4-4
俺たちは智幸さんにメールで連絡をした。
智幸さんも初めのうちは文面に驚きの色を見せていたけど、それからは至って冷静だった。
今日は用事があって無理だから明日にでも行くよ。何度かメールをやり取りし、そう約束をとりつけた。落ち着いた様子の窺える彼の文章は、自然と荒いでしまっていた俺を大人の態度でなだめてくれるかのようだった。
「とりあえず、明日来てくれるらしい」
俺はスマートフォンを閉じると、傍で見守っていた菜摘たちに言った。その頃には俺も幾分か冷静になっていた。
そう、とだけ菜摘は答えると、壊れたカメラを手に取る。静かに見つめるその瞳は、悲しみに満ちているかのように落ち着いていた。光を失い、眼の奥はどす黒く濁っているみたいだ。
あれだけ順調だった作業が急に止まってしまったかのようだった。たった一つのカメラが壊れてしまっただけだが、せっかく進みだした歩調を挫くには十分だ。カメラが無ければ写真で星空を見比べることが出来ない。正座を覚えていない俺達にとって、それは実質、足が止まるのと同意だった。
カメラと同じくらいに、俺たちのモチベーションは深く傷ついていた。それこそ、どん底まで落下してしまったかのように。
沈黙が流れた。
誰も、進んで空気を変えようとは思わなかった。
結局、誰も何もできないまま解散することになった。菜摘は黙って部室を出ていってしまった。美晴も、机上のカメラを何度も横見して気にかけながら、やがて部屋を出ていった。
誰もいなくなって、俺は相変わらず静かなままの部屋を見回した。
無駄に広く感じる。
籠った空気に蒸されるかのような、異様な暑さが肌に纏わりついた。
「……ここに居ても、仕方ないんだよな。くそっ」
いったいどれぐらいの時間が経っただろう。ようやく俺は脚を動かし、部室を後にした。
駐輪所に向かい、自転車に乗って校門を出る。
気が付けばすでに太陽は山の向こうへと沈んでしまっていた。
風を切りながら、下り坂を走り抜けていく。
通り慣れた道が、いつもより暗く、深い。タイヤの空気は数日前に入れたばかりだというのに、踏みつけたペダルがイヤに重たく感じた。真っ赤な目玉をこちらに向けた信号機にも、どこからか聞こえたクラクションの音にも、俺は構わず走り続けた。
家に着いたのは八時を回った頃だった。
玄関の扉を開けて中に入るとカレーの匂いがした。今日の夕食だったのだろう。
リビングに顔を出すと、ソファに座ってテレビを見ている母親の姿があった。その隣では、妹のユカがひざを抱えるようにしてスマートフォンをいじっている。
「遅かったじゃない」
俺に気付いた母親が顔だけをこちらに向けて言った。おかえりなさい、とユカも視線をくれる。
ただいま、とだけ言葉を返すと、俺は早々に二階へと上がった。自室に行き、鞄を放り投げ、カッターシャツとズボンをベッドの上に脱ぎ散らかす。しわができようと関係ない。
タンスにしまってあった寝巻きのジャージに着替え終えた頃、軽快なリズムで階段を駆け上ってくる音が聞こえた。しかしそれはすぐに止み、次いで俺の部屋の扉がゆっくりと開かれる。
「カレー、食べないの?」
僅かな隙間から顔を覗かせたのはユカだった。一度中の様子を確認し、それから部屋へと足を踏み入れてきた。
「別に、今は腹減ってない」
食べる気なんて少しも起きなかった。
胃は捻じ切れるかのように収縮して鳴き叫んでいるのに、僅かでも喉を通すと、すぐに吐き出してしまいそうだ。
「宗也兄ぃ、最近は帰りの遅い日が多いよね。またどこかで食べてきたの?」
ぼそりと呟くように言い、ふらふらとした足取りで俺のほうに近づいてきたかと思うと、ユカはそのままベッドに倒れ込んだ。仰向けのまま枕に顔を埋めている。
チェック柄の水色パジャマの裾から、白い肌と下着の一部が僅かに見えていた。兄妹とはいえいくらなんでも無防備すぎる。
「彼女でもできた?」
「違う」
「怪しい宗教に入った」
「そんなわけ無いだろ」
「大丈夫? 怪しい壷とか売りつけられてない?」
「だから違うっていってるだろ」
「……宗也兄ぃが居ないと、お母さんが帰ってくるまでのウチの家事は私一人でやらないとダメなんだから。今日のカレーも私が作ったんだよ」
