目覚める




 この感触、夢ではない。

 殴った感覚のある拳を見つめ、リーデリアは考える。

 大体、なぜ、死んだはずだと思ったのか。


「なぜ、生きて……」


 口からも、そんな言葉が零れた。

 そして、思い出す。

 神に怒り、ありったけの魔術を使ったのだ。魔術の元となる魔力は無理をすれば生命力も削る。意識が遠くなり、景色は傾き、倒れ、死ぬはずだった。

 死を感じた。だが、生きている。


「わたしは、あの魔術式を使ったのか……」


 ほぼ趣味で研究していた不老不死の魔術式。その術式は、未完成とはいえ、頭の中に入っている。


 死ぬ前に、その魔術式を展開させたことを覚えていた。

 まだ死なない、と。何の意志が働いたというのか、その魔術式を。


「……なぜ、なんて自分のことなのにわたしが覚えていなければ、誰も分かりようがない。……それにしても、おかしいな」


 おかしい、あり得ない。

 魔術式を発動させるには魔力がいるが、あの状況では魔力は枯渇していた。


 非現実的なほどに高度な魔術式を働かせる云々の前に、何の魔術を発動させるにも、とてもではないが足りなかっただろう。


 それに、そもそも例の魔術式は理論上でもまだ発動もできない代物であったはずで、だからこそ前もって使用することも思いつくに及ばなかった。


「お前が生きようとしていたのは分かったから、ちょっと私の力を少し貸しておいたよ。存在値というものを安定させておいた」


 なぜそんなものを自分が使ったのか、使えたのかは置いておき、リーデリアは体を起こす。

 声の方を見て、鼻を押さえて座っている姿を目にし、慎重に口を開く。


「きみは、神、だな」


 目覚める前の最後の記憶。

 この場に現れた神がいた。今は輝きが薄く見えるが、その存在感はやはり人にはないものだ。


 意識が「人」と認識できない。

 見た目から言えば、色が、何と言えばいいのだろう。見たことのない、この世に在らざる色だ。単に、これも人間の目が認識できていないだけだろうか。


 男性の姿をした「もの」は、鼻から手を離し、笑った。

 リーデリアは息を呑みそうになった。整っているとかいう次元ではなく、またその存在感も相まって綺麗すぎると思わせる造形が笑ったのだ。


「その通り。それも全ての神の頂点にいた神だよ」

「……最、高神……?」

「そうとも。とは言え、今は軽く休業中だけれど」


 思わず、絶句してしまう。

 神々は天に八柱、一から八まで位があるのではないが、ただその中の一柱だけは特別な扱いをされる。


 最高神──神々のうち、まとめる位置にあるとされ最も尊いとされる神のことだ。

 この、目の前にいるのが、最高神?


