眠り魔術師は百年後に目覚める。
久浪
『さよなら世界、ただいま世界』
プロローグ
魔術師リーデリアがその地に着いて最初に見たのは、濁流だった。
激しく降る雨の音をも飲み込む音を立て、勢いよく流れている。人里があったはずの場所は水で満ち、家々は、屋根さえも見当たらない。
「これは……」
想像以上に酷い。
リーデリアは顔をしかめた。
高かったはずの場所から見下ろしているが、ここも飲み込まれないとは断言できない。
ぶつかった水が、上がって来ようとしている。
もっと近づこうと思って歩みを進めると、雨に濡れた足元の草でずるりと滑りかけ、すんでのところで踏ん張り事なきを得る。
転ぶところだった。危ない。
「気をつけて下さい、師匠」
弟子には見られていたらしく声をかけられたが、リーデリアはろくに返事せず進む。
「……駄目ですね。全部飲み込まれています」
「そのようだな。……避難が、出来ていればいいのだが……。近くの山に行ってみよう」
「はい」
弟子を促し、飲まれた人里から目を離そうとした直前だった。
リーデリアは茶色の濁流の中に、人を見た。
「──人だ」
「え?」
聞き返される声をよそに、リーデリアは背負っていた荷物を下ろす。
縄を取り出すや、手を滑らせ、魔術を帯びさせる。
長さはそれなりにある。大丈夫、使える。
「師匠、無茶です」
「問題ない」
外套を脱ぎ、地面に放ると、衣服に雨が降り注ぎ、ものの数秒で濡れ鼠だ。
手早く腰に結んだ縄を、弟子の方に放ると、弟子は思わしくない顔をしていた。
「この縄を頼んだぞ」
魔術式を刻み込んだ縄だ。切れることはないから、どこかに結んでいてもらえればそれでいい。
リーデリアは笑い、弟子の方へ繋がる縄を揺らした。
リーデリアに真っ直ぐに見られた弟子は、薄青色の瞳を伏せるとため息をついた。折れたな。
彼は周りを見て、少し離れた場所に生える木まで行き、縄をくくりつけた。
「どうぞ、師匠」
いい弟子だ。縄の方は安心して任せておけばいい。
リーデリアは水の中に飛び込んだ。
すぐに激しい濁流に揉まれながらも、水に逆らい、確かに見た人を探す。
今度、これほどの水を割る魔術でも考えるか。
飛び込んだ場所に戻ると、弟子が引き上げるのを手伝ってくれる。
水を吐き出したリーデリアは、まとわりつく黒髪をかき上げ、よけて、引き上げた人の胸にすぐに手を当てる。
光が手のひらから生まれ、魔術式が溢れるが……。
「駄目だ」
用意した蘇生用の魔術が働かなかった。当然だ。目の前にしている子どもは、死んでいる。
死人は生き返らせることができない。
この場合の蘇生とは、心臓の鼓動が停止したり、呼吸が止まったりした者の内、まだ戻ってこられる状態にある者にのみ使えるものだ。
だが駄目だ。死んでいる。
濡れた衣服や、髪、顔から水が滴り落ちる。
一度脱いだ外套が後ろからかけられたが、リーデリアはそれを引っ掴み、亡骸を覆った。
祈りを口にしようとし──怒りが邪魔をした。祈って何になる。
空を仰げば広がっているであろう曇天からは、大粒の雨が止む気配なく落ち続けている。
空から目を逸らしながらも、もう一人引き上げた方に取りかかる。
もう一人は大人で、彼が子どもを掴んでいたのだ。気を失っているのに、離さなかった。
こちらは間に合った。蘇生の魔術が効いた証拠に、ごほっと水を吐き、目を開いた。
「良かった……大丈夫か。声は聞こえるか?」
「あ、あなたは」
「わたしは、首都から来た魔術師だ」
「魔術師……? 俺は、一体……」
「溺れていたんだ」
「──娘は」
何が起きたのか、思い出したのだろう。
その男に、掴んでいたはずの娘の安否を問われたが、リーデリアは首を横に振るしかなかった。
外套で覆った方を示すと、男は、亡骸にすがりつき、泣いた。
その姿を見るリーデリアは、拳を震わせた。歯を噛み締め、怒りが大きくなっていくことを感じていた。
「なぜ、雨は止まない……。神々は何をしている……!」
「師匠、聞こえては事ですよ」
「知ったものか、──どうせ人間の声など聞いていないだろう……!」
リーデリアは激昂の声を上げた。
