロアパートで、1Kの間取りであった。


 母親は日中、夜間と働きに出て、健は1人で過ごすことが多くなった。健も母親が、自分のために働いていることくらい理解しているので、寂しく思おうとも決して口には出さず、ワガママを言うようなことは、1度もなかった。


 母親は次第に疲れが目に見えてわかるようになり、そんな母親を心配した健は、遅くまで起きて母親の帰りを待ち、帰ってきた母親に肩たたきをするなど、自分に出来る精一杯のことを返していた。


 最初のうちは、母親もそんな健の優しさに心を癒されていたが、それでも家計は苦しくなり、余計に仕事の量を増やしていった。


 度重なる疲労とストレスから、ある日、母親は過ちを犯してしまう。


 いつも通りに家に帰りつくと、健は母親を労うために肩たたきをしようとするのだが、健の母親を思う笑顔に憎しみの火が灯ってしまう。


 何故、自分がこんなに苦労しているのに、笑っていられるのか……人の気も知らないで、笑顔を向けてくるのか……


 母親は、そんな健の笑顔を疎ましく思い、とうとう手を上げてしまった。乾いた音が室内に鳴り響き、健は何が起こったのかわからなく、キョトンとしているが、そんな顔ですら母親には疎ましく思えた。


 再び鳴り響く乾いた音に、健は母親の機嫌が悪いのだと感じ取り、自分を叩くことで機嫌がなおり、いつもの優しい母親に戻るならと、無抵抗にその暴力を受け続けていた。


 翌日、母親は自分のしでかしてしまったことに後悔して、情緒不安定になっている状態を相談しに、精神科へと受診した。


 病院から処方された薬で、一時期は落ち着いたものの、再び精神が不安定となり、母親は健に暴力を振るった。


 最初の頃は、健も耐えていたが、エスカレートしていく暴力に耐えきれなくなって泣いて謝るが、その行為すら母親を増長させるものにしかならなかった。


 笑っていても、泣いていても、反応しなくても殴られ蹴られる。健の心は次第にすり減っていき、感情を表に出すことが無くなってきていた。


 そんな日常が続いてたある日のこと、健は学校から家に帰り玄関を開けると、母親の靴があるのを見て、仕事に行っていないことを理解して、今日は暴力に耐える時間が長くなる日なんだと感じていた。


 普通の子供のように「ただいま」と言うこともなく、ランドセルを片手にそのまま家の中へ入っていくと、部屋の中には天井からぶら下がっている母親の姿があった。


 健はその姿を見て、一瞬何が起きてるのかわからなかった。ただただ、その姿を眺めていた。


 ドサッとランドセルをその場に落とすと、母親へ近づいて声をかける。


「お母さん……?」


 いつぶりだろうか? 最近は呼ぶこともなかった健は、母親を呼んでみたが、母親からの返事は当然ない。


 健が母親に触れてみると、ギシギシと縄の音を不快に鳴らしながら、ユラユラと揺れるだけであった。


 ユラユラと揺れている母親を見続ける健……ここにきて、ようやく母親が死んでいるのを自覚した。


 テーブルの上には紙が1枚だけ置いてあり、そこには、ただ一言だけ書き記されていた。


『ごめんね』


 その場で立ち尽くす健は、忘れつつあった感情が、一気に津波の如く押し寄せてきた。


「……ふひっ……ひひひっ……ふへっ……ふふっ……」


 久々に笑う健の声は、どこかおかしく壊れたおもちゃのようであった。


「……へへっ……はははっ……はひっ……」


 そんな健の顔は無表情でありながらも、引きつった笑みを浮かべており、瞳からはとめどめなく涙が溢れだしていた。


 いつまで続くのかわからない暴力から、解放されて嬉しくなり、優しかった母親が、目の前で動かなくなった死体へと変わり果てていることに悲しくなり、これからどうやって生きていけばいいのか不安になり、色々な感情が健を包み込んでいく。