 ああ、でも、失望した。そして、それは絶望でもあるかもしれない。すべての神の上に立つ神が、あの雨を降らせ、人を殺していたのだ。


 驚きが冷め、リーデリアは気を取り直してその神に尋ねる。


「なぜ、わたしを殺さない」

「なぜ、と言われても」

「わたしは、きみを殺そうとしたんだ」


 間違いなく。そこを否定するつもりはないし、否定出来ないだろう。……殺せなかったが。


「あの目を向けられれば、さすがに分かる。そのようだね。そうそう、お前を見ている間にずっと考えていたのだけれど、なぜ私はそんな対象になったのか聞いても?」

「……人間を、殺すからだ」


 神は首を傾げた。


 いらっとする感覚が生まれた。彼らは気がつかない、気にしない、気にしようとしない。


 どこからともなく出てくる感情をぐっと抑え、リーデリアは努めて平静な声で語る。


「地上の天候は、神々によって変わる。確かに太陽も雨も、曇りでさえも、地に恵みを与えてくれるものだ。だが、それが度を過ぎるとどうなるか、知らないとは言わせない」


 酷すぎる天候に、人が死んだ。

 人は、贄を出そうとする。


 睨み、言うと、神は目を見張り、次いで、笑った。

 ふわり、と、嬉しそうにも笑ったのである。


「なるほど。だから殺そうとしたと。……人間にしては、聞いたことも見たこともない発想だ」

「そうだろうな」


 人々はそうするべきだと、それが自然で神々の思し召しだと思っている。

 リーデリアもそれがこの世界の在り方で、摂理だと思っていたときがあった。


 神々とは恵みを与えてくださる存在であり、この世界は神々がいるからこそ成り立っている。

 そのお陰で我々は暮らせており、時折の天候の具合は何か、神々が機嫌を損なうようなことがあったからだ。


 そうやって教えられていた。この地上のどこでも、同じのはずだ。


「だけどお前が言う、ここに来たきっかけである雨を降らせていた神は、私ではないんだよね」

「──は?」


 神経が尖っていたリーデリアは、間が抜けた声を出した。

 今、何と言った。


「私は偶々降りただけだ。念にも、叫びにも思えるものを感じたものでね」

「偶々……?」


 ぽかん、とすることになる。

 つまり、何だ、神違い、だというのか。

 あの雨を降らせた神ではない。


 …………確かに、リーデリアとて確かめた記憶はない。そもそも確かめるという考えが入る余地など、どこにもなかった。


 怒りに任せ──来た神を疑うことなく、見当違いにも魔術の槍の矛先を向けた。

 こういうことだ。


「……それは…………すまなかった」


 ひとまず謝らなければいけない気がして、リーデリアは頭を下げた。


「いいよ」


 神は軽くも許しを述べ、やはり微笑んでいる。

 教会の絵を思わせる微笑みだ。神とは、慈悲深い、と。


 頭の冷えたリーデリアは、次いで、自らの行動の危険性に気がついていた。

 その神を殺したとして、他の神々がどうするか。考えていなかった。


「……きみは、わたしがここにいる間もここにいたのか?」

「そうだよ」

「この世界を見ていたか?」

「ずっとではないけれど」

「他の神々による罰は、あったか?」


 神を攻撃したことで、他の神々の機嫌を損ねる可能性。


 自分でしておいて何だが、神を攻撃したなど、聞いたこともない。どのような罰が地上に降されるというのか、想像がつかなかった。


 火の海になっていてもおかしくない。


「なかったね。元々地上で人間が何をしようがあまり気がつかないし、単に私がどこかに行っているだけだと思っているようだ。不在にしているとはいえ、百年しか経っていないし」

「それなら良かっ──待て」

「ん?」

「百年、と言ったか……?」


 言ったよ、と神は頷いた。





 一番理解できないことだった。

 眉を寄せたリーデリアはもう一度繰り返す。


「……百年……?」

「そうだよ。あ、百年ぴったりではなく、百何年、百と何日かもしれない」

「いや、そこはわりとどうでもいい」


 百年。全てはこの点が問題なのだ。

 百年とは一体どんな長さの時のことだっただろう。……師匠の歳のまた上だ。

 人間が生きられる年数では、ない。


「不老不死の魔術式……」


 百年という、疑わしくもある歳月に無意識に姿を映すものを求めた。

 つるりとした石の壁を見て、床も同じ材質だと気がついて下を見る。

 黒髪に黄と橙色の双眸をした子どもがこちらを見ていた。

 ……子ども?


「……何だ、この姿は」


 リーデリアは床に手をついた。


 磨き抜かれた床は、鏡顔負けの働きをしている。

 リーデリアが覗き込めば、あちらから覗き込んでいるのはリーデリアのはずで。


 しかし、自分はこのような幼い姿はしていない。だからといって見覚えのない姿ではなく、小さな頃に見ていた姿そのもののような気がする。


 まさかまさかと思いながらも、腕や脚に今さらながらに違和感が出てくる。立ってみると背も低い気がした。そして、胸も小さくなっている。

 決定的と言えるのは、服がかなりぶかぶかだ。


「……縮んだ? いや、見た限りでは、若返った、の方が正しいか……?」


 万が一百年経っていて、不老不死の術式を使って生きていたとしても、そのまま歳を取らずに生きていなければおかしい。


 使った時点から歳を取らないようにという方向性で作っていたのだから。


「魔術式が、捻れたのか」


 未完成の魔術が、本来意図したこととは異なる効果を見せることを、「魔術式が捻れた」と言う。


 だが、気になる点が一点。

 元々あれは未完成の代物であり、完成していないものは、全く効果が出ないか、または発動できてもどのように効果が出るか、予想ができない。

 ここで「だが」、だ。これが……。


「人間がそのような術を持っているとは知らなかったよ」

「違う、これは成功するはずも働くはずもない魔術式だ……だった、はずだ」


 これが不老不死の術式が捻れて出た結果だとして──いや、もう使ったのは決定だ。その記憶がある。

 だから他に思い当たる節がない限り、捻れた結果と考えるべきだろう。


 気にするべきは、もっと根本的なところ。捻れたとはいえ、「成功」した事実だ。

 不老不死の魔術式、現実味がなく、あり得ないと魔術師全員が言うだろう代物。


 なぜ、なぜ、と疑問は止まらない。

 ……人間には手の届かないことを起こす存在を思い出した。


「……きみか?」


 リーデリアは、神の方を見る。


「さっき、『力を貸した』と言っていたな」

「そうだね。ちょっとだけだけれどね」

「成立するはずのない魔術式を補ったのか」


 神は黙って微笑んだ。


「なぜ」


 それならば、放っておけばリーデリアは死ぬのだったのだろう。

 それなのに、どうして魔術の補助をして助けた。


「お前の執念は、消えてしまうにはあまりに惜しい」

「は?」

「いや、それはこちらの話かな。私がお前の命を奪わなかったのは、単にそうする理由がなかったからだ。そして、珍しい行動をしたお前という人間に興味が湧いたから、かな。目覚めるのを楽しみにしていたんだ」


 この上なく輝かしく笑った神は、リーデリアに向かって首を傾げた。


「それで、これからどうする?」

「……どうする、とは」

「ここにずっといるわけでもないだろう?」


 そういえば、ここはどこだ。

 辺りを見渡す。

 白い壁、床。窓はなく、背後にある扉は閉まっているのに、柔らかい明るい光で満ちている。

 ……光は、目の前の神から発されているように見える。発光体か。便利だな。


「ここは、教会、か?」


 それはそうと、いる場所自体には見覚えがあった。

 神に文句をつけるために駆け込んだ教会の一室だ。


「私はここから出ていないし、お前のことも出していないよ」


 それなら、ここは教会なのだろう。


「百年、経ったのに、誰も入って来なかったのか……?」

「それは私が扉を閉めていたから」


 そうか。

 もう何も言うまい。


「とりあえず、今、どうなっているのか自分の目で確かめに行く」


 本当に百年経っているのか。

 経っているのなら、どうするかまた考えなければならないが、経っていなければあれからどうなったのか確かめる必要がある。

 まず、外に。これが先決事項だ。









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