『魔術師の百年』
百年は長いか、
長くなかったと言えば、嘘になるだろう。百年なんて、待つ時間としては長すぎる歳月だ。年齢もまた、合わせると普通は生きない長さになった。
過ごしていたときのことを思い出すと、間違いなく長いと感じていた。
ヴォルフ・カルヴァートは一人の魔術師の弟子である。
神に祝福された目と言われる、左右色違いの目をした、天才魔術師。名を、リーデリア・トレンスと言った。
七歳のとき会った当初は、はっきり言ってあまり好きではなかった。
ヴォルフは親を早くに亡くし、それからは祖父母に育てられてきたが、その魔術師が現れ魔術の才があると言って、大層喜んだ祖父母に押される形で魔術師見習いとなることになったのだ。
祖父母と離れることは嫌だったし、魔術師になりたいなんて思わなかったヴォルフだったけれど、祖父母が喜び、将来的に楽をさせてあげられる仕事だと知って渋々だった。
首都なんて、行ったこともないから、不安も抱えながら。
文字さえ読めなかったヴォルフは、読み書きから教わった。読み書きが出来ないことにも、何に関しても、師匠となった魔術師は何も嫌な顔はしなかった。
どれだけヴォルフが間違えても、覚えが遅くても、肝心の魔術に入れもしないのに、怒ったこともなかった。
その魔術師は、ヴォルフがどれほど無愛想でも屈託のない笑顔を向けてきたし、不機嫌になったこともなかった。
師匠は、よく故郷に帰らせてくれた。
お土産を持って帰るぞ、とまるで街に出かける軽さでヴォルフの故郷まで行き、祖父母にヴォルフの成長過程を話していた。
魔術を学ぶようになると、師匠がどれほどすごい魔術師なのかが分かるようになった。
師匠は、天才だった。
そんな魔術師が自分に声をかけてきたのはなぜなのかと、勉強の合間に思うことはよくあった。
そしてその数が重なるほど、いつしか、それならば立派な魔術師に、それどころか追い付いてやるほどの魔術師になってやると、期待以上のことをしてやると思うようになっていた。
いつの間にか自然と「師匠」と呼ぶようになり、打ち解けていた魔術師は、ヴォルフの目標となっていた。ヴォルフは、自分の意思で魔術師となると思うようになっていた。
魔術が扱えるようになり、魔術式が自分で作れるようになり、魔術騎士の素質があると言われたり。
笑う師匠につられて、数えることなど出来ないほど笑った。
魔術での勝負を幾度となくした。いつも負けた。
お菓子を作らされるようになった。褒められることは嬉しかったが、何となく複雑だった。いつか絶対負かしてやる。
「いつか」と──ずっとこんな日々が続くと無意識から信じ、疑わなかった。
それは突然のことだった。
ある日、首都の外に師匠と出た。これ自体は何らおかしくとも何ともないことだ。用事であったり、師匠の気まぐれであったり、理由は何であれ時々あること。
だから突然だったのだ。
その日を境に、師匠の姿は消えた。
首都への帰り道、雨が酷くなると、悪路になりそうな行きの道を迂回するはずが、師匠が来た道を戻ると言った。
その先に広がっていたのは、濁流だった。家、人、何もかもを飲み込んだ水。
濁流から引き上げた二人のうち、子どもが死んでいた。親が咽び泣く側で、師匠が怒っていた。
それほどまでに怒った師匠を見たことがなかったヴォルフは騒ぐ部分を感じながら、言われた通りに水に飲まれた町の住人が避難している場所を探して、安否を確認した。
その後、雨が止むまでそこにいたが、師匠は来なかった。
教会に行くと、確かに来たと言う神官がおり、入っていった部屋まで案内してもらったが、扉が開かず中の様子を窺うことさえ出来なかった。どうやっても。
王宮に戻ってみても、師匠は戻っていなかった。師匠の師匠に聞いても、誰に聞いても見ていないという。
この時点でおかしかった。師匠がヴォルフを置いて戻ることは、まず考えられなかったからだ。