 御しようのない感情に翻弄されながら、健は頭の中で色々と考えるが、ミキサーでかき混ぜられたかの如く、グチャグチャとしていた。


 そんな中で、感情をぶつける相手もおらず、行き先を失くした感情から、次第に怨みつらみが押し寄せてきた。


 こんなことになってしまった父親の会社を怨み、そこから変わっていった父親を怨み、果ては自分1人を残して死んだ母親まで怨んだ。


「許さない許さない許さない許さない許さない――」


 怨む先がなくなると、その矛先はこんな理不尽な人生を背負わせた、いるかいないかもわからない、神様までに至った。


「ふひっ、ふひひっ……何もかも死ねばいい……」


 この世の全てに対する憎悪で染まり、僅かばかりに残っていた感情は、憎しみでいっぱいと成り果てていく。


「死ね死ね死ね死ね死ね――」


 すり減っていた健の心は、耐えきれなくなったのかとうとう壊れてしまい、自身の生命活動を守るために、強制的にシャットダウンされてしまう。


 バタッと受け身を取ることもできずに倒れて、健はその場で意識を失った。 



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 数日後、健は駆けつけた警察官に保護されることになったが、意識はなく衰弱しているため、病院へ救急搬送されることとなった。


 やがて病院で目覚めた健は、自身のことを何も覚えていなかった。警察官が事情を聞こうにも、一般的な常識以外は全て忘れ去られていた。


 警察のその後の調べで、健は以前から日常的に虐待を受けていた形跡があり、医師は、健の状態と経緯からPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断した。


 失った記憶については、思い出すかもしれないし、一生思い出さないかもしれないという、煮えきらない回答であった。似たようなことが起これば、再発させる恐れもあるのだという。


 母親は精神疾患を患っていたため、調査を進めていく中、他殺の線は消えて自殺として事件は収束した。


 健の引き取り先として、父親の名前が上がったが、父親からも虐待を受けていたことがわかり、健の行き先は児童養護施設となった。


 健は自身のことを何も覚えていなかったが、一般的な常識はあったので、児童養護施設では表面上の生活は問題なく送れていた。


 その後、里親が決まった健は、【加藤家】に引き取られることとなる。


 加藤家は、仲のいい子供好きの夫婦と男の子が1人の3人家族で、病気により子供が出来なくなった母親が、まだ子供が欲しいことを諦めきれず、家族と相談した結果、里親として登録し、健を引き取ったのである。


 血の繋がりが一切なくとも、実の息子のように普通に接してくれる夫婦と兄の元で、健は再び家族というものを得たのであった。


 こうして健は、可もなく不可もなく在りきたりな、普通の大人として成長していくのである。心の奥底に秘めたトラウマとともに……



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 今日もいつもと変わらない日常。俺は会社に行くために電車に乗っていた。ガタゴトと揺られる中、押し寿司状態の電車は目的地の駅へとついた。


 一斉に降り出す乗客に、もみくちゃにされながらも、俺はその流れに身を任せて降りて行く。


 改札口を通って駅から出ると、眩しい光とともに見慣れた光景が広がる。


 駅から歩いて5分の勤務先は、せめてもの救いだろうか。満員電車に揺られた後に延々と歩くのは、精神的にも辛いものがある。


 会社に着くと見慣れた顔ぶれに挨拶をする。


「おはようございます」


 返ってくるのは気のない挨拶だ。「おはよう」だったり、「おう」だったり、はたまた返事のない奴までいる。


 自分のデスクに座ると、今日も終わりのない一日が始まるのだと、嫌でも自覚させられてしまう。


 パソコンによる山のような書類作成、会社に掛かってくるクレーム対応、上司の無理な注文。どれをとってもやり甲斐を感じる事はなかった。


 しかしながら、今さら会社を辞めて、就職活動をする気にもなれない。給料はかなり貰えているので、我慢の一手だろう。


「おい、加藤。○○会社に使う資料作成は、もう終わってるのか?」


 それは俺の仕事じゃないだろう……誰に指示を出したのかも覚えていないのか?