神々は、自分たち人間をがらくた以下にしか思っていない。そうでなければ、どうしてこんなことができる。
国には王がおり、国は王が治める。
だがこの世界は、神が治めている。
天上におり、時折気まぐれに地上に姿を現す神々は地上に力を及ぼし、人間を翻弄する。
この際翻弄すると言えば、聞こえが良すぎるかもしれない。
神々の力は、人智を越えた大きすぎるものだ。
例えば天気は神に左右される。太陽、雨、地上の恵みに必要なものだ。
しかし、酷い天気は基本的に神の気まぐれによってもたらされる。
必要以上の雨が降り、川が氾濫し、水が溢れ、人里に流れ込み、人が飲み込まれ、多くの人が死ぬ。
死んだ。
「これは神々の思し召しだ……この子は天命をまっとうしたんだ……」
娘の前に膝をつく男の呟きが聞こえ、思わずリーデリアは彼の肩に手をかけた。
「そんなことがあってたまるか! しっかりしろ!」
肩を掴む手が、怒りに震える。そんなはずはない。あっていいはずがない。
だが、濁流に飲まれた町の住民の目は虚ろだ。
「……ああ、神様に贄を出さねば、どうにか雨を止めてもらわなければ……」
贄という風習がある。
神々による酷い天候の揺れに際し、人間は供物、祈りを捧げ、神々の怒りを和らげようとする。または、機嫌を取ろうとする。
そして災害レベルにもなると、人間が祈りを捧げながら命を捧げるという手法が取られるという。
それは、小さな集落、村、町になればなるほど強い傾向として表れる。
リーデリアも知識としては知っていたが、実際に目の当たりにするのは初めてだ。
「
言葉を繰り返したリーデリアは、男の肩から手を離し、拳を握る。
「なるほど、贄か。……祈るのならば、わたしが教会に行って神に言葉を届けてこよう」
自分が行って来ようではないか。
「ここから一番近い教会でいいな」
「師匠?」
「ヴォルフ、きみはこの人を送り届け、怪我をしている人がいれば治療するんだ」
「師匠は、何を」
神に直談判してくるんだ、とリーデリアは抑揚の欠けた声で答えた。
ふざけた神に、鉄槌を。
教会と呼ばれるものがある。
神に祈りを捧げ、言葉を聞き、供物を捧げるための場所だ。常に清められた場所でのみ、行われることが許される。
時に、神々により起きた天災を収めてもらうために贄を捧げることもまた、同じ場所で。
「祈り、命を捧げよ、か。馬鹿馬鹿しい」
死ぬものか。この下らない連鎖を断ち切るまでは、死ぬものか。
しかし、神はこの場に姿を現すのだろうか。
「教会というのは、どれほど神々と繋がりがあるのか……。贄を捧げられても、彼らは気がつくとは思えないな……」
それに贄を捧げられて彼らにメリットがあるのか、配慮をしてくれているのかも疑わしい。
「降りて来ないなら、それでいい。魔術を天に打ち上げてやろう」
怒りを胸に、手のひらを宙に滑らせ、魔術式を展開する。強く。自身が知る、最も強力で、壊すためにあると言ってもいい魔術を組み立てる。
リーデリアは本気だった。
たった一つ、あの光景を見てから胸にあるのは怒りだったから──。
「おや、何かいるとは思ったが、人間だ」
透き通る声が、耳に通った。
前を見ると、光を纏う存在がそこにいた。
──現れた。
本能で悟り、目を奪われたのはつかの間のこと。
頭に激しく過ったのは、幾人を飲み込んだか分からない濁流。嘆く者。そしてこれまでに聞いてきた被害の数々。
神々が起こしてきたことだ。
標的、変更。
「きみのような神など、消えるべきだ」
リーデリアは怒りを胸に、生命力までも魔力に変換し、持ちうる限りの力を放った。
地上を荒らす神など、いらない。
消えろ。消えてしまえ。
この地のために。人の安寧のために。
怒りに支配され、何もかもを圧倒的な威力を誇る魔術に込めたリーデリアは力尽き、死んだ。
はずだった。
*
白い天井を見た。
足が冷たい。空気が冷たい。
「……死んだ、はずなのだが……」
リーデリアは目覚め、
「ああ、起きたね」
「──きみは」
視界に映り込んできた姿を認識したが途端、拳を振り上げ、殴った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。