しかし、どこを探してもいないため、待つことになった。
これが、百年の始まりだ。
一日を、一週間を、一年を幾度重ねて待っても、師匠は帰って来なかった。
教会に何度行けど、師匠が入ったとされる祈りを捧げるための部屋は一つ閉まったままで、開けようとしても開かなかった。
神官も首を傾げるばかりで、いつしかその部屋は開かずの間となり、自然と忌避される場所ともなっていった。
ヴォルフは師匠が突然いなくなった毎日を、それでもいつも通りに過ごそうとしていた。
魔術の研究をし、過ごす。
ただ、いつもは研究に余程没頭していない限り話しかけてきたり、顔を合わせる姿、いつも部屋の中にある姿がなくなった。
それは、大きすぎることだった。
師匠の師匠は、「あの馬鹿者のことだ、そのうちけろりと戻ってくる」と言っていたが、心配していたことを知っている。
師匠の師匠は、師匠の父だ。
師匠の師匠は十年ほど経つと、亡くなった。
娘である師匠がいなくなってから、数年経つと、目に見えるほど衰弱しはじめていたのだ。
あまり親子らしいやり取りを見たことはなかったが、師匠の師匠は間違いなく娘を気にかけていたし、誇らしく思っていた。
彼は、娘の帰りを見ることなく、この世を去った。
ヴォルフもまた二十年ほど経った頃、不運にも流行り病を拗らせてしまった。
精神的に弱っている自覚はあったが、体まではそうだとは思っていなかったから、単に運が悪かったのだろう。死を予感した。
だが、死ねないと思った。
師匠を待たなければ。あの人は帰って来る。……そんな、使命感に似たものでいっぱいになったが、根にあったのはきっと単純な思いだった。
あれが別れであって堪るかと、また会いたいのだという思いがあった。
ヴォルフ・カルヴァートにとって、リーデリア・トレンスは特別な存在だった。
数年前に亡くなってしまった祖父母とは別の枠で、かけがえのない存在となっていた人。
まず第一に師匠であった。また、親のようでありながら、そうではないような。少し硬い口調をしながらも、中身や行動は子どものようだったのだ。
だから親のようだと言うには少しずれがあり、けれど、出会ってからずっとヴォルフの手を引き、導き、世界を見せてくれた。──大好きな人。
病に侵され、時がないと悟ったヴォルフの頭に過ったのは、師匠のある研究だった。不老不死の魔術。
最初聞いたときは「不老不死の魔術?」と、何だそれは、と聞き返した。
師匠はと言うと、
「昔々の王が、魔術師に作れと命じたことがあったそうだ。たが、当時の魔術師たちは作れなかった。それだけで挑戦してみたくなるというものだよ、弟子。お伽噺のようにあり得ない魔術。それが完成させられたならと思うと、心が踊る」
と、天才らしく未知への挑戦をする気のようで、完全に趣味で試みていた。
その後の進捗は知らないが、あれが使えたなら、不死の効果で病でも何によってでも死ぬことはない。
保管してある場所は知っていた。
師匠の家の仕事部屋だ。合鍵を持っていたヴォルフはいつ振りにか訪れた家、師匠の仕事部屋を漁った。
意識が朦朧としながら、探し、見つけた。
細かい進行状況など読んでいられる状態ではなかった。
荒く最後の頁を開き、複雑な魔術式を魔力で描く。
発動できなければ、どうせこのまま死ぬだけだ。このまま死ぬか、魔術の思わぬ効力で死ぬか、魔術が働くか。
なぜこんなことをしている。こんなことをしてどうするという思考を捩じ伏せたのは、ただ一つ、あまりに突然で呆気なかった『別れ』を別れだと認めたくなかったから。
目を閉じれば、瞼の裏に、まだ
そうして、ヴォルフ・カルヴァートはただ一つの思いを胸に、不完全な魔術を成立させた。
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