「田中が担当していたはずですが?」


「その田中がいないんだ。お前がやるしかないだろ」


 何故俺がやるしかないんだ? 何処の常識だよ、それは。ふざけるなよ? なんて理不尽な注文なんだ……


「田中は何処へ?」


「あいつなら辞めたぞ。だからお前がやれ!」


 田中め、賢い選択をしやがって。おかげでこっちが面倒を押し付けられたではないか。


 辞められて引き継ぐ職員がいないなら、最初からそう言えよ。どうしていつもモチベーションの下がる言い方しか出来ないんだよ。


「田中が何処まで進めてたのか、ご存じですか?」


「知るわけないだろ。報告が上がってきてないんだから」


 やれやれ一々報告されなきゃ、仕事の進捗状況も確認しないのか。その役職の肩書きはなんの為にあるんだ? 纏めきれてないじゃないか。


 これ以上、会話を交わしてもモチベーションが下がる一方なので、田中が使っていたデスクから資料を探す。


 あいつ……辞めるからって散らかしたまんまじゃないか。せめて書類整理くらいしてから辞めてくれよ。


「これか……?」


 誰に尋ねたわけでもなく独り言ちる。


 それから自分のデスクへと戻り作業に取り掛かると、思いの外、資料が纏められていた。


 グッジョブ田中! これで先程のデスクを散らかしてた件は大目に見よう。


 カタカタカタ……


 田中のおかげで、資料作りにそこまでの労力はいらなかった。もうぼちぼち昼飯の時間だな。今日は何処にしようかと考えながらも、作業を進めていく。


 カタカタカタ……



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 昼時、田中のやり残した資料を、完成させることが出来たので、部長に提出する。


 特に問題はなく、そのまま受理となった。今日やるべき仕事が午前中に出来なかったことで、この時点でサービス残業が確定した。


 憂鬱な気分になりながらも、お昼ご飯を食べに行くこととする。勤務している時は、外での食事が唯一の楽しみだ。


 その日によって、行き先を変えて気分転換するのは、少しでも同じことの繰り返しに、変化を起こすためだ。


 食事まで同じことを繰り返してたら、精神的にも病んでしまうだろう。


 今日は少し暑いので、冷たい麺類でも食べに行こう。会社からそう遠くない所に蕎麦屋があったはずだ。


 歩道を行き交うサラリーマンたちを避けながら、目的地へと段々と近づく。


 コンビニの前を通りかかると、店前の駐車場で遊んでる子供の姿が見えた。


 蕎麦屋に行く前に冷たい飲み物でも飲むとするか……


 親はどうしたのだろうか? あんな小さな子供から目を離して。店の前だからって目を離しちゃいけないだろ。


 駐車場へ入ってきたトラックについつい視線が向く。長距離運転手は儲かるって聞いたことがあるけど、本当なのだろうか? 今の会社に嫌気が差したら辞めて、目指してみるのも一興かもしれない。