「部活なんだ。毎日じゃないんだから勘弁してくれ」
自然と声がこもる。
俺は不満げに口を尖らす妹をベッドから引き起こした。
入れ代わりに、自分がそこに倒れこむ。風呂から上がって間もないのだろう。ゴムで止めているまだ湿り気を残したセミロングの髪から家のシャンプーの匂いがした。
中学一年生にしては豊満な胸が元気良く揺れる。最近は妙に色香を纏い始め、妹とはいえ女の子なんだなと感じることが多くなってきたものだ。
あ、そうだ。と思い出したかのように、ユカはわざとらしく両手を合わせた。
一度部屋を出たかと思うと、何かをまさぐるような音を廊下に響かせ戻ってきた。
「これ、捨てるんだったら庭に出しておいて、ってお母さんが言ってたよ」
声に若干の不機嫌さ含ませながら、ユカは両掛けのバッグを背負って戻ってきた。そのバッグには一本のテニスラケットが刺さっている。埃を被り、真っ黒いはずの薄布のカバーは白くなっていた。
俺が中学に入るまで使っていたやつだ。小学校からスクールに通い続け、しかし中学に入って辞めてからは一度も触っていない。物置の奥にしまわれていたのだろう。
そういえば、物置を整理したい、と母親が以前に言っていたような気がする。
「これ、もう捨てちゃうの?」
埃を払いながら、ユカがバッグを俺に手渡してきた。中身は空っぽのクセに、ラケットが一本刺さっているだけで重く感じる。突き出たゴム製のグリップは、粒のように表面が隆起していてざらざらと荒れていた。そうとう使いこんで汗がにじんだのかグリップの黒いゴムがところどころ白くなって剥げている。
膝の上にのせたバッグから、俺はむりやり視線を逸らした。あまり見たいと思わなかった。
「使う人が居ないんだ。置いてても仕方ないだろ」
言って、足元に敷かれたカーペットの上に放り投げる。空のバッグが衝撃とともに空気を吐き出し、ごふっという音をならして、刺されたままのラケットごと倒れた。
「宗也兄ぃが使えばいいのに」
「……いや、俺には無理だよ。もう忘れちゃったからさ」
「そう数年やらなかったくらいで、打ち方とか忘れちゃうものなのかな」
「忘れるもんなんだろ。実際、俺は忘れてるんだからさ」
自分で言っておいて、俺は明確な違和感を覚えていた。
正確には、違う。
球をどう打てばいいかなんて身体が覚えている。
きっと今すぐにボールを渡されても人並みには打てることだろう。
忘れているのは、そういうものじゃない。もっと大事なものを忘れてしまっているのだ。何を忘れてしまったのかをはっきりとわかってしまっているからこそ、俺はもう一度ラケットのグリップを握ることは出来なかった。
これ以上なにをしゃべるのも億劫に思えて、枕に顔を埋めた。
「とにかく、要らないなら要らないでちゃんと庭にまで運んでおいてね。そうじゃないとお母さんは捨ててくれないよ。ちゃんと、自分で捨ててよね」
それだけを言い残し、ユカはあっけなく部屋を出て行ってしまった。扉が閉まるのと同時に、おやすみ、と言うユカのか細い声が聞こえた。
俺は、テニスラケットと一緒に部屋へと取り残された。
捨てるのならば、庭にまで持っていく。簡単なことだ。これからシャワーを浴びに降りる際についでに持って行けばいい。そうしなければ、誰にも相手にされないままラケットは埃を被って居座り続けるだろう。
もう必要の無いものだ。
またテニスをやろうなんて、俺には思えない。
ラケットを、捨てる。それだけのこと。
「……なんだよ、くそ」
軽く吐き気がした。
一瞬だけ、頭の中がかき混ぜられたような感覚だった。
カメラのことも、ラケットのことも。
すべて忘れられたらどれだけ楽なことだろう。
ベッドのすぐ足元にはテニスラケットが転がっている。拾い上げることも出来た。蹴り飛ばすことも出来た。でも、なにもしない。
のらりと立ち上がり、俺は結局、視線も合わせず、何も持たずに階下へと降りた。
俺は、何を望んでいるのだろう。
わからなかった。わかりたくもなかった。
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