 旅行は好きだから色々な所へ行けていいのかもしれないが、そんなに甘い仕事でもないだろうな。


 子供もトラックに気付いたみたいだ。小さい頃は大きい車とか見ると、何故か惹き付けられるんだよな。自分の体に対して余りにも大きいからかな。


 駐車場に止まっているトラックが徐行しながら動き出すが、目線は手元を見ていた。スマホだな……


 いくら駐車場だからって、わき見運転はないだろ。警察もこういうのを取り締まって欲しいものだ。


 というか、進む先にいる子供には気づいているのか? スマホばかり見ていて危なげなんだが。そのまま行くと店にも突っ込むぞ。


 心配していたが杞憂だったようだ。目線は前方にちゃんと戻った。


 しかし、ちゃんと気付いているみたいだったが、それとは逆に何故かトラックのスピードが上がった。駐車場で出すようなスピードではなかった。


「危ないっ!」


 咄嗟に走り出し子供を突き飛ばす。地面に当たって痛そうだけど、そこは勘弁して欲しい。トラックに轢かれるよりかは痛くないはずだ。


 タキサイキア現象だろうか? 周りの景色がゆっくりに見える。本当にあったんだな。眉唾ものだと思っていたのだが……


 視界の端にはトラックが見えている。このままいけば跳ね飛ばされた上に、コンビニのガラスへ一直線だな。


 跳ね飛ばされればいいが、轢きずられてコンビニ諸共ぐちゃぐちゃにされたら痛そうだな。


 スローモーションになったからといって、助かるわけではないのか。寧ろこれから起こることを、認識して恐怖に駆り立てられるのだが……


 こういう時に言うのだろうか? 『一思いに殺してくれ』と。


 あぁ……トラックが目の前まで迫ってきた。入院したら部長に怒られそうだな。


 せめてもの救いは、田中のやり残した仕事を、きっちり仕上げて提出できたことか。


 悠長にそんなことを考えながら、轢かれたと思った瞬間、視界は暗転した。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



『俺は死んだのだろうか?』


 何となくそう思ったのだが、思考が働く以上死んでないような気もする。もしかして臨死体験というものか?


 辺りは真っ暗な闇だ……


 何もない……


 よくテレビでは死んだ爺ちゃんやら婆ちゃんが、川の向こうで手を振っていたと言っていたのだが、嘘だったのだろうか?


 ここには川もなければ、死んだ爺ちゃんや婆ちゃんもいない。真っ暗故に自分が今どういう状態なのかも確認できない。


『これは暇だな……』


 臨死体験というものは、暇なものだと結論付けた。結論付けたところで何かが起こる訳でもない。


『早く目覚めないだろうか。病院のベッドの上で目覚めたら、言いたいことがあるのに』


 そう、あれだ。あの名言を言いたいのだ。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 どれくらい時間が経ったのだろうか? お腹は空いてないし、そこまで経っていないような気もするが。


『……ビン……ケビン』


 どこからともなく、誰かの声が聞こえてくる気がする。


『……ねぇ、目を覚まして……ケビン……』


 目を覚ましたいのは山々だが、俺はケビンではないぞ。その名前で知っているのは、ケビン・コ○ナーぐらいだ。


『……ケビン……お願いよ』


 お願いされたところで目覚めはしないだろう。目覚める気配すら感じないんだ。


 これは、病院の腕前を信じるしかない。最悪、永遠と闇の中にいそうだが。


『……ケビン……グスッ』


 声の主は泣いているのか? ケビンって奴は幸せ者だな。俺が事故って悲しんでくれる人はいるのだろうか? 家族は元気にしているのだろうか?


 両親ともだいぶ連絡を取ってないし、軽く疎遠になっている気がする。まぁ、兄貴が両親の面倒を見るから心配はしていないのだが。


『それにしても暇だな……こう、神様がパァーっと現れて目覚めさせてくれないだろうか? せめて娯楽が欲しい。欲を言えば、ゲームとラノベでお願いしたいのだが』


 困った時の神頼みって言うくらいだし、頼んでみるか? 都合のいい時だけ頼むのも気が引けるが。


『えぇと、神様へ。目覚めたいのですが、どうしたらいいのでしょうか? 若しくは暇が潰せるように、漫画、アニメ、ゲーム、ラノベが欲しいのですが。どうかご慈悲を』


 うん、反応ないな。困った時の神頼みは失敗に終わったな。特に期待はしていなかったし、ダメ元で試しただけだったからしょうがないか。


『健、目覚めたいの?』


 うおっ! 何かさっきと違う声が聞こえたぞ。


『どうする? 目を覚ます?』


『あの、どちら様でしょうか?』


『……私のこと忘れたの?』


『忘れた? 貴方と会ったことがあるのですか?』


『……プロポーズされたわ』


 ……プロポーズ? ……えっ? 俺、プロポーズしたの!? 誰に? 独身貴族を謳歌してたはずだけど……


『酷いわ……サプライズ的に、いきなりプロポーズしといて忘れるなんて』


『あの、宜しければお名前をお窺いしても? そしたら、何か思い出すかも知れませんので』


『ソフィーリアよ』


 え? 外国の方!? インターナショナルなの俺? 外国に行った試しがないんですけど。日本で働いてる方なのかな?


『すみません。思い出せませんでした』


『……少し待って。あなたの魂を調べてみるから』


 魂? マジで!? ソフィーリアさんって何者なの? 外国の方じゃなかったの?


『わかったわ。あなたは一時的に記憶を忘れているわね』


『何故でしょうか?』


『わかりやすく言うとPTSDみたい。それで私のこともわからないのよ』


 なぬっ! 部長のせいか!? 俺のストレスなんて部長くらいしかないぞ。あの人のせいで記憶がおかしくなっているのか。


 ソフィーリアさんを忘れるなんて、どんだけ俺にストレスを与えたんだ。目が覚めて退院したら、あの会社は辞めてやる! そして、ソフィーリアさんと2人で暮らすんだ!


 それとも、もう一緒に暮らしているのか? 思い出そうとしても思い出せない……これが記憶喪失か?


『大丈夫? 黙ってるけど』


『大丈夫! 目が覚めて退院したら、あの会社は辞めるから。貯蓄はあるし、暫くはソフィーリアさんと2人で過ごせるよ。そしたら、旅行に行こう。長閑な所でのんびり過ごそう』


『やっぱり記憶が混濁しているわね。日本にいた時の記憶までしかないのね』


日本に? 過去形?


『その話からすると、俺は日本には住んでいないのですか?』


『そうよ。あなたは死んでから先、異世界に転生したの』


 異世界転生キター! いや、待て、待て待て待て。落ち着け俺。死んでから先? 俺はやっぱり死んでいたのか……


『という事は、異世界での記憶が無くなっているのですか?』


『正確に言うと、死んでからの記憶がないわ。私のことがわからないのでしょ?』


『はい、悲しいことに』


『記憶がないのに悲しいの?』


『悲しいですね。俺は好みに関しては五月蝿いから、その俺が娶ったってことは貴女は確実に可愛くて綺麗な方なんですよ。その記憶が無いのですから、悲しくもなりますよ。貴女にも悲しい思いをさせていることが、わかってしまいますから』


『記憶がなくても変わらないのね。優しいわ』


『それはそうと、目覚めたいと思えば、目覚めさせてくれるのですか?』


『出来るわよ。簡単だもの』


『簡単なんですね。では、お願いしたいのですが。あっ、最後にソフィーリアさんって何している人なんですか? 何処で働いているのですか? 目が覚めたら会いに行きたいのですが』


『私は、女神よ。世界の管理が仕事で、いつもいる場所は神界の一部で、貴方が名付けた【万能空間】よ。その空間を作り変えたのは貴方ね』


 何してんの、俺! 死んだ後に女神様にプロポーズしたの!? だが、グッジョブ! 女神様だからさぞや綺麗な方なんだろうな。


 というか、神界を名付けた上に作り変えたの? とんでもないな、記憶が無くなる前の俺は。そんな力があったのだろうか?


『神界の一部を作り変えるって、そんな力が俺にあったのですか?』


『転生特典でスキルを選ぶ時に、選んだのが【創造】だったのよ。だから、私がアクセス権を与えて、創造していったの。今じゃ何も無かった空間に自然や家が建ってるのよ。2人だけの場所にしようって』


 はぁ、凄いな俺……神界の一部に世界を創り出しちゃったのか。うーん、見てみたい気がする。長閑な所が好きだから、良い感じに仕上がってそうだ。


『その場所って行くこと出来ますか?』


『ごめんなさい。出来ないのよ。将来、貴方が大きくなったら私から逢いに行くことにしてるし。でも、貴方は転移魔法で来ようとしていたわね。神が下界に降りてはいけないって思ってて』


『そうなんですね。わかりました。では、目覚めさせて下さい。暗闇の中だと何もすることなくて、暇だったんです』


『わかったわ。それじゃ、また逢う日までサヨナラね』


『はい、またお逢いしましょう』


 随分長々と話してしまったが、本能的にソフィーリアさんと話をしたかったのだろう。


 俺の奥さんって言ってたくらいだし。色々とあるみたいだし、まぁ、目覚めた後のことはその時に考えよう。


 そして、俺の意識は途絶えるのだった。

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